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第46話 お揚げさん(2)
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三月も終わりに近づき、暖かい日も続くようになってきた。
庭もにょきにょきと新芽が出たり、花をつけるものもあり、賑やかだ。手入れはまださせてもらえないが、散歩として庭を歩くと小林さんが丹精込めて世話をしているのがよくわかる。
桜の木もちらりちらりと薄紅色のつぼみが見え始めたかと思うと、ふわりと開き始めた。
今年も花見をするのだと、屋敷は賑わっていた。
敷く赤い布を用意し、お花見に使う重箱も取り出した。
「ご成婚一周年でございますから」と中川さんも張り切っている。
俺を見ては
「いつ旦那様が離縁されるかとひやひやして見ておりました。キヨノさん、一年も旦那様と一緒にいてくださり、ありがとうございます」
と何度も言われた。
ひどい言われようではないのか。と中川さんに言うと「それ以上のひどいことを旦那様はなさったのですから」と返ってきた。なりあきさまが少しお気の毒になった。
今年は暖かい日が続き、桜の開花がいつもより早いらしい。三月中にするのだと黒須様と白洲様もお誘いし、にぎやかに花見が始まった。
去年は上等な着物を着させてもらったが、祝言はもうしないだろうからすでにある着物を着るのだろうと甘く考えていた。
「背が少し伸びましたからね」と新しく仕立ててあった着物を藤代さんが着つけてくれる。いつの間に、と驚いていると「もちろん旦那様の見立てですよ」と教えてくれた。
お正月にも新しい着物と足袋をくださったのに、いいのだろうか。
「どこかにお出かけするときに着るとよろしいですよ。観劇……はまだお早いですかね。そうだ、気軽なお食事に行くといいかもしれません」
「なりあきさまにお礼を申し上げるとき、お聞きしてみます」
「それがいいですね」
藤代さんはにっこりと笑うと、ぎゅうぎゅうと帯を締めた。苦しいと言っても聞いてくれなかった。あまりの苦しさにシノさんに話すと「これからお食事をしようというのに、まったく藤代さんときたら」と帯を締め直してくれた。
「食事をしても苦しくない締め方があるんですよ。殿方はあまり関係ないかもしれませんが窮屈なのはつらいですからね。さ、今日はしっかり召し上がってください。川崎も楽しみにしていますよ」
締め終えると、シノさんがそう言った。俺も楽しみだ。
シノさんと一緒に庭に出てみるとすでになりあきさまは黒須様と白洲様とご一緒にお話をしていらした。なりあきさまも今日は和装だ。洋装のなりあきさまも素敵だが、和装のなりあきさまも素敵だ。首元が涼しくていらっしゃる。
なりあきさまはお二人から離れ、俺のほうに近づいてこられた。
「やあ、キヨノさん。新しい着物もお似合いです」
俺の手を取ろうとして、そしてなりあきさまは手を止めた。また眉がハの字になっていらっしゃる。
もうハの字にさせませんから。
「なりあきさま、素敵なお着物をありがとうございます」
「ええ、キヨノさんも十五になられましたからね。大人の仲間入りですよ」
なりあきさまの言葉がこそばゆくて俯く。
「さあ、座りましょう。みんなも待っていますよ」
「はい」
なりあきさまが先を歩き、俺はあとをついていった。
これまでなら、なりあきさまに手を引かれて歩いていただろう。きゅっと胸が締めつけられる。
赤い布の上には川崎さんとシノさんが数日前から仕込んでいたお重に入ったご馳走が並べられていた。
去年と同じ席に座る。そうか、あのとき、俺はなりあきさまと盃を交わしたんだ。
桜は八分咲き。綺麗だ。
各々盃に酒が入れられた。俺の盃には舐めるだけの酒が入っている。まだ本調子ではないから仕方ない。もっと大きくなったら酒にも強くなるのだろうか。
なりあきさまがご友人に挨拶をし、屋敷の人たちに労いの言葉をかけ、そして俺に対して感謝の気持ちを伝えてくれた。去年はそれどころじゃなかったが、今年は落ち着いてなりあきさまの言葉を聞いていられる。
なりあきさまの言葉は嬉しかったが、よそ行きでちょっと固かった。
「乾杯」の音頭が取られ、俺も盃の中の酒を舐めた。甘酒よりぐっと強い。甘く独特の香りが鼻に抜ける。それだけなのにぽっと身体が熱くなる。
しずしずと蓋をしたままのお重をシノさんが運んできた。そうだ、酔ってはいられない。
