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昼が過ぎ、ようやく桐が気がつくと和尚は桐を井戸に連れて行き、汲ませた井戸水を頭からかぶせ、身を清めました。
桐は力が入らずよろめいておりましたので、それだけでもとても時間がかかってしまいました。
和尚もまた、頭から水をかぶりました。
「桐や、おまえは話そうとしないがわしにはわかる。
おまえは平家の落人の亡霊《あやかし》にとり憑かれておる。
このままではおまえは命を落としてしまうだろう。
わしが助けてやる。
言われたとおりにしなさい」
そう言うと、和尚は桐を本堂に連れて行きました。
そして、墨を擦ると自分の身体中にお経を書き始めました。
自分では書けない背中などは、桐に手探りで書かせました。
「これで亡霊からはわしが見えなくなったはず。
あの汚らわしい亡霊が現れたらこのお札を貼って退治してやるからな」
和尚は何枚も何枚もお札を書き始めました。
桐は本堂の隅で、冷え切り痛む身体を力なく横たわらせておりました。
夕方になり、和尚は寄合があるふりをして寺から出ていき、すぐに寺の縁の下に潜り込みました。
桐はそわそわしておりましたが、しばらくすると庭の松の葉がざわりざわりと揺れ、がしゃんがしゃんと鎧が鳴る音がしました。
「桐はおるか」
「へい」
知《とも》のしゃがれた声に桐が返事をすると、いつものように片手に琵琶とばち、もう片方の手で桐の手を引いて歩き出しました。
桐の手首には和尚が縛った腰紐でできた傷があり、ひどく痛みましたが、知は気にせずにどんどん手を引いて歩きます。
桐は引きずられるようにしてついていきながら、時々後ろを振り返りました。
そこには身体中にお経を書いた裸の和尚がたくさんのお札を抱えながらひょこひょこと二人のあとをついてくるのが見えました。
しかし、知には見えないのか、さっさと歩かない桐の手をぐんっと引っ張り先を急ぎました。
やがて、よい香りがしている屋敷に入り、いつもの大きな部屋に通されました。
知が桐の手を離しました。
桐は思わず小さな声を上げそうになりましたが、こらえました。
大好きな知の手が離れていくのが嫌でした。
このまま和尚に退治され、もう二度と知の手を取ることができないかもしれない、と思うと胸がきりきりと痛みました。
どんなにか御屋形様や知に早くここから逃げるよう、言いたかったかしれません。
しかし、桐はそうすることができませんでした。
お札を書き上げた和尚は再び嫌がる桐の足を開き、すぼまりに憤りを沈めながら言ったのでした。
「もしおまえが亡霊にこのことを少しでも漏らせば、あの琵琶を壊してやる。
それが嫌なら何も言わずに黙っておくのだ」
何も見えない桐にとって、琵琶を弾くことが唯一の楽しみであり、慰めでもありました。
その琵琶が壊されてしまい、ずっと闇の中にいるのは耐えられそうにありません。
桐は和尚に激しく揺さぶられながら「へい」と小声で答えるしかできませんでした。
「今宵でおまえの源平合戦もおしまいまで弾けそうだの」
玉の声を響かせ、御屋形様が言いました。
桐は床に平伏し、「へい」と言いました。
「桐の琵琶は聞くごとに艶を増していくな。
楽しみだ」
桐は自分が自分の身体から抜け出し、御屋形様や知に貫かれているのが夢のことなのかまことのことなのかはっきりとはわかりませんでした。
しかし、知だけにふれられたあのときほど、自分の琵琶が色めいたのを感じたことはありません。
桐は赤い顔を床につけたまま、伏せておりました。
やがて、御屋形様に促され、桐は知から琵琶とばちを受け取るとざらりばらりと源平合戦を弾き始めました。
