婚約破棄された令嬢ですが、帳簿があれば辺境でも無双できます ~追い出した公爵家は、私がいないと破産するらしい~

Lihito

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第1章:辺境復興編

4話:幕間 残された帳簿

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ヴァレンシア公爵、エドワードの朝は、帳簿の山から始まる。

正確には、帳簿の山を前にして途方に暮れるところから始まる。もう二週間以上、毎朝同じことを繰り返していた。

執務室の机の上に、革表紙の帳簿が積み上がっている。東方商会との取引台帳。領地の税収報告書。各部門の支出明細。使用人の給与管理簿。どれも開いたことがない。開く必要がなかった。全部、アイリスがやっていたから。

エドワードは帳簿を一冊手に取り、開いた。
数字が並んでいる。それだけは分かる。だが、どの数字が何を意味しているのか、どこを見れば何が分かるのか、さっぱり分からない。

ページをめくる。また数字。めくる。数字。

閉じた。

「ドルトン!」

返事がない。ドルトンは辺境に向かったまま、まだ戻っていない。

「……誰でもいい、誰か来い」

使用人が一人、おそるおそる顔を出した。

「旦那様、何か——」

「この帳簿、東方商会への支払い期限はいつだ」

「さあ……アイリス様がいつもやっておられましたので……」

「分かっている。だから聞いているんだ」

「存じ上げません」

使用人が去った後、エドワードは机に肘をつき、額を手で覆った。

東方商会への支払い。期限はとっくに過ぎている。催促の書簡は三通届いていた。一通目は丁寧な文面だった。二通目はやや硬くなった。三通目は、端的に言えば脅しだった。

それだけではない。
領地の税収報告が未提出で、王都から督促が来ている。体裁を取り繕おうにも、元の数字が分からないのだから取り繕いようがない。
先日は、取引先の商人が直接館を訪ねてきた。「支払いの見通しを」と。エドワードは「近日中に」と言った。近日中がいつかは、自分でも分からなかった。

(あの子は……これを一人でやっていたのか)

その考えが頭をよぎるたびに、エドワードは別のことを考えようとした。
あれは必要なことだった。王子殿下に逆らうわけにはいかなかった。仕方のないことだった。

帳簿を開き直す。数字を追う。何も分からない。閉じる。

その繰り返し。

***

ドルトンが帰ってきたのは、三日後の夕方だった。

エドワードは応接室で待っていた。ドルトンが入ってきた瞬間、何かがおかしいと気づいた。顔色が悪い。元々血色のいい男ではないが、今日は紙のように白い。

「どうだった。薬草の取引は止められたか」

ドルトンは目を逸らした。

「あの女は……アイリス様は、従いませんでした」

「何?」

「それどころか——」

ドルトンが喉を詰まらせた。

「帳簿のことを、全部知っていました」

エドワードの眉が動いた。

「帳簿?」

「私の……支出報告の不整合を、全て把握しておられました。五年分です。雑費の水増し、架空の修繕費——全部」

沈黙が落ちた。

「……どういうことだ」

「あの方は、公爵家の帳簿の中身を全て記憶しておられるのです。どこに何が書いてあるか、どの数字が合わないか。私が——その——」

ドルトンの声が小さくなる。

「……横領を」

「やめろ」

エドワードが遮った。聞きたくなかった。聞けば対処しなければならない。対処する方法が分からない。

「それで、取引は」

「止められません。書類を出しましたが、あの方は——帳簿の記憶だけで、公式文書を退けました」

エドワードは黙った。
帳簿の記憶だけで。あの子は昔からそうだった。数字を一度見たら忘れない。どこに何があるか、全部頭に入っている。その能力がどれほど公爵家を支えていたか、いなくなって初めて分かった。

いや、分かっていた。分かっていて、見ないふりをしていた。

「それと、アイリス様から伝言です」

「……何だ」

「『帳簿の引き継ぎ、まだ終わってないんじゃないですか?』と」

エドワードは目を閉じた。

***

翌週、エドワードは王都にいた。

レオナルド王子の居室を訪ねるのは、公爵としてもなるべく避けたいことだった。だが、もう選択肢がなかった。東方商会からの最後通告が届いた。来月末までに支払いがなければ、取引の全面停止と債権の回収に入る、と。

「——というわけでして、殿下。娘を追放して以来、帳簿が回りません。どうか、何か手立てを——」

「うるさいな」

レオナルドは長椅子に横たわったまま、天井を見ていた。
金髪を無造作にかき上げる。整った顔立ちだが、目に知性の光はない。退屈そうに欠伸を噛み殺しながら、公爵の訴えを聞き流している。

「お前のところの帳簿なんか知らんよ。経理係を雇えばいいだろう」

「それが、アイリスの仕事を引き継げる者がおりませんで——」

「たかが帳簿だろう。誰でもできる」

エドワードは言葉を飲み込んだ。誰でもできるなら、自分がやっている。できないからここにいる。

「ドルトンを送ったのですが、追い返されてしまいました。あの子は——アイリスは、公爵家の帳簿を全て記憶しておりまして、ドルトンの弱みを——」

「だから何だ」

レオナルドが身を起こした。面倒くさそうに。

「あの女がいないと帳簿が回らない。ドルトンを送ったら追い返された。それで俺にどうしろと?」

「何とかしていただけませんか」

「何とかって何だ。具体的に言え」

エドワードには具体案がなかった。あるなら自分でやっている。

レオナルドは鼻で笑った。

「情けないな、公爵。娘一人いなくなって右往左往か」

その言葉に、エドワードは何も返せなかった。事実だからだ。

しばらく沈黙があった。

レオナルドが天井を見上げたまま、唐突に言った。

「……まあいい。俺が行ってやるよ」

「は?」

「視察だ。辺境とやら、一度見に行ってやる」

エドワードが目を瞬かせた。

「殿下が、直接……?」

「あの女、辺境で惨めに暮らしてるんだろう? 俺が直々に『戻ってこい』と言ってやれば済む話だ。婚約はもうないが、公爵家の帳簿係としての体裁くらいは戻してやる」

レオナルドは立ち上がり、鏡の前で髪を整えた。

「ちょうど暖かい時期だしな。たまには王都を離れるのも悪くない」

自分の顔に満足したように頷く。

「ただし——言い寄られたら面倒だから、その辺は注意しないとな」

エドワードは口を開きかけた。アイリスがレオナルドに言い寄る可能性は、帳簿の数字が自然に合う可能性と同程度にはゼロだ。だが、言わなかった。言う意味がない。

「ありがとうございます、殿下」

「礼はいい。俺の器の大きさを見せてやるだけだ」

レオナルドは上機嫌で部屋を出ていった。
ミレーヌに報告しに行くのだろう。「俺があの女を連れ戻してやる」と、得意げに。

***

一人残された応接室で、エドワードは窓の外を見た。

王都の街並み。整った石畳、行き交う馬車、賑やかな市場。
アーレン領とは何もかもが違う。あの子は今、あの荒れ地で何をしているのだろう。

帳簿を回している、に決まっている。あの子はそういう人間だ。

(……すまない、アイリス)

その言葉は、口から出ることはなかった。
目を逸らすことには、もう慣れていた。
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