「シノ、なんだい?」
なりあきさまの前にお重を置き、シノさんが礼をして下がる。
「な、りあき、さま」
口がからからになっている。
「どうしました、キヨノさん?」
それ以上話せなくなって俺はぎくしゃくとしながらお重ににじり寄り、蓋を取る。
「うわあ!」
白洲様が大きな声を上げた。
「こ…れは…」
なりあきさまも目を見張っている。
中にはお出汁をたっぷり吸ったお揚げさんで作った稲荷寿司がこれでもかというほど詰め込まれていた。俺が詰めてやった。
「シノさんに教わって、川崎さんにも手伝っていただいて、三人で作りました」
「あ…いや。その」
なりあきさまは驚いてお重の中身と俺を交互に見ている。俺は用意していた長い取り箸で黒い漆の皿に稲荷寿司を二つ載せた。
「お…れは、もう元気、です。だいじょう、ぶ、です」
なりあきさまが瞬きをせず、穴が開きそうなほど俺を見ている。俺は焦って身体がこちこちになってしまう。
落ち着け落ち着け。
ぎこちなく漆の皿をなりあきさまの前に差し出す。なりあきさまは受け取ってはくださらない。
「元気、だから。なり、あきさまも、お揚げさんを食べても、だ、いじょ、ぶ……」
なりあきさまが大きく息を飲み、そして川崎さんとシノさんを睨んだ。
あの、それより早く、お稲荷さんを受け取って。
「おい、三条院。キヨノさんの稲荷寿司を早く受け取ってやれよ。おまえが食べないなら俺が先にいただこうか」
白洲様が俺が手にしている漆の皿に手を伸ばす。が、その前になりあきさまが素早く皿を奪っていった。
「キヨノさん……いつからご存知なんですか……」
「三月の頭…から、です」
「そう、ですか」
なりあきさまもぎこちない。
「これまで……ありがとうございました。でも、もう大丈夫、だから」
厨房で川崎さんとシノさんからなりあきさまがお揚げさん断ちをしていると聞いたそのとき。
俺はお二人に稲荷寿司の作り方を教えてほしいと頼んだ。
なりあきさまが召し上がらないのにお揚げさんを食べるわけにはいかないので、お揚げさんだけは昨日、初めてシノさんと一緒に炊いた。
中は田舎風の具のたっぷり入った五目寿司で、これは何度も練習した。なりあきさまがお仕事で留守のときに作っては屋敷の人たちと食べた。人参もごぼうも高野豆腐も干し椎茸も入った贅沢なお寿司だ。
今朝も早起きして、シノさんと一緒に稲荷寿司を作り、お重に詰めた。
それと同時に、俺はいつもより食べるように努力した。吐いては元も子もないので加減が難しかったが、「もういっぱい」に一口でも食べるようにした。そのおかげかひと月で少し肥えた。と言ってもまだまだあばらは浮いたままだし、腕は枯れ木のままだ。
起き上がれるようになってから初めて鏡で自分の顔を見たときには驚いた。子どもっぽく頬は丸かったのに、頬はこけ、頬骨がびっくりするほど出ていて、目は落ちくぼんでいた。
顔もまだまだだが、それでも少し丸くなった。
食べれば動ける時間も長くなった。中川さんと藤代さんに注意されることが何度もあったが、無理はしないように気をつけて、夜もさっと寝ていた。
庭にいても小林さんは絶対に仕事を手伝わせてはくれなかったが、桜の様子だけは細かく教えてくれた。
佐伯さんは仕事のあと、俺の五目寿司を食べていたようで「旦那様はもう少し酢がきいたほうがお好みかもしれません」と教えてくれた。
ハナさんはお重とお皿を選ぶのを手伝ってくれた。最後に朱い漆と黒い漆のどちらがいいか、二人で悩み、なりあきさまのお好みを考えて黒にした。
ほわっとなりあきさまの手が俺の右の頬を包んだ。
思わず顔を上げるとなりあきさまが俺を見ていた。ああ、今日も綺麗だな、なりあきさま。目の下のほくろはふるふると笑ってる。
「本当に大丈夫なんですね」
「はい」
「お元気になられるんですね」
「はい」
「……私は、お揚げさんを食べてもいいんですね」
「はいっ!」
俺が勢いよく返事をすると、なりあきさまの目が一瞬しょうびの実のように赤くなり、そして頭には三角の耳、尻のあたりには大きなふさふさした尻尾が見えた気がした。
「では、ありがたくいただきます」
なりあきさまは一旦お皿を赤い布の上に置き、改めて合掌をし「いただきます」とおっしゃった。そして皿を取り上げ、箸で稲荷寿司をつかむと大きな口でかぶりついた。
「うん!おいしいです、キヨノさん!」
よかったああああああ!