今宵は源氏に追い詰められ周防の国まで逃れてきた平家の様子を語ります。
いつもは騒々しく手足を打ち鳴らす鎧の男たちも、今日は静かに、そしてところどころでさめざめと泣く声も聞こえてきました。
桐も自分の心の内が悲しいせいか、より一層、熱を込めて悲劇の場面を歌います。
擦り切れて血が出てきた手首がどれほど痛もうとも、和尚に手ひどく扱われて熱が出ようとも、桐は懸命に源平合戦の最後を弾き語り、そして涙しました。
そうしているうちに、ふわりと何かが抜け、桐は裸のまま部屋の中央に投げ出されておりました。
こうやってものを見るのもこれで最後かもしれません。
桐は一目、知の顔が見てみたいと思いました。
御簾が音もなく上がり、御屋形様が長い着物を引きずって桐の前に立ち憤りを見せつけると、桐は口を開きました。
後ろからは知がやってきて、酒を尻にたらし、切っ先を桐に突き刺しました。
ほどよくほぐれると、知が桐から抜け、代わりに御屋形様が入ってきました。
御屋形様は知に桐の前に行くように言いました。
「愛いやつよの、桐。
どうだ、知におまえのかわいらしいところをもっと見てもらうのはどうじゃ」
甘い声を上げる桐を知が見ておりました。
刀傷が幾つも入った顔は固まったままでしたが、桐は知の顔を見ることができたので嬉しく思いました。
しかし、後ろに突き刺さっているのが御屋形様ではなく知のものだともっとよいのに、と恐れ多いことを考えてしまいました。
それがすぼまりをきゅっと締めてしまったのか、御屋形様はお喜びになり、もっともっとと桐を淫らに乱れさせ、恥ずかしさのあまりまたもやきゅっと締めてしまうのをお楽しみになられました。
御屋形様は普段よりも長く、桐を愛でていました。
鯛のように赤く身体を染め、細魚のように跳ねる桐の姿を知は顔色を変えずに見ておりました。
御屋形様は少し意地悪く、知に見せつけるように桐を貫きました。
桐は苦しい心持ちで知の顔を見上げたそのときです。
和尚が知の後ろから近づき、お札を貼りつけようとしていたのです。
このままでは知が消えてしまいます。
桐は叫び声を上げました。
異変に気づいた知が身を翻したので、お札は知にふれることはありませんでした。
「興が削がれた」
御屋形様はずるりと桐から憤りを抜き、怖ろしい声で言いました。
一瞬で辺りがぴんと糸を張ったようになりました。
ただ、琵琶を弾いている桐の声だけが朗々と響きました。
声を上げてしまった桐は、もうおしまいだと思いました。
しかし、たとえ琵琶が壊されても、知が消えてしまうことのほうが耐えられないと思ったのでした。
さめざめと泣いている桐を御屋形様は美しい錦が汚れるのも構わずに抱き寄せました。
「わたしを慰める桐の琵琶の邪魔をする者は消さなくてはならない」
その声を聞いても和尚は怯む様子もありませんでした。
桐以外の者には和尚の姿は見えておらず、手にはまだたっぷりのお札があったからです。
「おや、紙切れが宙を浮いている」
知はお札の束に近づきました。
「おやめください。
このままお逃げくださいませ」
桐は叫びますが、知はどんどん和尚に近づき、和尚はにんまりと笑ったままお札を三枚、知に投げつけました。
桐の悲鳴が高く響きました。
お札は知に突き刺さり血が噴き出ましたが、知が消えることはありませんでした。
今度はお札を抱えた和尚が震える番でした。
「桐や、これを見てごらん」
御屋形様は懐から大きな水晶の玉を取り出し、なで始めました。
透き通っていた玉の中にもやが浮かび、それは次第に人の形になっていきました。
それは京の都のさる貴族のお屋敷でした。
