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第17話
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朝、目が覚めてみると伯爵様と俺は一組の布団に一人ずつ寝ていた。
まだ薄暗い。
びくりとする。
昨日の気味の悪さがよみがえる。
「おはようございます、キヨノさん」
「おっ、おはよう、ございますっ!」
急にしたなりあきさまの声に驚いて声が裏返ってしまった。
「早いですね。
もう起きますか?」
むくりと伯爵様が起き上がり、大きなあくびをした。
「朝風呂に入りましょうか」
「はい」
うながされて俺たちはまた、白く濁った湯につかった。
山の朝の寒さはきつかったが、そのぶん、露天風呂は気持ちよく感じた。
他の客はまだいなかった。
昨日は旅館一力と同じように竹垣の向こうから女たちの声がしていたが、それもなく、静かだった。
「あー、静かだな。
こんなにのんびりしたのは久しぶりだ」
伯爵様は本当に嬉しそうだった。
それを見て俺はなぜかほっとした。
数日前までは伯爵様に会えないか、会ってもひどい顔色で挨拶ぐらいしかしなかった。
よかった、温泉に来て。
「今日はなにをしましょうか」
「うーん、街は大体回ったし」
「ここのお庭を見せてもらって、あとはのんびりしましょうか」
「はい。肩を揉みましょうか」
「私はそこまで年寄りではありませんよ」
「す、すみません」
「ははははは、冗談ですよ。
でも部屋でのんびりしましょう」
「はい」
朝餉までまだ時間があったので、俺たちはまた布団に入りなりあきさまに言われるままごろごろとした。
「うーん、これはまずいな」
「どうしました、キヨノさん」
「今、俺、すごくものぐさになっています」
「いいんじゃないですか。
私たち、二人とも忙しすぎましたよ」
「そうですね」
俺たちはくすくす笑うと、仲居が朝餉の用意ができたと声をかけるまでごろごろしたり、うとうとしたりしていた。
食後も部屋でのんびりしたり、広い庭を歩いたりした。
素晴らしい庭園で手入れがしっかりしてあった。
特に横に大きく伸びる枝の松の形がよかった。
お庭を見ながら、どの木が葉っぱが落ち、どれが落ちないか見て、もし俺がこの庭を掃除するならどうするか真剣に考えていると伯爵様が笑った。
昼前になると着替えて、温泉街に出た。
名物の丼を伯爵様が食べさせてくれた。
やってきた丼にはご飯しかなくて驚いたが、「うずめめし」と言って食べると下におかずが入っていた。
干ししいたけのうま煮が気に入った。
そのまままた、ぶらりと街を歩く。
昨日はすべてが珍しかったが、今は多少落ち着いて見ることができ、昨日は気づかなかったものが見えるようになっていて、これはまた面白かった。
それでも気に入ったのは、軒先から湯気を上げて蒸しものを出している店だった。
「ぜんざい、食べますか」
「え」
「栗が入っているんですよ。
白洲のおすすめですから、はずれはないと思います」
ぜんざい。栗。餅。
思わずうっとりしていると、伯爵様は俺の目がきらきらしている、とても食べたそうだ、と言いながら甘味処に入り、栗も餅も入ったぜんざいを食べさせてくれた。
伯爵様は餅を減らしてもらっていた。
うまい。
まず小豆がいいんだと思う。
上品な甘さと栗がほっこりしていて、それらが餅に絡みついていた。
「おいしい」
「よかったです」
帰り際に伯爵様はその店の栗羊羹を買った。
それから昨日の店に行き、蒸し饅頭もどっさりと買った。
宿に戻り、旅行鞄に荷物を詰めた。
俺のキャラメルとビー玉もなりあきさまが丁寧に詰めてくれた。
最後に忘れ物がないかと点検し、伯爵様が「いいですか」と尋ねた。
もう、しまいなのだ。
楽しかった温泉旅行もこれでしまいなのだ。
「なりあきさま」
「どうしました、キヨノさん」
伯爵様は手にしていた旅行鞄を畳に置いて、俺に近づき俺の顔を見た。
俺は懐から薄い紙の袋を取り出した。
「あの、温泉旅行、ありがとうございました。
これ、どうぞ」
袋を手渡すと伯爵様は受け取ってくださり、封をしていない袋から中身を取り出した。
それは昨日、神社で求めた御守りだった。
いろいろ考えて、白い綺麗な布に金で「無病息災」と縫い取りのしてある御守りにした。
「お風邪には気をつけてください」