身体中の力が抜ける思いがした。
よかった、なりあきさまがお稲荷さんを召し上がっている。
よかった。
「キヨノさんも召し上がってください」
「はい」
「おーい、俺にも食わせろ」
「私もだ」
白洲様と黒須様のお声がする。
「まだまだたくさんございますよ」
シノさんが新しいお稲荷さんのお重を運んできた。
「キヨノさん」
川崎さんの声だ。
「シノさん、川崎さん、ありがとうございました。なりあきさまに召し上がっていただけました」
「がんばっていましたからね。よかったですよ」
川崎さんもシノさんも満足そうに笑う。そして川崎さんが言った。
「キヨノさん、お揚げさんの味噌汁もありますよ。よそってきましょうか」
「え、ほんと?」
「ええ。食べたかったんでしょう?」
「はい!」
桜の花の下。
みなさんとご馳走をたっぷり食べた。
シノさん直伝のお稲荷さんは甘辛いお出汁をたっぷり吸ったお揚げさんがうまかった。
川崎さんのお揚げさんの味噌汁をふうふう冷まして飲んだ。太い葱が甘くてうまかった。
なりあきさまとご友人は酒を飲みながら大声でお話をされていた。なりあきさまはそれに加わりながら、ときどき俺の指先にさわってきた。俺が気分が悪くならないのを確かめて違う意味で眉毛がハの字になっていた。
今年も黒須様と白洲様が二種類の桜餅を持ってきてくださったので、いただくことにした。熱いお茶がうまい。
ふと中川さんと目が合った。
「キヨノさん、一年が過ぎましたね。このままでよろしいですか」
中川さんも「離縁なさりたいときにはおっしゃってください。中川がすべてを整えましょう」と真顔で何度も言ってくれた。心配をかけている。
暁の君の主さまの血のせいか、俺の心のせいか、わからないのだけど、やっぱりこのままここにいたいと思った。
「はい、このままここにいさせてください」
「はい。嬉しゅうございます」
「俺もです」
口の端が上がり、俺は上機嫌で笑っていた。
お揚げさん <了>
庭もにょきにょきと新芽が出たり、花をつけるものもあり、賑やかだ。手入れはまださせてもらえないが、散歩として庭を歩くと小林さんが丹精込めて世話をしているのがよくわかる。
桜の木もちらりちらりと薄紅色のつぼみが見え始めたかと思うと、ふわりと開き始めた。
今年も花見をするのだと、屋敷は賑わっていた。
敷く赤い布を用意し、お花見に使う重箱も取り出した。
「ご成婚一周年でございますから」と中川さんも張り切っている。
俺を見ては
「いつ旦那様が離縁されるかとひやひやして見ておりました。キヨノさん、一年も旦那様と一緒にいてくださり、ありがとうございます」
と何度も言われた。
ひどい言われようではないのか。と中川さんに言うと「それ以上のひどいことを旦那様はなさったのですから」と返ってきた。なりあきさまが少しお気の毒になった。
今年は暖かい日が続き、桜の開花がいつもより早いらしい。三月中にするのだと黒須様と白洲様もお誘いし、にぎやかに花見が始まった。
去年は上等な着物を着させてもらったが、祝言はもうしないだろうからすでにある着物を着るのだろうと甘く考えていた。
「背が少し伸びましたからね」と新しく仕立ててあった着物を藤代さんが着つけてくれる。いつの間に、と驚いていると「もちろん旦那様の見立てですよ」と教えてくれた。
お正月にも新しい着物と足袋をくださったのに、いいのだろうか。
「どこかにお出かけするときに着るとよろしいですよ。観劇……はまだお早いですかね。そうだ、気軽なお食事に行くといいかもしれません」
「なりあきさまにお礼を申し上げるとき、お聞きしてみます」
「それがいいですね」
藤代さんはにっこりと笑うと、ぎゅうぎゅうと帯を締めた。苦しいと言っても聞いてくれなかった。あまりの苦しさにシノさんに話すと「これからお食事をしようというのに、まったく藤代さんときたら」と帯を締め直してくれた。
「食事をしても苦しくない締め方があるんですよ。殿方はあまり関係ないかもしれませんが窮屈なのはつらいですからね。さ、今日はしっかり召し上がってください。川崎も楽しみにしていますよ」
締め終えると、シノさんがそう言った。俺も楽しみだ。
