【完結】帳簿令嬢の答え合わせ ~その不正、すべて帳簿が覚えています~

Lihito

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第1章:辺境復興編

15話:三百五十の男

トビアスが来て一週間。軟膏の試作は三壺目に入っていた。

最初の二壺で工程を固め、三壺目で再現性を確認する。トビアスが温度と時間を記録し、私が原価と歩留まりを計算する。連携が噛み合ってきた。

三壺目の蓋を開けた。色、香り、質感。最初の一壺と同じ品質。

「再現できてるわね」

「工程表通りに作れば、誰がやっても同じ品質になるはずです」

「それが大事なの。属人化したら量産できない」

テーブルに計算用紙を広げた。数字が揃ってきた。

レムリア草の採取コスト。加工の人件費と設備費。軟膏一壺あたりの原価。販売価格との差額。月産量の上限。

「トビアス、月に何壺まで一人で作れる?」

「道具が揃えば、三十壺は」

「三十壺。金貨で二百四十枚から三百枚の売上。原価を引いて——」

ペンが走る。

「純利益、月あたり金貨百八十枚。生売りの時の四倍以上」

(四倍)

年間に換算すると、金貨二千枚を超える。アーレン領の現在の年間収入が金貨四百枚程度だから、五倍の上積み。

「トビアス、人を増やせばもっと作れる?」

「工程表がありますから、手先が器用な人間なら教えられます。二人いれば月産六十壺、三人なら——」

「待って。製造人員の増加に対する品質低下リスクも計算しないと。あと、市場に一気に流すと価格が崩れるから、出荷量の調整も——」

「あの」

トビアスが遠慮がちに口を挟んだ。

「何?」

「もう少し落ち着いて話しませんか。お茶が冷めてます」

(……そんなに早口だった?)

冷めた茶を飲んだ。落ち着け。まだ試作の段階だ。

***

午後。作業場を片づけた後、トビアスが改まった顔で言った。

「アイリス様。お話があります」

椅子に座った。グレンが壁際にいる。トビアスはグレンの方を見た。それから私の方を見た。膝の上の手が、作業着の布を握っている。

「グレンはいいわ、そのままで」

トビアスが息を一つ吐いた。言葉を探しているというより、言葉を出す覚悟を固めている顔だった。これを言ったら、もう引き返せない。そういう種類の間。

「私がここに来た本当の理由を、お伝えしなければなりません」

「聞くわ」

「殿下に命じられました。アーレン領に入り込み、あなたの弱みを探してこい、と」

黙って聞いている。

「殿下は仰いました。追放された令嬢が杜撰な商売をしている、品質管理もできていない、このまま放置すれば粗悪な薬が市場に出回る、と。私はそれを信じてここに来ました」

トビアスが頭を下げた。

「嘘でした。全部。帳簿は正確で、住民はあなたを信頼していて、薬草の品質管理も——杜撰どころか、王都の商会より余程まともです。殿下に言われた通りの報告など、できません」

「知ってたわ」

トビアスが驚いたように顔を上げた。

「最初から?」

「レオナルドが善意で人を送ってくるわけないでしょう。二回負けて、今度は中から崩そうとした。分かりやすい人よ」

「では、なぜ受け入れたのですか」

「あなたの手を見たから。薬草で荒れた手をしてた。長年やってきた人間の手よ。腕は確かそうだったし、悪意は感じなかった」

トビアスが自分の手を見た。荒れた指先。爪の間に染みついた薬草の色。

「それと——一つ、気になっていたことがあるの」

「何でしょう」

「あなたがギルドを追われた経緯。不正を告発して除名されたと聞いてるわ」

「……はい」

「告発の時期と、ギルドが処分を決めた時期。その間に何があったか、帳簿を追えば出てくると思うの」

トビアスの目が動いた。

「ギルドの上層部だけの判断で、告発者を除名するのは難しい。外から圧力がかかったはず。誰がギルドに口を利けるか。誰が告発を潰すことで利益を得るか」

言葉を選んだ。確証はない。でも辻褄は合う。

「たぶんね——あなたを干したのも、レオナルドよ」

トビアスの顔から色が消えた。

「告発で明るみに出そうになった不正。その上前が殿下にも入っていたとしたら、告発が通ったら困るのは殿下の方。だからギルドに圧力をかけて、告発した側を追い出させた」

「そんな——殿下は、告発を認めてくださった。腐敗を正す勇気があると——」

「追い出した後で拾ったのよ。潰した相手を恩着せがましく拾い上げて、薄給で手元に置いた。逆らえないようにして」

「母の治療費も——」

「辞められない理由でしょう。お弟子さんの立場も同じ」

トビアスが黙った。長い沈黙だった。

彼の頭の中で、何かが繋がっていくのが見えた。恩人だと思っていた男の顔が、一枚ずつ剥がれていく。

「……確証は、あるのですか」

「ないわ。帳簿を追えば出てくるかもしれないけど、王都のギルドの帳簿なんて辺境からは見られない。ただ、時系列の辻褄は合う」

トビアスの手が震えていた。膝の上で握り締めている。

ここで追い打ちをかけるのは簡単だ。でも、それはレオナルドと同じやり方になる。弱っている人間を都合よく使うのは、あの男の手口だ。

「トビアス。あなたの腕は本物よ。この一週間で分かった」

「……」

「ここで働く気があるなら、仕事はあるわ。加工の技術者が必要だし、あなたにはその力がある」

「でも、母が——弟子のリーゼが——」

「私が何とかするから」

口にしてから、自分でも少し驚いた。帳簿の数字ではない。計算の裏付けがあるわけでもない。ただの言葉。

でも、今はこれでいい。

「お母様の治療費は、軟膏事業の利益から出せる。計算は既にしてあるわ。お弟子さんの件は、受け入れ先を探す必要があるけど——東の港町に薬師ギルドの支部があるはず。王都のギルドとは管轄が違う」

「……すぐには、答えられません」

「急がないわ。考えて」

トビアスが立ち上がった。深く頭を下げて、作業場を出ていった。

扉のところで、一瞬だけ足が止まった。作業台の上の試作三号に目がいったのが見えた。自分が作った軟膏。それから視線を切って、出ていった。

壁際のグレンが、黙ってトビアスの背中を見送っていた。

「グレン」

「……はい」

「あの人、逃げると思う?」

「いいえ」

即答だった。意外だ。グレンは人を信じない男のはずなのに。

「根拠は?」

「逃げる人間は、あんな顔をしません」

それだけ言って、グレンも出ていった。

一人になった作業場で、試作の軟膏を手に取った。澄んだ緑色。トビアスが作った三壺目。

鑑定した。

【レムリア草軟膏(試作三号)】
現在価値:85
潜在価値:320

生のレムリア草より数字が高い、一壺での数字だ。加工で価値が上がった。

(この人の手から出たものは、ちゃんと価値がある)

350の男。飼い殺されて、本来の力を使わせてもらえなかった男。

ここなら使える。ここでなら、1,800に届くかもしれない。

壺を棚に戻して、執務室に向かった。計算の続きがある。トビアスが「はい」と言った時のために、数字を揃えておかなければ。
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