まだ幼い桐が美しい錦の着物を着て、庭で乳兄弟と一緒に蹴鞠《けまり》をして遊んでおりました。
乳兄弟が蹴り損ない、庭の隅に転がっていった鞠を追いかけていきました。
瞬きをする間に薄汚い格好の男に桐はかどわかされました。
水晶の中の男の顔は若い和尚のものでした。
和尚は幼い桐を背負子に入れて、西へ西へと逃げました。
そして西の果ての周防の国にたどり着き、坊主でもないのに頭を丸め、廃寺に住み始めました。
辺りの人は旅のお坊様が廃寺に移り住まわれたのだと思い、よくして差し上げました。
幼い桐は恐ろしくていつも泣いていましたが、ある時、逃げ出そうとしました。
男は怒って、桐の目に毒薬を注ぎ、目を潰してしまいました。
男は桐の屋敷に仕えていた下男のひとりでした。
美しい子どもの桐に心を奪われてしまい、こんなことをしでかしてしまったのです。
しばらくしてほんのりと色がつくように女《おなご》の子のように大きくなった桐に辛抱たまらず、嫌がる桐を裸に剥いて柱に手首を腰紐でくくりつけ、足を広げすぼまりを拓いていきました。
その様子がまざまざと水晶に映されると、和尚は恐ろしさに身体が震え、桐はすっかり忘れていた真実を知り身体を震わせました。
「のう、桐や。
そなたの源平合戦を聴き、我らの気は済んだ。
そろそろ潮時だ。
我らは海の下の都に参る。
どうだ、そなたも来ぬか。
目は見えたままだ。
あの琵琶も持って行ってやる。
あれはよい。
長い陸路を越え、海も渡ってきた舶来物だ」
和尚はぎょっとしました。
このままでは桐は亡霊に取り込まれてしまいます。
腕に抱えたお札をすべて御屋形様や知、鎧の男たちに投げつけ、お経を唱え続きました。
お札は先程と同じように身体に突き刺さり、血はだらだらと流れました。
桐は泣き叫びましたが、皆動じることはありませんでした。
偽物の和尚が書いたお札には効力がこれっぽちもなかったのです。
「うるさいの。
知や、そこに浮いている耳に言い聞かせるから取ってこい」
和尚は身体中にお経を書いておりましたが、両の耳だけ、お経を書くのを忘れておりました。
知は宙に浮いている耳に手をかけ、べりりと上から下へむしり取りました。
和尚が叫び、顔の両横から血を流しながら倒れ、床にのたうち回りました。
それが見えない御屋形様に知が赤く染まった二つの耳を差し出しました。
御屋形様はその耳に口を当て、「しばし静かにするように」と言うと、辺りに打ち捨ててしまいました。
「桐や、我らと共に行かぬか。
おまえは知を好いておるのだろう。
海の都で知と祝言を上げるがよい」
桐は御屋形様の袖の中から知を見ました。
知は黙ったまま、熱く桐を見ました。
桐は心を決めました。
「御屋形様、私はここになんの未練もございませぬ。
どうぞ、一緒にお連れください。
そして知様と沿わせてくださいませ」
桐が言うと、御屋形様は大きく笑い、懐から金地に赤い日の丸が描かれた扇を取り出すとそよそよと風を起こしました。
それは次第にさざ波となり、気づけば桐の足元まで波が打ち寄せておりました。
御屋形様を先頭に、琵琶を持った知や桐、そして鎧の男たちは海の奥深くへ歩いていきました。
翌日、丸裸で耳をもぎ取られ血まみれになった和尚が、草ぼうぼうの荒れた墓場に倒れているのを、近くの村人が見つけました。
和尚のそばにはぴくぴくと動く耳が二つ、落ちておりました。
大慌てで村中の人が和尚を寺に運び込み、懸命の手当てをしましたが、その傷が元で和尚は呆気なくこの世を去りました。
それからというもの、不思議なことに海が穏やかな日には海の下から琵琶の音が聞こえてくることがあるそうでした。
〈了〉
あとがき https://etocoria.blogspot.jp/2017/04/miminashi.html