伯爵様が小さく息を飲む音がした。
「ありがとう」
伯爵様は力強くおっしゃった。
受け取ってもらえたこと。
お礼を言われたこと。
俺は嬉しくなった。
伯爵様は上着の内ポケットに御守りをしまった。
宿の女将と仲居に見送られ、俺たちは車に乗り、お屋敷へと向かっていった。
寂しくなった。
膝の上にはまだ熱いくらいの蒸し饅頭が載っている。
なんだか気が抜けている。
俺はぼんやりと窓の外の景色を見ている。
怠くてどこかへんだった。
伯爵様は黙っていてくれた。
ありがたかった。
車は滑らかに走った。
佐伯さんの言う通り、伯爵様は運転がお上手だ。
窓の外は、山の中から、田畑が広がり、そうこうしていると建物が増えてきた。
帝都の中心部に近づいてきたんだ。
温泉が遠くなったのだとわかった。
なりあきさまと並んでお湯に入ったことも、射的ではしゃいだことも、蒸し饅頭や宿で飯を食べたことも全部、遠くなっていく気がした。
こんなに上等で一流の店があるのに、軒先から湯気を上げている店は一件もない。
膝の上の蒸し饅頭はすっかり冷えてしまっていた。
とても悲しくなってきた。
「どうしました、キヨノさん」
なりあきさまが運転をしながらそっと聞いてきた。
「蒸し饅頭が冷たくなってしまいました。
熱々を食べてもらいたかったのに」
「大丈夫ですよ。
川崎がなんとかしてくれます」
「はぁ」
「もうすぐですからね」
伯爵様が俺の肩をさすってくれた。
お屋敷に着くと、行きと同じようにみなさんが玄関にずらりと並んで出迎えてくれた。
「おかえりなさいませ、旦那様、キヨノさん」
「ただいま。
留守の間、ありがとう」
「おや、キヨノさん、どうかされましたか。
お元気がないようですが」
伯爵様が俺の肩に手を置き、押されるようにしてみなさんの前に立った。
ぺこりと頭を下げる。
「土産に蒸し饅頭を買ってきたんだが、すっかり冷めてしまってね。
キヨノさんはみんなに熱々の饅頭を食べさせたかったので、しょんぼりしてしまったんだ」
中川さんの問いに伯爵様が俺の代わりに答えてくれた。
「それなら簡単なことです。
もう一度、蒸し直せば熱々になりますよ。
私に任せてください」
川崎さんもわざわざ厨房から出てきて出迎えてくれていた。
俺を見るとひひひと自信ありげに笑っている。
「なんとかなりますか」
「もちろんですとも」
川崎さんが手を出したので、俺は大切に抱えてきた冷めてしまった饅頭を渡した。
「さ、キヨノさん、楽なものに着替えてこられてはいかがですか。
藤代、頼みます」
中川さんにそう言われて、俺は伯爵様を見上げた。
「そうしていらっしゃい。
私も着替えてきます。
それから饅頭が蒸し上がるのを一緒に待ちましょう」
「はい」
伯爵様はにっこりと笑うと中川さんと一緒に行ってしまった。
俺も藤代さんにうながされ、歩き始めた。
着慣れた着物に袖を通すと、ほっとした。
「温泉がいかがだったかは、あとで聞きますからね。
他の者も知りたがっていますよ」
藤代さんはそう言って、厨房と続きになっている部屋に俺を連れていった。
厨房では川崎さんと小林さんがお湯を沸かして蒸籠の準備をしていた。
ハナさんはお茶の算段をしている。
俺もなにかしようと思ったが、「キヨノさんは座っていてください」と藤代さんに言われたので、そうした。
しばらくして伯爵様と中川さんとシノさんがやってきた。
外から車の点検を終えた佐伯さんも戻ってきた。
みんなで湯気を上げる蒸籠を黙って見ている。
伯爵様は俺の隣に座り、お屋敷の人に留守の様子を聞いていたが、だんだん温泉でのことを話していた。
「温泉には二つ入ったよ。
一力のと匣乃屋のだ。
さすがに温泉だね。
湯冷めをせずにずっと身体が温かいんだ」
「お肌はつやつやになるのでしょうか」
「ふふふ。キヨノさんと私の顔を見ればわかるかな」
「うらやましいです!」
「そうだね、シノとハナも骨休みが必要だね」
「温泉をおねだりしたわけではございませんよ、旦那様」
「それはわかっているけど、今回、私が骨休みをして必要だと思ったんだよ。
君たちは私たちの留守中、どうしていたんだい。
楽しいことをしたんじゃないのか」
やがて温泉街でかいだような甘い匂いがしてきた。
伯爵様は「キヨノさん」と言った。
俺はうなずいた。
嬉しくなってきた。
あの熱々の饅頭までもう少しだ。
もうすぐみなさんに食べてもらえる!
