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第1章:辺境復興編
12話:幕間 王子の策
王都の王子居室は、相変わらず無駄に広かった。
レオナルドは長椅子に寝転がって、天井の装飾を睨んでいた。辺境から戻って一週間。あの屈辱が頭から離れない。
帳簿を広げて、数字を並べて、法律を持ち出して。衆人の前で恥をかかされた。連れ戻してやると言ったのに、断られた。あの無表情な騎士に睨まれて、背を向けて帰った。
「殿下、お気持ちは分かりますが、もう忘れた方が——」
「忘れられるか」
ミレーヌが隣で困った顔をしている。帰ってからずっとこの調子だ。
そもそも、あんなことになったのはドルトンのせいだ。あの無能が事前に行って追い返されておきながら、まともに報告しなかった。「従いませんでした」の一言で済ませやがって。あの女が帳簿で武装していると分かっていれば、こっちも準備のしようがあった。
結果、帳簿の知識などない自分が丸腰で乗り込んで、好き勝手言われた。
(だが——)
レオナルドは身を起こした。
女一人で辺境の小さな領地を回している。薬草を採って売るだけの商売だ。帳簿がどれだけ綺麗でも、現場に弱みがないわけがない。女の細腕で、あの荒れ地で、人手もないのに。どこかに綻びはある。
正面からでは帳簿で防がれる。なら中に入ればいい。
「ミレーヌ、一つ思いついた。あの女の領地、薬草で稼いでるんだろう。薬草の専門家を送り込んでやる」
「支援、ですか?」
「名目はな。中に入れてしまえば、女一人で回してる粗なんかすぐ見つかる。帳簿に穴がないなら、現場に穴を作ればいい」
ちょうど使える駒がいる。
「おい、トビアス・ヴェーバーを呼べ」
***
王子の居室に、一人の男が通された。
トビアス・ヴェーバー。三十前。薬師の作業で荒れた手と、寝不足の目をしている。
呼び出された理由は聞かされていない。部屋に入ると、レオナルドが長椅子から立ち上がった。
「久しぶりだな、トビアス。息災か」
「はい、殿下のおかげで」
「母上のお加減は」
「お気遣い痛み入ります。薬で落ち着いてはおりますが——」
「そうか。案じていた」
レオナルドは窓辺に歩き、外を見た。芝居がかった間を取る。
「トビアス。お前に頼みたいことがある」
「何なりと」
「辺境のアーレン領に、追放された公爵令嬢がいる。アイリス・ヴァレンシアという女だ」
トビアスの眉が動いた。名前くらいは聞いている。公爵家の金を横領し、婚約を利用して不正を行い、追放された令嬢。
「あの女が辺境で薬草商売を始めた。品質管理も流通も杜撰なまま、金だけ稼いでいる。このまま放置すれば、粗悪な薬が市場に出回りかねない」
嘘だった。アイリスの薬草事業は品質管理も流通も堅実だ。だがトビアスはそれを知らない。
「お前の目で確かめてきてほしい。薬師としての知見で、実態を報告してくれ。問題があれば正す。それだけだ」
「……お任せください」
「頼んだぞ。——ああ、それと」
レオナルドが振り返った。
「お前の弟子、リーゼといったか。ギルドでの立場が危ういと聞いている。この件がうまくいけば、俺から口を利いてやる。母上の治療費も、心配しなくていい」
トビアスが頭を下げた。深く。
「……ありがとうございます、殿下」
「礼はいい。お前は正しいことをした男だ。俺はそれを忘れない」
トビアスが退出した。扉が閉まる。足音が遠ざかっていく。
完全に聞こえなくなってから、レオナルドは長椅子に戻った。足を組む。
隣室から、ミレーヌが顔を出した。
「行きましたわね」
「ああ」
「殿下、とても立派でしたわ。あの方のことを本当に心配しておられるのですね」