桐は力が入らずよろめいておりましたので、それだけでもとても時間がかかってしまいました。
和尚もまた、頭から水をかぶりました。
「桐や、おまえは話そうとしないがわしにはわかる。
おまえは平家の落人の亡霊《あやかし》にとり憑かれておる。
このままではおまえは命を落としてしまうだろう。
わしが助けてやる。
言われたとおりにしなさい」
そう言うと、和尚は桐を本堂に連れて行きました。
そして、墨を擦ると自分の身体中にお経を書き始めました。
自分では書けない背中などは、桐に手探りで書かせました。
「これで亡霊からはわしが見えなくなったはず。
あの汚らわしい亡霊が現れたらこのお札を貼って退治してやるからな」
和尚は何枚も何枚もお札を書き始めました。
桐は本堂の隅で、冷え切り痛む身体を力なく横たわらせておりました。
夕方になり、和尚は寄合があるふりをして寺から出ていき、すぐに寺の縁の下に潜り込みました。
桐はそわそわしておりましたが、しばらくすると庭の松の葉がざわりざわりと揺れ、がしゃんがしゃんと鎧が鳴る音がしました。
「桐はおるか」
「へい」
知《とも》のしゃがれた声に桐が返事をすると、いつものように片手に琵琶とばち、もう片方の手で桐の手を引いて歩き出しました。
桐の手首には和尚が縛った腰紐でできた傷があり、ひどく痛みましたが、知は気にせずにどんどん手を引いて歩きます。
桐は引きずられるようにしてついていきながら、時々後ろを振り返りました。
そこには身体中にお経を書いた裸の和尚がたくさんのお札を抱えながらひょこひょこと二人のあとをついてくるのが見えました。
しかし、知には見えないのか、さっさと歩かない桐の手をぐんっと引っ張り先を急ぎました。
やがて、よい香りがしている屋敷に入り、いつもの大きな部屋に通されました。
知が桐の手を離しました。
桐は思わず小さな声を上げそうになりましたが、こらえました。
大好きな知の手が離れていくのが嫌でした。
このまま和尚に退治され、もう二度と知の手を取ることができないかもしれない、と思うと胸がきりきりと痛みました。
どんなにか御屋形様や知に早くここから逃げるよう、言いたかったかしれません。
しかし、桐はそうすることができませんでした。
お札を書き上げた和尚は再び嫌がる桐の足を開き、すぼまりに憤りを沈めながら言ったのでした。
「もしおまえが亡霊にこのことを少しでも漏らせば、あの琵琶を壊してやる。
それが嫌なら何も言わずに黙っておくのだ」
何も見えない桐にとって、琵琶を弾くことが唯一の楽しみであり、慰めでもありました。
その琵琶が壊されてしまい、ずっと闇の中にいるのは耐えられそうにありません。
桐は和尚に激しく揺さぶられながら「へい」と小声で答えるしかできませんでした。
「今宵でおまえの源平合戦もおしまいまで弾けそうだの」
玉の声を響かせ、御屋形様が言いました。
桐は床に平伏し、「へい」と言いました。
「桐の琵琶は聞くごとに艶を増していくな。
楽しみだ」
桐は自分が自分の身体から抜け出し、御屋形様や知に貫かれているのが夢のことなのかまことのことなのかはっきりとはわかりませんでした。
しかし、知だけにふれられたあのときほど、自分の琵琶が色めいたのを感じたことはありません。
桐は赤い顔を床につけたまま、伏せておりました。
やがて、御屋形様に促され、桐は知から琵琶とばちを受け取るとざらりばらりと源平合戦を弾き始めました。
今宵は源氏に追い詰められ周防の国まで逃れてきた平家の様子を語ります。
いつもは騒々しく手足を打ち鳴らす鎧の男たちも、今日は静かに、そしてところどころでさめざめと泣く声も聞こえてきました。