「できましたよ」
川崎さんが蒸籠の蓋を開けるともくもくと大量の湯気が立ち上り、甘い匂いが強くなった。
川崎さんが小皿に饅頭を乗せ、それを藤代さんが配っていく。
ハナさんとシノさんがお茶を淹れてくれた。
みんなに饅頭がいきわたると伯爵様が声をかけた。
「温泉街で食べた饅頭をみんなに食べさせたいとキヨノさんが言ってくれたので土産にしました。
留守の間、ありがとう。
さあ、いただきましょう」
「ありがとうございます」
「いただきます」
俺もまた、熱々を我慢しながら饅頭を割った。
同じように餡子から湯気が立ち上る。
これだこれだ。
「おいしい」という声が上がる。
俺もふうふうしながら食べる。
よかった、あのときみたいにおいしい。
ふと壁にかかった日めくり暦が目に入った。
数字は赤で書かれている。
そうだ、今日は日曜日だ。
俺は思い出した。
日曜日だ。
ぼたぼたと大粒の涙が落ちた。
どうしてだかわからないが、ぼたぼたぼたぼたと落ちてきた。
泣くとか止めるとか全然できない。
とにかく知らないうちにぼたぼたと涙が落ちる。
「キヨノさん?!」
伯爵様が声を上げ、みんなが俺を見ている。
泣いているのを見られたくない。
なのに涙が止まらない。
「俺ぇ………」
そのあとこぼれた言葉は自分でも信じられなかった。
「もっとここにいたい……」
「キヨノさんっ!」
伯爵様が手を伸ばしてきた。
俺は迷わずそれを掴んだ。
「なりあきさまあ」
なりあきさまは俺の手をぐいっと掴み、引っ張るとすっぽりと隠れるように抱きしめた。
「おれぇ」
「はい、いてください。
ずっと、ずっといてください!」
あんなに「お暇をする」と言っていたのに。
またみんなで蒸し饅頭を一緒に食べたいと思った。
ここから離れるのが嫌だと思った。
「まだごごにいだい……」
「ええ、ずっとここにいてください」
ぼたぼたと落ちる涙は止まらない。
どうしようもなくて困ったままだ。
結局、「伯爵様の妻」がどういうものなのかさっぱりわかっていない。
でも、「まだいたい」と思ってしまった。
湯気に包まれ、屋敷の人に囲まれ、伯爵様に抱きしめられているここにいたい。
ここから離れて、どこか奉公先を世話してもらおうと思っていた。
でも。
「いだいぃぃぃ」
温泉がどんどん遠くなるように、このお屋敷がどんどん遠くなってしまうのはとてもいやだと思った。
「いましょう、キヨノさん。
ずっとずっと」
「いだいよぉぉぉ」
「はい」
「なりあぎざまぁぁ」
「うん、うん、キヨノさん」
なりあきさまはぎゅうぎゅうと抱きしめてくる。
俺も腕を回してぎゅうぎゅうとなりあきさまの背中の布を掴む。
なりあきさまに包まれて見えないはずなのに、湯気の向こうで中川さんたちがうんうんとうなずきながら俺を見ているのがわかった。
藤代さんは指で目を拭っている。
こうして俺はもう一か月、このお屋敷にいることになった。
なりあきさまはそれを不服とされたが、中川さんが「お試しの延長にいたしましょう。黒須様にはそう報告しておきます」と譲らなかった。
俺もそれがいいと思った。
だって「妻」というものがよくわかっていないから。
藤代さんは大声でわいわい叫んで、「今夜はお赤飯ですかね!」と川崎さんに言った。
「さすがにこの時間からは難しい」と川崎さんに言われがっかりしていた。
しかし川崎さんは大根とにんじんで紅白なますを作ってくれた。
柚子の香りがして、うまかった。
まだ薄暗い。
びくりとする。
昨日の気味の悪さがよみがえる。
「おはようございます、キヨノさん」
「おっ、おはよう、ございますっ!」
急にしたなりあきさまの声に驚いて声が裏返ってしまった。
「早いですね。
もう起きますか?」
むくりと伯爵様が起き上がり、大きなあくびをした。
「朝風呂に入りましょうか」
「はい」
うながされて俺たちはまた、白く濁った湯につかった。
山の朝の寒さはきつかったが、そのぶん、露天風呂は気持ちよく感じた。