シノさんと一緒に庭に出てみるとすでになりあきさまは黒須様と白洲様とご一緒にお話をしていらした。なりあきさまも今日は和装だ。洋装のなりあきさまも素敵だが、和装のなりあきさまも素敵だ。首元が涼しくていらっしゃる。
なりあきさまはお二人から離れ、俺のほうに近づいてこられた。
「やあ、キヨノさん。新しい着物もお似合いです」
俺の手を取ろうとして、そしてなりあきさまは手を止めた。また眉がハの字になっていらっしゃる。
もうハの字にさせませんから。
「なりあきさま、素敵なお着物をありがとうございます」
「ええ、キヨノさんも十五になられましたからね。大人の仲間入りですよ」
なりあきさまの言葉がこそばゆくて俯く。
「さあ、座りましょう。みんなも待っていますよ」
「はい」
なりあきさまが先を歩き、俺はあとをついていった。
これまでなら、なりあきさまに手を引かれて歩いていただろう。きゅっと胸が締めつけられる。
赤い布の上には川崎さんとシノさんが数日前から仕込んでいたお重に入ったご馳走が並べられていた。
去年と同じ席に座る。そうか、あのとき、俺はなりあきさまと盃を交わしたんだ。
桜は八分咲き。綺麗だ。
各々盃に酒が入れられた。俺の盃には舐めるだけの酒が入っている。まだ本調子ではないから仕方ない。もっと大きくなったら酒にも強くなるのだろうか。
なりあきさまがご友人に挨拶をし、屋敷の人たちに労いの言葉をかけ、そして俺に対して感謝の気持ちを伝えてくれた。去年はそれどころじゃなかったが、今年は落ち着いてなりあきさまの言葉を聞いていられる。
なりあきさまの言葉は嬉しかったが、よそ行きでちょっと固かった。
「乾杯」の音頭が取られ、俺も盃の中の酒を舐めた。甘酒よりぐっと強い。甘く独特の香りが鼻に抜ける。それだけなのにぽっと身体が熱くなる。
しずしずと蓋をしたままのお重をシノさんが運んできた。そうだ、酔ってはいられない。
「シノ、なんだい?」
なりあきさまの前にお重を置き、シノさんが礼をして下がる。
「な、りあき、さま」
口がからからになっている。
「どうしました、キヨノさん?」
それ以上話せなくなって俺はぎくしゃくとしながらお重ににじり寄り、蓋を取る。
「うわあ!」
白洲様が大きな声を上げた。
「こ…れは…」
なりあきさまも目を見張っている。
中にはお出汁をたっぷり吸ったお揚げさんで作った稲荷寿司がこれでもかというほど詰め込まれていた。俺が詰めてやった。
「シノさんに教わって、川崎さんにも手伝っていただいて、三人で作りました」
「あ…いや。その」
なりあきさまは驚いてお重の中身と俺を交互に見ている。俺は用意していた長い取り箸で黒い漆の皿に稲荷寿司を二つ載せた。
「お…れは、もう元気、です。だいじょう、ぶ、です」
なりあきさまが瞬きをせず、穴が開きそうなほど俺を見ている。俺は焦って身体がこちこちになってしまう。
落ち着け落ち着け。
ぎこちなく漆の皿をなりあきさまの前に差し出す。なりあきさまは受け取ってはくださらない。
「元気、だから。なり、あきさまも、お揚げさんを食べても、だ、いじょ、ぶ……」
なりあきさまが大きく息を飲み、そして川崎さんとシノさんを睨んだ。
あの、それより早く、お稲荷さんを受け取って。
「おい、三条院。キヨノさんの稲荷寿司を早く受け取ってやれよ。おまえが食べないなら俺が先にいただこうか」
白洲様が俺が手にしている漆の皿に手を伸ばす。が、その前になりあきさまが素早く皿を奪っていった。
「キヨノさん……いつからご存知なんですか……」
「三月の頭…から、です」
「そう、ですか」
なりあきさまもぎこちない。
「これまで……ありがとうございました。でも、もう大丈夫、だから」
厨房で川崎さんとシノさんからなりあきさまがお揚げさん断ちをしていると聞いたそのとき。
俺はお二人に稲荷寿司の作り方を教えてほしいと頼んだ。
なりあきさまが召し上がらないのにお揚げさんを食べるわけにはいかないので、お揚げさんだけは昨日、初めてシノさんと一緒に炊いた。
中は田舎風の具のたっぷり入った五目寿司で、これは何度も練習した。なりあきさまがお仕事で留守のときに作っては屋敷の人たちと食べた。人参もごぼうも高野豆腐も干し椎茸も入った贅沢なお寿司だ。