「はは。ミレーヌ、お前は本当に素直だな」
レオナルドが笑った。さっきまでの「恩人」の顔ではない。
「あいつを干したのは俺だよ」
「え?」
「二年前、ギルドの不正を告発しただろう。あの不正の上前は俺にも入ってた。告発が通ったら俺の名前が出る。だからギルドに圧力をかけて、告発した方を追い出させた」
ミレーヌが目を丸くした。
「あいつは俺を恩人だと思ってる。追い出された後に拾ってやったからな。実際には薄給で飼い殺しにしてるだけだが、母親の治療費がかかるから辞められない。弟子の立場も俺が握ってる」
「まあ……」
「いいか、ミレーヌ。人間は何ごとも使いようだ。俺に楯突いた目障りな男だったが、腕は本物だからな。こういう時に便利なんだよ」
レオナルドは天井を見上げた。
「あいつが辺境に入り込んで、あの女の弱みを掴んで戻ってくれば、今度こそ終わりだ」
「殿下はお賢いのですね」
「だろう?」
鏡の前で髪を整える。自分の顔に満足げに頷いた。
この策が自分の首を絞めることになると、レオナルドはまだ知らない。
***
トビアスは宿舎に戻り、荷物をまとめていた。
狭い部屋。薬草の匂いが壁に染みついている。机の上に母への薬の処方箋。棚には弟子のリーゼから届いた手紙。「先生、いつ戻れますか」。
戻れない。ギルドに戻る道は閉ざされている。
殿下の仕事をこなすしかない。母のため。リーゼのため。
極悪令嬢を止める仕事だ。後ろめたいことは何もない。不正を暴くのは、自分がギルドでやろうとしたことと同じだ。
荷を閉じかけて、手が止まった。
さっきの殿下の顔が浮かぶ。「俺はそれを忘れない」と言った時の目。優しかった。優しかったはずだ。
なのに、何かが引っかかる。扉が閉まる直前、一瞬だけ見えた口元。笑っていたような——。
(考えすぎだ)
恩人を疑ってどうする。
荷物を閉じた。明日、辺境に発つ。
レオナルドは長椅子に寝転がって、天井の装飾を睨んでいた。辺境から戻って一週間。あの屈辱が頭から離れない。
帳簿を広げて、数字を並べて、法律を持ち出して。衆人の前で恥をかかされた。連れ戻してやると言ったのに、断られた。あの無表情な騎士に睨まれて、背を向けて帰った。
「殿下、お気持ちは分かりますが、もう忘れた方が——」
「忘れられるか」
ミレーヌが隣で困った顔をしている。帰ってからずっとこの調子だ。
そもそも、あんなことになったのはドルトンのせいだ。あの無能が事前に行って追い返されておきながら、まともに報告しなかった。「従いませんでした」の一言で済ませやがって。あの女が帳簿で武装していると分かっていれば、こっちも準備のしようがあった。
結果、帳簿の知識などない自分が丸腰で乗り込んで、好き勝手言われた。
(だが——)
レオナルドは身を起こした。
女一人で辺境の小さな領地を回している。薬草を採って売るだけの商売だ。帳簿がどれだけ綺麗でも、現場に弱みがないわけがない。女の細腕で、あの荒れ地で、人手もないのに。どこかに綻びはある。
正面からでは帳簿で防がれる。なら中に入ればいい。
「ミレーヌ、一つ思いついた。あの女の領地、薬草で稼いでるんだろう。薬草の専門家を送り込んでやる」
「支援、ですか?」
「名目はな。中に入れてしまえば、女一人で回してる粗なんかすぐ見つかる。帳簿に穴がないなら、現場に穴を作ればいい」
ちょうど使える駒がいる。
「おい、トビアス・ヴェーバーを呼べ」
***
王子の居室に、一人の男が通された。
トビアス・ヴェーバー。三十前。薬師の作業で荒れた手と、寝不足の目をしている。
呼び出された理由は聞かされていない。部屋に入ると、レオナルドが長椅子から立ち上がった。
「久しぶりだな、トビアス。息災か」
「はい、殿下のおかげで」
