苗木萌々香は6割聴こえない世界で生きてる

一月ににか

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十五話

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 中々泣き止むことのできない私の手を引いて、纐纈こうけつ君は公園のベンチまで連れて行ってくれた。
 自販機で買ったあたたかいお茶と、水で冷やしたハンカチ。ずっと背中をさすってくれるやさしい手。それは纐纈君にとって最善の対応だったのだろうけど、逆に私の心と涙腺はますます刺激され、ずいぶん長い間待たせてしまった。

 ぬるくなったお茶を三口飲んで、深く息を吐いて吸う。
 昼間の熱気が残る冷めきれない空気は、今の自分の状況によく似ている。

「なぁ、今までずっと話せないままでいたけど、苗木にはどんなふうに音が聞こえてるのか教えてくれないか?」
「……うん」
 真っ直ぐに向けられた瞳に抗えるはずがない。私はベンチに座り直し、纐纈君に対して膝を向けた。

「とは言ってもね、纐纈君が私の聞こえ方を想像できないように、私も両耳が聞こえる人の聞こえ方はわからないんだ。だから、比較はできないの。飽くまで想像でしかない」
「それでいいよ。オレはもっと苗木のことが知りたいんだ。苗木がどんな世界で生きてるのか」
 真剣さの表れだろう。纐纈君は両膝に手を乗せぴんと背筋を伸ばした。

「私の右耳は、多分まったく聞こえてないの。多分って言うのは、聴力検査には限界があるから。機械で音を鳴らして、聴こえたらボタンを押すでしょう? それで、反応がなかったら少しずつ音量を大きくしていく」

 言いながら、私はその場面を思い起こした。大きくて重いヘッドフォンをつける。右耳から音を出した時、ぴくりとも動かない私の右手を先生は不思議そうな顔で見るんだ。

「それでね、音量を上げ続けると最後には左耳が音を拾っちゃうの。だから、もしかしたら右耳がほんの少しだけ音を拾ってる可能性もゼロではないけど、今のは左耳だろうなって思いながら、私はボタンを押さずにいるんだ」
「自己判断みたいになっちゃうんだな」
「そう。私の場合はね」

 乾いた口の中をお茶で潤し、話を続ける。 

「だから、私は右側から話しかけられたらほとんど聞こえなくて……小さい頃。私の右耳が聞こえないって判明してなかった頃ね、私はおばあちゃんから呼んでも返事をしない可愛げのない子だって思われてたんだって」
 あっけらかんと話してみたけれど、やっぱり纐纈君は悲しそうな目をした。

「別にね。おばあちゃんと私の関係は悪くないよ。
 ただ、そうやって誤解されやすいところは、死ぬまで変わらないんだろうなぁ」

 わかってるんだもん。とっくに諦めてるよ。
 世の中には、私よりもっと大変な障害を持ってる人がたくさんいるの。
 私は恵まれている方。
 私はただ生きにくいだけで、生きるか死ぬかの瀬戸際に立ったことさえない。

「右耳が完全に聞こえないんだったら、苗木は普通の人の半分しか聞こえてないのか?」
「厳密に言うと違うかな。
 世界の半分、ぱっきり右側だけ聞こえないわけじゃないよ。さっきも言った通り、左耳が少しは拾うからね。小声だと全然聞こえないけど、右側で叫ばれたらさすがに聞こえるよ」

「試してみる?」と尋ねると、纐纈君は苦い表情で首を振った。楽しい感じを出そうとしたのだけど、卑屈さを感じさせてしまったみたいだ。
 反省して、話を本筋に戻す。

「でも、片耳だから音に立体感はなくて、方向は全然わからないし、ちょっとした雑音ですぐかき消されちゃう。ざわついてる場所は苦手だし、大人数での会話なんてほとんど聞こえてない」

 どうしたら伝わりやすいかな。
 何かに例えればいい? それとも数値化してみる?
 困って空を見上げると、中途半端に欠けた月が目に入った。

「だから……これは本当に、単なる私の主観なんだけど、音は六割くらい聴こえてる。だけど、言葉は六割聴こえてない。私はそう思ってる」
「六割……」
「状況によるし、本当にアバウトな数字ね」

 公園に隣接した道路を車が走る。風が木々を揺らし、葉擦れの音がする。遠くで救急車のサイレンが鳴っている。纐纈君が話している。
 私の耳は音に優先順位を付けられない。

「本当はね、今も纐纈君の声は車が通るたびに半分くらいかき消されてる」
「じゃあ、どうしてこんなふうに普通に話せるんだ?」
「聴こえる振りをしてるから」

 そう告げる私の声を、夜風が吹き飛ばした。
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