今朝も早起きして、シノさんと一緒に稲荷寿司を作り、お重に詰めた。
それと同時に、俺はいつもより食べるように努力した。吐いては元も子もないので加減が難しかったが、「もういっぱい」に一口でも食べるようにした。そのおかげかひと月で少し肥えた。と言ってもまだまだあばらは浮いたままだし、腕は枯れ木のままだ。
起き上がれるようになってから初めて鏡で自分の顔を見たときには驚いた。子どもっぽく頬は丸かったのに、頬はこけ、頬骨がびっくりするほど出ていて、目は落ちくぼんでいた。
顔もまだまだだが、それでも少し丸くなった。
食べれば動ける時間も長くなった。中川さんと藤代さんに注意されることが何度もあったが、無理はしないように気をつけて、夜もさっと寝ていた。
庭にいても小林さんは絶対に仕事を手伝わせてはくれなかったが、桜の様子だけは細かく教えてくれた。
佐伯さんは仕事のあと、俺の五目寿司を食べていたようで「旦那様はもう少し酢がきいたほうがお好みかもしれません」と教えてくれた。
ハナさんはお重とお皿を選ぶのを手伝ってくれた。最後に朱い漆と黒い漆のどちらがいいか、二人で悩み、なりあきさまのお好みを考えて黒にした。
ほわっとなりあきさまの手が俺の右の頬を包んだ。
思わず顔を上げるとなりあきさまが俺を見ていた。ああ、今日も綺麗だな、なりあきさま。目の下のほくろはふるふると笑ってる。
「本当に大丈夫なんですね」
「はい」
「お元気になられるんですね」
「はい」
「……私は、お揚げさんを食べてもいいんですね」
「はいっ!」
俺が勢いよく返事をすると、なりあきさまの目が一瞬しょうびの実のように赤くなり、そして頭には三角の耳、尻のあたりには大きなふさふさした尻尾が見えた気がした。
「では、ありがたくいただきます」
なりあきさまは一旦お皿を赤い布の上に置き、改めて合掌をし「いただきます」とおっしゃった。そして皿を取り上げ、箸で稲荷寿司をつかむと大きな口でかぶりついた。
「うん!おいしいです、キヨノさん!」
よかったああああああ!
身体中の力が抜ける思いがした。
よかった、なりあきさまがお稲荷さんを召し上がっている。
よかった。
「キヨノさんも召し上がってください」
「はい」
「おーい、俺にも食わせろ」
「私もだ」
白洲様と黒須様のお声がする。
「まだまだたくさんございますよ」
シノさんが新しいお稲荷さんのお重を運んできた。
「キヨノさん」
川崎さんの声だ。
「シノさん、川崎さん、ありがとうございました。なりあきさまに召し上がっていただけました」
「がんばっていましたからね。よかったですよ」
川崎さんもシノさんも満足そうに笑う。そして川崎さんが言った。
「キヨノさん、お揚げさんの味噌汁もありますよ。よそってきましょうか」
「え、ほんと?」
「ええ。食べたかったんでしょう?」
「はい!」
桜の花の下。
みなさんとご馳走をたっぷり食べた。
シノさん直伝のお稲荷さんは甘辛いお出汁をたっぷり吸ったお揚げさんがうまかった。
川崎さんのお揚げさんの味噌汁をふうふう冷まして飲んだ。太い葱が甘くてうまかった。
なりあきさまとご友人は酒を飲みながら大声でお話をされていた。なりあきさまはそれに加わりながら、ときどき俺の指先にさわってきた。俺が気分が悪くならないのを確かめて違う意味で眉毛がハの字になっていた。
今年も黒須様と白洲様が二種類の桜餅を持ってきてくださったので、いただくことにした。熱いお茶がうまい。
ふと中川さんと目が合った。
「キヨノさん、一年が過ぎましたね。このままでよろしいですか」
中川さんも「離縁なさりたいときにはおっしゃってください。中川がすべてを整えましょう」と真顔で何度も言ってくれた。心配をかけている。
暁の君の主さまの血のせいか、俺の心のせいか、わからないのだけど、やっぱりこのままここにいたいと思った。
「はい、このままここにいさせてください」
「はい。嬉しゅうございます」
「俺もです」
口の端が上がり、俺は上機嫌で笑っていた。
お揚げさん <了>
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