5人の勇者を「500人」と報告したら、魔王様が和平の準備を始めました

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温厚篤実なサイコパス? 〜娘が惚れた男は、魔王には死神に見える件〜

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 魔王城の執務室は、冷房魔導具が空しく唸るだけの静寂に包まれていた。かつては大陸制覇の夢に燃えていたこの部屋も、今や中間管理職の絶望を煮詰めたような、重苦しい湿気に満ちている。ゼノンは、自らの魔力を注ぎ込んで維持している巨大な「鏡通信」の前に、幽霊のように座り込んでいた。

 鏡の向こう側、長女リリスの冷ややかな視線は、もはや実の父親を見るそれではなく、無能な取引先を値踏みする冷徹な査定官のようであった。

「……それで、勇者側は本当に和睦するつもりがあるのだな? 後から『やっぱり無しで』とか、落とし穴に落とすような真似はされないだろうな?」

 ゼノンが震える声で尋ねると、リリスは事務的に、一点の曇りもない動作で頷いた。 

「はい、お父様。条件もお父様のおっしゃる通りで概ね合意が取れています。大陸の半分、および秘宝の譲渡。魔王軍の撤退。これに異論はないとのことです」
「おお、そうか! 意外と話のわかる連中で助かる。……ああ、そうだ。一番大事なことを忘れていたぞ」

 ゼノンは身を乗り出し、何やら分厚い帳簿のようなものをカメラ(鏡)の前に突き出した。 

「あと、後宮ハーレムもだな? あそこにいる百人の美女たちも、ぜひ勇者たちに一括で引き取ってほしいのだ。むしろ、これこそが我が軍の和平における『最優先条項』と言っても過言ではない!」

 リリスは眉間に皺を寄せ、心底嫌そうな顔をした。 

「後宮は結構です」
「いや、そんなことないだろ。女のお前には分からないかもしれんが、ハーレムは男の子の夢なんだよ。七百五十人……いや、七百七十七人だったか? そんだけいれば、絶対に中には欲しいって子がいるから!」
「いません! 皆無! ゼロです」

 リリスの断固たる拒絶が、鏡を越えてゼノンの胸を刺した。 

「勇者様たちはそのような俗世の欲とは無縁の、気高い方々なのです。私たち三姉妹が勇者様の側にいれば十分ですわ」
「どうしても?」
「どうしてもです」

 ゼノンが肩を落とすと、リリスは咳払いをしてから言った。

「……では、和睦を進めてよろしいですね? 私たちが立会人となって、速やかに仮調印の儀を執り行います。お父様はただ、こちらへ来て判を押すだけで結構ですわ」
「いや、ちょっと待て。……それがな、リリス」

 ゼノンの脳裏に、監察官ルナリアの冷たい警告が蘇る。 

『戦わずに講和したとなれば、よくて更迭、悪ければ死罪……奥様にも見放されるでしょうね』

「……その……だな、私もこの中央大陸攻略軍の最高指揮官としてだ。ただニコニコして大陸を半分差し出すわけにもいかんのではないか、と思ってな」
「……どういうことですか?」
「まあ、なんだ……。勇者殿と……その、な。形だけでも、一騎打ちをしてみるのもいいのではないかと思っているのだが……」
「はあ? 和睦する直前に何で斬り合いをするんですか? バカじゃないですか」
「そうはっきり言うなよ! これには大人の事情、組織の論理というものがあるんだ! 私の立場上、どうしても必要なんだ!」

 ゼノンが必死に食い下がると、リリスは深く、地の底から響くようなため息をついた。 

「立場……なるほど、お父様が保身のために勇者様を利用したいということですね」
「まあ、そうだが……あんまりはっきり言うなよ」

 ゼノンは手の平で顔を拭うようにして、話を続けた。 

「ところで、リリス。お前、その七百七十七人の勇者のうちの、トップ的な者と交渉できたのか? まさか雑兵と話したわけではあるまいな」
「はい、代表者の方とじっくりお話ししましたわ」
「おおっ! さすがだ! ……で、どんな人物なのかな、彼は? 七百人以上の荒くれ者を束ねるとなると、相当なカリスマか、あるいは恐怖で支配する暴君か?」
「……いいえ。とても穏やかで、誠実で、まさに温厚篤実な方ですわ」
「そんなわけないだろ!」 

 ゼノンは椅子から立ち上がって激しく突っ込んだ。 

「瞬く間に我が軍の軍団長を三人打ち倒した組織のリーダーが、温厚篤実なわけあるか! もしそう見せているとしたら、それはとんでもないサイコパスだろ、そいつ! 笑顔で喉笛を掻き切るタイプに違いない! ああ、恐ろしい……!」
「お父様……」 

 鏡の中のリリスの温度が、一気に絶対零度まで下がった。

「私の夫になる方に、そのような無礼な発言をするのはやめてください。……ぶち殺しますわよ」
「えっ!? 今、『ぶち殺す』って言った!? 父親に向かって言ったよね!?」
「……言ってません。お控えくださいと申し上げたのです、クソジジイ」
「今、クソジジイって言ったよね!? 通信、混線してないよね!?」

 ゼノンの狼狽を無視し、リリスは冷徹に話を戻した。 

「それで、お父様はこちらにいつ、いらっしゃることができるのですか?」
「まあ、行こうと思えばいつでも行けるんだけど……」
「それでは可及的速やかにいらしてください。そうそう、すでにお聞き及びかもしれませんが、第四軍団長バナードは、勇者様の手によって呆気なく倒されましたわ」

 ゼノンの背筋に、氷を流し込まれたような戦慄が走った。 

「あ……呆気なかったのか? あの、戦うことしか能がない歩く災害のようなバナードが?」
「ええ。瞬殺でしたわ」

 瞬殺。その言葉がゼノンの脳内でリフレインする。あのバナードが何の抵抗もできずに消された……。

(七百七十七人で一斉に斬りかかったのか? それとも、その『温厚篤実』なサイコパス・リーダーが一人でやったのか……?)

「……勇者殿は、本当に、その、話せばわかる相手なんだよね? 出会った瞬間に私の頭がラグビーボールみたいに飛んでいったりしないよね?」
「ええ。話せばわかります。……お父様が、変なプライドを見せて、これ以上勇者様の時間を奪わなければ、ですけれど」
「……わ、わかった。近く、もう一度連絡する。通信、終わりだ。切るぞ、もう切るからな!」

 鏡が暗転し、元のただのガラスに戻ると、ゼノンはそのまま執務机に突っ伏した。バナードが瞬殺され、娘は何やら勇者側についており、自分は一騎打ちをしなければ本社から問責され、すれば命の危険がある。

 魔王ゼノンは、震える手で羊皮紙を取り出した。 そこには、自分がいかに勇者に「惜しくも」敗れるか、そしてその後に「感動的な握手」をするかという、涙ぐましい八百長決闘の台本を書き始めるしかなかった。

「……あ、ダメだ。『くっ、殺せ!』って言ったら本当に殺されちゃう。セリフ、もっと慎重に選ばないと……」

 魔王城の夜は更けていく。一国の主は、かつてないほどの集中力で、命を守るための「負け芝居」の構成に没頭するのだった。
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