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贅沢な日々

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風が変わり始めるころ、悠里は脚も治り髪も少し伸びて
新しい仕事先へと勤め始めていた。

一緒に、働く誘いは丁重に断られて
『もう少し、楽しみは先延ばししてもいい?』
と、聞くものだから。

俺は何も言えなくて、ただ頷いた。
楽しみ、と表現された言葉の奥に何かしらの期待を
持ってしまいそうになるのは、どうかとも思うが。
単純に、嬉しかったのだ。
車の免許を取ってはいたものの、前に住んでいた所では
運転をする機会が無かったため、悠里はペーパードライバーである。
今しばらくは、公共交通機関で通える職場を探していた。

小さな町の中の庁舎に、求人募集がかけられていて
応募してみては?と勧めてみた所、悠里は困った顔をして
『僕、畑違いじゃないかな?』
首を横に振っていた。
おそらくは、前職が接客業であった悠里は
きっとまた、人と接する仕事を探しているのだろう。

悠里と話すと、ホッとする。
誰よりも、自分が感じている事だった。
何の心配も不安も無くなる。
抱き締めて、眠りに就いたら…きっとよく眠れることだろう。

農繁期が少しずつ落ち着いてくれば、長い冬がやって来る。
雪も、それなりに降る地域ではある為、暮らすには
いくつもの苦労がついてくる。久しぶりに、悠里と雪景色を見られるのは
嬉しい事ではあった。
冬備えに向けて、食料の備蓄や、家の補修を済ませる必要がある。
スローライフなどと言う言葉も、よく耳にするが
田舎の冬の、厳しさは予想外な出来事も多く
当たり前ではない日々のありがたさを、実感するだけなのだ。

夕方になれば、最終のバスで悠里が帰って来る。
陽もすっかり落ちて、外は鈴虫の大合奏。
悠里の家の近くのバス停には、小さな灯りがついている。
まだゆっくりとした足取りで、悠里が俺に気が付いて
軽く手を上げた。

『ただいま。あ、火の用心の見回り?』
「おかえり。こんな時間まで大変だな、…あぁ、懐かしいだろ?小学生の時に、一緒に回ったな」
『礼緒くん、僕やっと次の仕事が決まったんだ。』
悠里は、スーツ姿で左手にはビジネス鞄を下げていた。
どうにも、この辺りではあまり見かけない格好ではあった。
「!良かった、もしかして接客業でか?」
『そうそう。古民家で、民泊とカフェをしてる所でね。従業員さんの募集をしてたんだ。』
「…あ~、」
『?え、何、似合わない?』

似合いすぎて、簡単に想像がつく。
良かった、本当に良かった。
「ものすごく、似合う。…ぁ、でも場所はどこだ?」
『この、目の前の…』
悠里は、正面を指さして言う。
「この山の…、あ、そう言えば聞いたことあるな。俺は行った事も無いけど、ホテル並みに綺麗だって
ネットとかTVで紹介されてた。」
『びっくりした、まさかこんな所に、ねぇ…。僕としては、ものすごく有難いけど』
「でも、どうやって行くんだ?運転はまだ、」
『なんと、送迎付きなんだよ。夜勤もあるから、それでらしいんだけどね。』

楽しそうに話す悠里を見ていると、自分も同じ様に笑顔になるのが分かる。
ひとまず、何の心配もいらない事だけはよく分かった。
「安心した…。それなら悠里を任せられるな。」
『ありがとう、礼緒くんが気に掛けてくれて、嬉しかった。僕も、結構不安があったんだよね。
前職を辞めたのもあんまり、…ね、』
「怪我して入院したのは、誰のせいでもない。もう、気にするな…。でも、本当に良かったな、悠里」
そっと、悠里の髪を撫でると目を細めて、一歩踏み込む悠里に抱擁された。
『どうして、いつもそんなに優しいの?』

何事も無かった様に笑って、悠里は
『また、連絡するね。礼緒くん。見廻り行ってらっしゃい』
静かに離れて、手を振る。
「あぁ、お前ちゃんと体を休めろよ?行ってきます。」
悠里の背中を見送る。家の中に入っていったのを見届けて、外での見回りをしてから帰宅した。
さっき、風の様な抱擁を受けた時にすっかり悠里に心を奪われたままで
俺は、家に帰った後に、夕食を食べても心ここにあらずで
風呂に入った後に、自分の部屋に戻ってからやっと
現実に帰って来た気がした。

秋の夜長は、寝る前に読書をするのがここ数年での習慣だった。
煩悶に心を囚われたままにするのは、どうも性に合わない。
多くの活字の海に漂いながら、想像で広がる世界が楽しくて
没頭できる。
仕事以外では、あまり鳴らないスマホの通知音が聞こえて
少々、気が散る。
誰だろう、こんな時間に…と、思ってスマホの画面を見てみれば
悠里からのメッセージが届いていた。

嬉しいのに、困る。
なぜなら、俺の煩悶の原因は…どう考えても悠里だからだ。
先日、互いの心を確かめ合ってからまだ何の進展もない。
この事を、悠里がどんな風に思っているのかは分からないが、
連日、頻繁にメッセージが届く。
悠里の仕事が決まったし、これからは、会える時間ももっと
限定的には、なっていくのだろう。
覚悟はしていた。ずっと近くにいるとは言ったものの、それは
精神的な意味を言っているのであって。

まさか、四六時中一緒になど、居られるはずが無いのだから。
悠里からのメッセージは、短くて

声、聞きたいな。

とだけ、書かれていた。
心がくすぐったい。
さっき、話したのに。もう、俺の声が聞きたいと言う。
今まで、こんなにも恋しく優しい気持ちで
誰かを想った事は、あっただろうか?

文庫本に、四葉の栞をはさんで。
俺は、悠里に電話を掛けた。

すぐに、あの愛おしい声が
自分の名前を、呼んでくれた。

日々は、満たされている。
なんて贅沢な事だろう。


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