桐も自分の心の内が悲しいせいか、より一層、熱を込めて悲劇の場面を歌います。
擦り切れて血が出てきた手首がどれほど痛もうとも、和尚に手ひどく扱われて熱が出ようとも、桐は懸命に源平合戦の最後を弾き語り、そして涙しました。
そうしているうちに、ふわりと何かが抜け、桐は裸のまま部屋の中央に投げ出されておりました。
こうやってものを見るのもこれで最後かもしれません。
桐は一目、知の顔が見てみたいと思いました。
御簾が音もなく上がり、御屋形様が長い着物を引きずって桐の前に立ち憤りを見せつけると、桐は口を開きました。
後ろからは知がやってきて、酒を尻にたらし、切っ先を桐に突き刺しました。
ほどよくほぐれると、知が桐から抜け、代わりに御屋形様が入ってきました。
御屋形様は知に桐の前に行くように言いました。
「愛いやつよの、桐。
どうだ、知におまえのかわいらしいところをもっと見てもらうのはどうじゃ」
甘い声を上げる桐を知が見ておりました。
刀傷が幾つも入った顔は固まったままでしたが、桐は知の顔を見ることができたので嬉しく思いました。
しかし、後ろに突き刺さっているのが御屋形様ではなく知のものだともっとよいのに、と恐れ多いことを考えてしまいました。
それがすぼまりをきゅっと締めてしまったのか、御屋形様はお喜びになり、もっともっとと桐を淫らに乱れさせ、恥ずかしさのあまりまたもやきゅっと締めてしまうのをお楽しみになられました。
御屋形様は普段よりも長く、桐を愛でていました。
鯛のように赤く身体を染め、細魚のように跳ねる桐の姿を知は顔色を変えずに見ておりました。
御屋形様は少し意地悪く、知に見せつけるように桐を貫きました。
桐は苦しい心持ちで知の顔を見上げたそのときです。
和尚が知の後ろから近づき、お札を貼りつけようとしていたのです。
このままでは知が消えてしまいます。
桐は叫び声を上げました。
異変に気づいた知が身を翻したので、お札は知にふれることはありませんでした。
「興が削がれた」
御屋形様はずるりと桐から憤りを抜き、怖ろしい声で言いました。
一瞬で辺りがぴんと糸を張ったようになりました。
ただ、琵琶を弾いている桐の声だけが朗々と響きました。
声を上げてしまった桐は、もうおしまいだと思いました。
しかし、たとえ琵琶が壊されても、知が消えてしまうことのほうが耐えられないと思ったのでした。
さめざめと泣いている桐を御屋形様は美しい錦が汚れるのも構わずに抱き寄せました。
「わたしを慰める桐の琵琶の邪魔をする者は消さなくてはならない」
その声を聞いても和尚は怯む様子もありませんでした。
桐以外の者には和尚の姿は見えておらず、手にはまだたっぷりのお札があったからです。
「おや、紙切れが宙を浮いている」
知はお札の束に近づきました。
「おやめください。
このままお逃げくださいませ」
桐は叫びますが、知はどんどん和尚に近づき、和尚はにんまりと笑ったままお札を三枚、知に投げつけました。
桐の悲鳴が高く響きました。
お札は知に突き刺さり血が噴き出ましたが、知が消えることはありませんでした。
今度はお札を抱えた和尚が震える番でした。
「桐や、これを見てごらん」
御屋形様は懐から大きな水晶の玉を取り出し、なで始めました。
透き通っていた玉の中にもやが浮かび、それは次第に人の形になっていきました。
それは京の都のさる貴族のお屋敷でした。
まだ幼い桐が美しい錦の着物を着て、庭で乳兄弟と一緒に蹴鞠《けまり》をして遊んでおりました。
乳兄弟が蹴り損ない、庭の隅に転がっていった鞠を追いかけていきました。
瞬きをする間に薄汚い格好の男に桐はかどわかされました。