他の客はまだいなかった。
昨日は旅館一力と同じように竹垣の向こうから女たちの声がしていたが、それもなく、静かだった。
「あー、静かだな。
こんなにのんびりしたのは久しぶりだ」
伯爵様は本当に嬉しそうだった。
それを見て俺はなぜかほっとした。
数日前までは伯爵様に会えないか、会ってもひどい顔色で挨拶ぐらいしかしなかった。
よかった、温泉に来て。
「今日はなにをしましょうか」
「うーん、街は大体回ったし」
「ここのお庭を見せてもらって、あとはのんびりしましょうか」
「はい。肩を揉みましょうか」
「私はそこまで年寄りではありませんよ」
「す、すみません」
「ははははは、冗談ですよ。
でも部屋でのんびりしましょう」
「はい」
朝餉までまだ時間があったので、俺たちはまた布団に入りなりあきさまに言われるままごろごろとした。
「うーん、これはまずいな」
「どうしました、キヨノさん」
「今、俺、すごくものぐさになっています」
「いいんじゃないですか。
私たち、二人とも忙しすぎましたよ」
「そうですね」
俺たちはくすくす笑うと、仲居が朝餉の用意ができたと声をかけるまでごろごろしたり、うとうとしたりしていた。
食後も部屋でのんびりしたり、広い庭を歩いたりした。
素晴らしい庭園で手入れがしっかりしてあった。
特に横に大きく伸びる枝の松の形がよかった。
お庭を見ながら、どの木が葉っぱが落ち、どれが落ちないか見て、もし俺がこの庭を掃除するならどうするか真剣に考えていると伯爵様が笑った。
昼前になると着替えて、温泉街に出た。
名物の丼を伯爵様が食べさせてくれた。
やってきた丼にはご飯しかなくて驚いたが、「うずめめし」と言って食べると下におかずが入っていた。
干ししいたけのうま煮が気に入った。
そのまままた、ぶらりと街を歩く。
昨日はすべてが珍しかったが、今は多少落ち着いて見ることができ、昨日は気づかなかったものが見えるようになっていて、これはまた面白かった。
それでも気に入ったのは、軒先から湯気を上げて蒸しものを出している店だった。
「ぜんざい、食べますか」
「え」
「栗が入っているんですよ。
白洲のおすすめですから、はずれはないと思います」
ぜんざい。栗。餅。
思わずうっとりしていると、伯爵様は俺の目がきらきらしている、とても食べたそうだ、と言いながら甘味処に入り、栗も餅も入ったぜんざいを食べさせてくれた。
伯爵様は餅を減らしてもらっていた。
うまい。
まず小豆がいいんだと思う。
上品な甘さと栗がほっこりしていて、それらが餅に絡みついていた。
「おいしい」
「よかったです」
帰り際に伯爵様はその店の栗羊羹を買った。
それから昨日の店に行き、蒸し饅頭もどっさりと買った。
宿に戻り、旅行鞄に荷物を詰めた。
俺のキャラメルとビー玉もなりあきさまが丁寧に詰めてくれた。
最後に忘れ物がないかと点検し、伯爵様が「いいですか」と尋ねた。
もう、しまいなのだ。
楽しかった温泉旅行もこれでしまいなのだ。
「なりあきさま」
「どうしました、キヨノさん」
伯爵様は手にしていた旅行鞄を畳に置いて、俺に近づき俺の顔を見た。
俺は懐から薄い紙の袋を取り出した。
「あの、温泉旅行、ありがとうございました。
これ、どうぞ」
袋を手渡すと伯爵様は受け取ってくださり、封をしていない袋から中身を取り出した。
それは昨日、神社で求めた御守りだった。
いろいろ考えて、白い綺麗な布に金で「無病息災」と縫い取りのしてある御守りにした。
「お風邪には気をつけてください」
伯爵様が小さく息を飲む音がした。
「ありがとう」
伯爵様は力強くおっしゃった。
受け取ってもらえたこと。
お礼を言われたこと。
俺は嬉しくなった。
伯爵様は上着の内ポケットに御守りをしまった。
宿の女将と仲居に見送られ、俺たちは車に乗り、お屋敷へと向かっていった。
寂しくなった。
膝の上にはまだ熱いくらいの蒸し饅頭が載っている。
なんだか気が抜けている。
