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美雪

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 少し考えさせてください。
 そんな言葉を残して、利光さんは札幌に戻って行った。
 利光さんは今日、この部屋に来ない。食事を共にすることはない。
 なんとなく寒々とした部屋のソファにペタリと座る。
 札幌で何をしているのだろうか。

 事務所の仲間と飲んでいるのだろうか?
 お姑さんに世話を焼かれているのだろうか?
 それとも……
 奥さま……美雪さんと話をしているのだろうか?

 次に上京するのは十日後と聞いている。

 次の日の勤務中。
 目の前の電話が鳴る。この音は社長室からの内線だ。

「浅川君、ちょっと来てくれないか」
「すぐに参ります」

 社長室に入ると、ソファに座るよう言われた。

「藤木先生と何かあったのか?」
「いえ」

 ドキリとする。

「先生から何かお話が?」
「いや、今後夕食の提供は辞退したい、と言われてな」

 目の前が真っ暗になり、ふらりと倒れそうになった。

「由梨花?」

 それは社長ではなく、父親の声だった。

「実は私の古い友人、先生のお義母かあさんから連絡があってな」
「え……」
「先生は、由梨花に惹かれているらしいと」
「そんなはずは……」

 それならなぜ、夕食に来ないの?

「歯止めが効かなくなるのを恐れているのかもしれないな。何か思い当たることはないか?」
「私、言ったの。ここで一緒に生活しませんかって。先生の健康が心配だったから……」
「なるほど、そういうことか」
「なにか役に立ちたかった。空いている部屋もあるし」
「それ以上の思いは無かったのか?そう言えるのか?」
「それは……」
 
 思わず口ごもる。
 あった、それ以上の思い。

「生半可なことをすると辛い目を見るぞ、由梨花も、先生も」
「うん」
「まあいい、由梨花ももう大人だ。年は離れていても、先生なら問題はない」
「うん」
「ただな、同じ別れでも、死別と離婚では全然違うぞ」

 わかっている。利光さんは私の中に美雪さんを見ている。私に惹かれているわけじゃない。一瞬、沈黙が流れる。
 
「そうだ、浅川君」

 いつの間にか父親から社長に戻っていた。

「明日から、出張に行ってくれ」
「社長のお供ですか?」
「いや、浅川君一人で、北海道に行ってくれ。寒いところで大変だが」

 え?

「札幌?先生の事務所でしょうか?」
「そうなんだが、その前に小樽に寄って欲しい」
「小樽?」
 
 そこには営業所も取引先も無いと思うが。

「そこで、ある人にこれを渡してほしい」

 社名の入った書類入れだった。それと「銀波館」という旅館のパンフレット。

「先方には話しておく。小樽駅に着いたら、タクシーでその旅館に行ってくれ。女将さんが出迎えてくれるはずだ。それは女将さんに渡してくれ」
「はあ」

 釈然としなかったが、とにかく飛行機のチケットは予約した。秘書室長の高木さんに一泊二日の出張届けを出す。社長からも聞いているとのことで、すぐに承認された。

 1日目 新千歳空港で土産品の市場調査
     小樽泊
 2日目 藤木法律事務所で打ち合わせ

 それにしても、不思議な出張ではある。

 翌日、朝十時過ぎに新千歳空港に着いた私は、土産物店などの様子を見て回った。この時間帯だと、道内に住む人たちの利用が多い。浅川物産と関わりのある店舗に顔を出した後、食事処の入りを見る。休憩を取った後、午後には、道外から来て帰って行く人たちの購買行動を調べた。
 二時過ぎ、小樽行きの快速列車に乗る。

「右の窓際に座るといいよ」

 高木さんの言う通り、札幌を過ぎてしばらくすると、線路すれすれまで、石狩湾の波が迫って。白みがかった冬の空から小雪が舞っている。 

(寒そうだな)
 
 終点の小樽に着くと、駅前には雪が積もっていた。言われた通りタクシーに乗り、旅館の名を告げると

「ほう」

 と感心するような反応が帰って来た。

「いい宿だよ、一流旅館だよー」 

 出張でそんな高い宿に泊まって大丈夫なのだろうか。でも社長が言うのだから仕方ない。車は小高い丘に登って行き「銀波館」の玄関に着いた。

「いらっしゃいませ」

 和服を着た美しい女性が出迎えてくれた。

「東京から来た浅川です」
「お待ちしておりました。女将の永井美鈴でございます。浅川社長さんには、いつもお世話になっております」

 さ、どうぞ、と荷物を手に取り、先に立って歩きだす。

「今日は海が見える部屋をご用意しております。こちらでございます」
「うわぁ」

 広い角部屋の窓からは、小樽の街並みと石狩湾が一望だった。

「素敵なお部屋ですね」
「ありがとうございます」
「浅川社長から預かってまいりました。女将さんに渡すようにと」
「ありがとうございます……確かに」

 女将は海を見つめた。

「浅川様、お着きになったばかりで申し訳ないのですが、会っていただきたい者がおります」
「どなたでしょう」

 女将はそれに答えず、畳に手をついた。

「お願いでございます」
「わかりました」
「では、こちらへ」

 長い廊下を歩き、突き当りのドアを開けた。

「ここからは私どもが暮らしている区画になります」
 
 なぜ、そんなところへ?

「本来なら、お客様のお部屋に伺うべきなのですが、それができない事情がございまして」
「療養されているのですか?」

 女将さんはある部屋の襖を開けた。

「どうぞ、こちらへ」

 静まり返った部屋。仏壇に蝋燭の炎が揺れている。女将さんは由梨花が渡した書類入れを開けた。中には紫色の布に包まれた白い袋。そこには「御仏前」の文字があった。
 仏壇には微笑んだ女性の写真。女将さんは香典をその前に供えた。

「娘の美雪でございます」

 なんと美しい女性だろう。微笑んだ顔は優しさに溢れている。
 
「も、申し訳ありません」

 私は叫んだ。

「藤木先生を自宅に招いたりして……。ただ先生の名誉のためにも申し上げますが、決して不適切な関係ではありません」
「浅川様、私は喜んでおりますのよ、きっと美雪も」

 女将さんは、美雪さんの写真をじっと見つめた。

「美雪は言ったんです。利光さんが心配だ。冷たいご飯なんて食べさせたくない。私の代わりに、食事を作ってあげて。いつか利光さんが新しい女性ひとに出会うまで」 
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