水晶の中の男の顔は若い和尚のものでした。
和尚は幼い桐を背負子に入れて、西へ西へと逃げました。
そして西の果ての周防の国にたどり着き、坊主でもないのに頭を丸め、廃寺に住み始めました。
辺りの人は旅のお坊様が廃寺に移り住まわれたのだと思い、よくして差し上げました。
幼い桐は恐ろしくていつも泣いていましたが、ある時、逃げ出そうとしました。
男は怒って、桐の目に毒薬を注ぎ、目を潰してしまいました。
男は桐の屋敷に仕えていた下男のひとりでした。
美しい子どもの桐に心を奪われてしまい、こんなことをしでかしてしまったのです。
しばらくしてほんのりと色がつくように女《おなご》の子のように大きくなった桐に辛抱たまらず、嫌がる桐を裸に剥いて柱に手首を腰紐でくくりつけ、足を広げすぼまりを拓いていきました。
その様子がまざまざと水晶に映されると、和尚は恐ろしさに身体が震え、桐はすっかり忘れていた真実を知り身体を震わせました。
「のう、桐や。
そなたの源平合戦を聴き、我らの気は済んだ。
そろそろ潮時だ。
我らは海の下の都に参る。
どうだ、そなたも来ぬか。
目は見えたままだ。
あの琵琶も持って行ってやる。
あれはよい。
長い陸路を越え、海も渡ってきた舶来物だ」
和尚はぎょっとしました。
このままでは桐は亡霊に取り込まれてしまいます。
腕に抱えたお札をすべて御屋形様や知、鎧の男たちに投げつけ、お経を唱え続きました。
お札は先程と同じように身体に突き刺さり、血はだらだらと流れました。
桐は泣き叫びましたが、皆動じることはありませんでした。
偽物の和尚が書いたお札には効力がこれっぽちもなかったのです。
「うるさいの。
知や、そこに浮いている耳に言い聞かせるから取ってこい」
和尚は身体中にお経を書いておりましたが、両の耳だけ、お経を書くのを忘れておりました。
知は宙に浮いている耳に手をかけ、べりりと上から下へむしり取りました。
和尚が叫び、顔の両横から血を流しながら倒れ、床にのたうち回りました。
それが見えない御屋形様に知が赤く染まった二つの耳を差し出しました。
御屋形様はその耳に口を当て、「しばし静かにするように」と言うと、辺りに打ち捨ててしまいました。
「桐や、我らと共に行かぬか。
おまえは知を好いておるのだろう。
海の都で知と祝言を上げるがよい」
桐は御屋形様の袖の中から知を見ました。
知は黙ったまま、熱く桐を見ました。
桐は心を決めました。
「御屋形様、私はここになんの未練もございませぬ。
どうぞ、一緒にお連れください。
そして知様と沿わせてくださいませ」
桐が言うと、御屋形様は大きく笑い、懐から金地に赤い日の丸が描かれた扇を取り出すとそよそよと風を起こしました。
それは次第にさざ波となり、気づけば桐の足元まで波が打ち寄せておりました。
御屋形様を先頭に、琵琶を持った知や桐、そして鎧の男たちは海の奥深くへ歩いていきました。
翌日、丸裸で耳をもぎ取られ血まみれになった和尚が、草ぼうぼうの荒れた墓場に倒れているのを、近くの村人が見つけました。
和尚のそばにはぴくぴくと動く耳が二つ、落ちておりました。
大慌てで村中の人が和尚を寺に運び込み、懸命の手当てをしましたが、その傷が元で和尚は呆気なくこの世を去りました。
それからというもの、不思議なことに海が穏やかな日には海の下から琵琶の音が聞こえてくることがあるそうでした。
〈了〉
あとがき https://etocoria.blogspot.jp/2017/04/miminashi.html
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