俺はぼんやりと窓の外の景色を見ている。
怠くてどこかへんだった。
伯爵様は黙っていてくれた。
ありがたかった。
車は滑らかに走った。
佐伯さんの言う通り、伯爵様は運転がお上手だ。
窓の外は、山の中から、田畑が広がり、そうこうしていると建物が増えてきた。
帝都の中心部に近づいてきたんだ。
温泉が遠くなったのだとわかった。
なりあきさまと並んでお湯に入ったことも、射的ではしゃいだことも、蒸し饅頭や宿で飯を食べたことも全部、遠くなっていく気がした。
こんなに上等で一流の店があるのに、軒先から湯気を上げている店は一件もない。
膝の上の蒸し饅頭はすっかり冷えてしまっていた。
とても悲しくなってきた。
「どうしました、キヨノさん」
なりあきさまが運転をしながらそっと聞いてきた。
「蒸し饅頭が冷たくなってしまいました。
熱々を食べてもらいたかったのに」
「大丈夫ですよ。
川崎がなんとかしてくれます」
「はぁ」
「もうすぐですからね」
伯爵様が俺の肩をさすってくれた。
お屋敷に着くと、行きと同じようにみなさんが玄関にずらりと並んで出迎えてくれた。
「おかえりなさいませ、旦那様、キヨノさん」
「ただいま。
留守の間、ありがとう」
「おや、キヨノさん、どうかされましたか。
お元気がないようですが」
伯爵様が俺の肩に手を置き、押されるようにしてみなさんの前に立った。
ぺこりと頭を下げる。
「土産に蒸し饅頭を買ってきたんだが、すっかり冷めてしまってね。
キヨノさんはみんなに熱々の饅頭を食べさせたかったので、しょんぼりしてしまったんだ」
中川さんの問いに伯爵様が俺の代わりに答えてくれた。
「それなら簡単なことです。
もう一度、蒸し直せば熱々になりますよ。
私に任せてください」
川崎さんもわざわざ厨房から出てきて出迎えてくれていた。
俺を見るとひひひと自信ありげに笑っている。
「なんとかなりますか」
「もちろんですとも」
川崎さんが手を出したので、俺は大切に抱えてきた冷めてしまった饅頭を渡した。
「さ、キヨノさん、楽なものに着替えてこられてはいかがですか。
藤代、頼みます」
中川さんにそう言われて、俺は伯爵様を見上げた。
「そうしていらっしゃい。
私も着替えてきます。
それから饅頭が蒸し上がるのを一緒に待ちましょう」
「はい」
伯爵様はにっこりと笑うと中川さんと一緒に行ってしまった。
俺も藤代さんにうながされ、歩き始めた。
着慣れた着物に袖を通すと、ほっとした。
「温泉がいかがだったかは、あとで聞きますからね。
他の者も知りたがっていますよ」
藤代さんはそう言って、厨房と続きになっている部屋に俺を連れていった。
厨房では川崎さんと小林さんがお湯を沸かして蒸籠の準備をしていた。
ハナさんはお茶の算段をしている。
俺もなにかしようと思ったが、「キヨノさんは座っていてください」と藤代さんに言われたので、そうした。
しばらくして伯爵様と中川さんとシノさんがやってきた。
外から車の点検を終えた佐伯さんも戻ってきた。
みんなで湯気を上げる蒸籠を黙って見ている。
伯爵様は俺の隣に座り、お屋敷の人に留守の様子を聞いていたが、だんだん温泉でのことを話していた。
「温泉には二つ入ったよ。
一力のと匣乃屋のだ。
さすがに温泉だね。
湯冷めをせずにずっと身体が温かいんだ」
「お肌はつやつやになるのでしょうか」
「ふふふ。キヨノさんと私の顔を見ればわかるかな」
「うらやましいです!」
「そうだね、シノとハナも骨休みが必要だね」
「温泉をおねだりしたわけではございませんよ、旦那様」
「それはわかっているけど、今回、私が骨休みをして必要だと思ったんだよ。
君たちは私たちの留守中、どうしていたんだい。
楽しいことをしたんじゃないのか」
やがて温泉街でかいだような甘い匂いがしてきた。
伯爵様は「キヨノさん」と言った。
俺はうなずいた。
嬉しくなってきた。
あの熱々の饅頭までもう少しだ。
もうすぐみなさんに食べてもらえる!