「母上のお加減は」
「お気遣い痛み入ります。薬で落ち着いてはおりますが——」
「そうか。案じていた」
レオナルドは窓辺に歩き、外を見た。芝居がかった間を取る。
「トビアス。お前に頼みたいことがある」
「何なりと」
「辺境のアーレン領に、追放された公爵令嬢がいる。アイリス・ヴァレンシアという女だ」
トビアスの眉が動いた。名前くらいは聞いている。公爵家の金を横領し、婚約を利用して不正を行い、追放された令嬢。
「あの女が辺境で薬草商売を始めた。品質管理も流通も杜撰なまま、金だけ稼いでいる。このまま放置すれば、粗悪な薬が市場に出回りかねない」
嘘だった。アイリスの薬草事業は品質管理も流通も堅実だ。だがトビアスはそれを知らない。
「お前の目で確かめてきてほしい。薬師としての知見で、実態を報告してくれ。問題があれば正す。それだけだ」
「……お任せください」
「頼んだぞ。——ああ、それと」
レオナルドが振り返った。
「お前の弟子、リーゼといったか。ギルドでの立場が危ういと聞いている。この件がうまくいけば、俺から口を利いてやる。母上の治療費も、心配しなくていい」
トビアスが頭を下げた。深く。
「……ありがとうございます、殿下」
「礼はいい。お前は正しいことをした男だ。俺はそれを忘れない」
トビアスが退出した。扉が閉まる。足音が遠ざかっていく。
完全に聞こえなくなってから、レオナルドは長椅子に戻った。足を組む。
隣室から、ミレーヌが顔を出した。
「行きましたわね」
「ああ」
「殿下、とても立派でしたわ。あの方のことを本当に心配しておられるのですね」
「はは。ミレーヌ、お前は本当に素直だな」
レオナルドが笑った。さっきまでの「恩人」の顔ではない。
「あいつを干したのは俺だよ」
「え?」
「二年前、ギルドの不正を告発しただろう。あの不正の上前は俺にも入ってた。告発が通ったら俺の名前が出る。だからギルドに圧力をかけて、告発した方を追い出させた」
ミレーヌが目を丸くした。
「あいつは俺を恩人だと思ってる。追い出された後に拾ってやったからな。実際には薄給で飼い殺しにしてるだけだが、母親の治療費がかかるから辞められない。弟子の立場も俺が握ってる」
「まあ……」
「いいか、ミレーヌ。人間は何ごとも使いようだ。俺に楯突いた目障りな男だったが、腕は本物だからな。こういう時に便利なんだよ」
レオナルドは天井を見上げた。
「あいつが辺境に入り込んで、あの女の弱みを掴んで戻ってくれば、今度こそ終わりだ」
「殿下はお賢いのですね」
「だろう?」
鏡の前で髪を整える。自分の顔に満足げに頷いた。
この策が自分の首を絞めることになると、レオナルドはまだ知らない。
***
トビアスは宿舎に戻り、荷物をまとめていた。
狭い部屋。薬草の匂いが壁に染みついている。机の上に母への薬の処方箋。棚には弟子のリーゼから届いた手紙。「先生、いつ戻れますか」。
戻れない。ギルドに戻る道は閉ざされている。
殿下の仕事をこなすしかない。母のため。リーゼのため。
極悪令嬢を止める仕事だ。後ろめたいことは何もない。不正を暴くのは、自分がギルドでやろうとしたことと同じだ。
荷を閉じかけて、手が止まった。
さっきの殿下の顔が浮かぶ。「俺はそれを忘れない」と言った時の目。優しかった。優しかったはずだ。
なのに、何かが引っかかる。扉が閉まる直前、一瞬だけ見えた口元。笑っていたような——。
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恩人を疑ってどうする。
荷物を閉じた。明日、辺境に発つ。
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