「できましたよ」
川崎さんが蒸籠の蓋を開けるともくもくと大量の湯気が立ち上り、甘い匂いが強くなった。
川崎さんが小皿に饅頭を乗せ、それを藤代さんが配っていく。
ハナさんとシノさんがお茶を淹れてくれた。
みんなに饅頭がいきわたると伯爵様が声をかけた。
「温泉街で食べた饅頭をみんなに食べさせたいとキヨノさんが言ってくれたので土産にしました。
留守の間、ありがとう。
さあ、いただきましょう」
「ありがとうございます」
「いただきます」
俺もまた、熱々を我慢しながら饅頭を割った。
同じように餡子から湯気が立ち上る。
これだこれだ。
「おいしい」という声が上がる。
俺もふうふうしながら食べる。
よかった、あのときみたいにおいしい。
ふと壁にかかった日めくり暦が目に入った。
数字は赤で書かれている。
そうだ、今日は日曜日だ。
俺は思い出した。
日曜日だ。
ぼたぼたと大粒の涙が落ちた。
どうしてだかわからないが、ぼたぼたぼたぼたと落ちてきた。
泣くとか止めるとか全然できない。
とにかく知らないうちにぼたぼたと涙が落ちる。
「キヨノさん?!」
伯爵様が声を上げ、みんなが俺を見ている。
泣いているのを見られたくない。
なのに涙が止まらない。
「俺ぇ………」
そのあとこぼれた言葉は自分でも信じられなかった。
「もっとここにいたい……」
「キヨノさんっ!」
伯爵様が手を伸ばしてきた。
俺は迷わずそれを掴んだ。
「なりあきさまあ」
なりあきさまは俺の手をぐいっと掴み、引っ張るとすっぽりと隠れるように抱きしめた。
「おれぇ」
「はい、いてください。
ずっと、ずっといてください!」
あんなに「お暇をする」と言っていたのに。
またみんなで蒸し饅頭を一緒に食べたいと思った。
ここから離れるのが嫌だと思った。
「まだごごにいだい……」
「ええ、ずっとここにいてください」
ぼたぼたと落ちる涙は止まらない。
どうしようもなくて困ったままだ。
結局、「伯爵様の妻」がどういうものなのかさっぱりわかっていない。
でも、「まだいたい」と思ってしまった。
湯気に包まれ、屋敷の人に囲まれ、伯爵様に抱きしめられているここにいたい。
ここから離れて、どこか奉公先を世話してもらおうと思っていた。
でも。
「いだいぃぃぃ」
温泉がどんどん遠くなるように、このお屋敷がどんどん遠くなってしまうのはとてもいやだと思った。
「いましょう、キヨノさん。
ずっとずっと」
「いだいよぉぉぉ」
「はい」
「なりあぎざまぁぁ」
「うん、うん、キヨノさん」
なりあきさまはぎゅうぎゅうと抱きしめてくる。
俺も腕を回してぎゅうぎゅうとなりあきさまの背中の布を掴む。
なりあきさまに包まれて見えないはずなのに、湯気の向こうで中川さんたちがうんうんとうなずきながら俺を見ているのがわかった。
藤代さんは指で目を拭っている。
こうして俺はもう一か月、このお屋敷にいることになった。
なりあきさまはそれを不服とされたが、中川さんが「お試しの延長にいたしましょう。黒須様にはそう報告しておきます」と譲らなかった。
俺もそれがいいと思った。
だって「妻」というものがよくわかっていないから。
藤代さんは大声でわいわい叫んで、「今夜はお赤飯ですかね!」と川崎さんに言った。
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