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目覚めると、障子越しに朝の光が柔らかく差し込んでいた。窓の外には灰色の雲。そして小雪が舞っている。時折、薄く日が射すものの、やはり今日も寒そうだ。
夢かうつつか。昨晩、この手の甲に確かに温もりを感じた。
美雪さんは私の背中を押してくれたのだろうか。そう信じたい。
いや、信じるまでだ。
軽くシャワーを浴び、身支度をして朝食を頂いた。部屋に戻り、小樽の遠景を目に焼き付ける。そこへ女将さんが顔を出した。改めて見ると、やはり美雪さんに似ている。
「おはようございます。よくお眠りになられましたか?」
「はい、とても」
「それはようございました。昨日、失礼なお話をしてしまいましたので」
女将さんが頭を下げる。
「いえ、おかげさまで吹っ切れました。私も心を決めて先に進む気になりました」
「そうですか……」
「昨夜、一人で座っていたら美雪さんが来てくれました。なんか温もりを感じたんです。私、美雪さんが励ましてくれているような気がしました。いえ、勝手にそう思うことにしました」
「ああ」
女将さんは目頭を押さえた。
「そう思って下さったのですね。うれしい。これでやっと美雪も利光さんも、呪縛から解放される……」
「お願いがあります」
「なんでしょう?」
「またいつか、美雪さんに会いに来ていいですか?」
「ありがとうございます。きっと喜ぶと思います」
その場に、なんとも和やかな空気が流れた。
「それでは、札幌の藤木法律事務所へ向かおうと思います。小樽駅までタクシーをお願いしたいのですが」
「いえ、もう迎えに来ていますよ、利光さんが」
「えっ」
「まあ、高速を走ってくれば一時間くらいですから。きっと待ちきれなかったのでしょう」
支払いを済ませロビーに出ると、利光さんがソファに座っていた。
「先生……」
「ああ、おはようございます」
それに続く声が出ない。
「利光さん、お焼香ありがとうございました。美雪も喜んでいると思います。はるばる東京からいらした浅川様をよろしくお願いしますね」
「はい、確かに」
「浅川様とよく話してください」
「わかりました」
そのとき、女将さんの表情が引き締まった。
「利光さん、元・義母として言わせていただきます。この先、あなたがどんな女性とお付き合いしようと自由です。でも、できれば美雪に負けない方とにしていただきたいわ。たとえばここにいる由梨花さんのように」
「はい」
「それでは、雪も降っているのでお気をつけて。浅川様、またいつでもおいでくださいね」
「お世話になりました」
利光さんが高級車の助手席のドアを開けてくれた。微かなシトラスの香り。シートに座ると利光さんの存在感が有無を言わさず迫って来る。利光さんも運転席に座り、シートベルトを締めた。女将さんに会釈すると静かに発進する。振り返ると女将さんが見送っていた。それが美雪さんと重なっているように見えた。
「驚いたでしょう」
利光さんが口を開いた。
「ええ、とても」
「気を悪くしましたか?」
「いえ、逆です。なぜ先生が、そんなにまで奥様を愛しているのかよくわかりましたから。あんなきれいな奥様なら、そうなるでしょうね」
「妻が病気になっても、医師ではない私は何もしてやれませんでした。法律のことなら自由自在に扱えるのに、病気のことには全くの無力で、それが悔しくて」
利光さんは、いまも痛みを感じながら生きている。それを感じる私も心が痛む。たぶんそれは生涯消えることはない。それでも私は利光さんと生きよう、そう心に決めた。
藤木法律事務所は札幌市中心部の十階建てのビルのワンフロアに入っていた。
利光さんがドアを開ける。
「おはよう」
利光さんの声に皆が振り向き、口々に挨拶をする。そして、私の存在に注目が集まった。
「東京の浅川物産の社長秘書・浅川由梨花さんだ。東京で仕事をするときは食事のことなどサポートを頂いている。今日は、今後の打合せで立ち寄られた」
「初めまして、浅川由梨花と申します。今後、よろしくお願いいたします」
秘書勤務で習得した「美しい挨拶」を披露して見せた。
利光さんによれば、事務所には弁護士が五人、所長の利光さんと参謀格の山路弁護士がベテラン、あとの三人は若手ということだ。地元企業の法務関係業務を請け負うことが多いとのことだ。それからパラリーガルや事務の女性が五人。窓からは大通公園とテレビ塔が見える。もちろん浅川物産本社とはスケールが違うが、華やかな雰囲気だった。
「では、私の執務室で話をしましょう」
促されて利光さんの執務室に入る。仕事用のデスクと応接セットがある。
「どうぞ」
ソファに座るよう勧められた。事務の女性がお茶を出してくれる。
「これまでは私の方が絶対的にアウェイなので緊張していましたが……」
「先生が、そんなふうに思われていたのなら私の不行き届きでした」
利光さんをまっすぐに見る。
「東京でも、ホームと思っていただけるよう努めてまいります」
「あ、いや……。ありがとうございます」
なんだか照れくさそうにしている。
「これからのスケジュールですが、先生が東京に来られるのは、来週の水曜日でよろしいでしょうか?」
「その予定です」
「それまでに用意しておくものはございますか?」
「いえ、こちらで準備しますので大丈夫です」
私はひそかに深呼吸して、そして言った。
「以前申しましたが、私の家で一緒に生活していただけますか?」
夢かうつつか。昨晩、この手の甲に確かに温もりを感じた。
美雪さんは私の背中を押してくれたのだろうか。そう信じたい。
いや、信じるまでだ。
軽くシャワーを浴び、身支度をして朝食を頂いた。部屋に戻り、小樽の遠景を目に焼き付ける。そこへ女将さんが顔を出した。改めて見ると、やはり美雪さんに似ている。
「おはようございます。よくお眠りになられましたか?」
「はい、とても」
「それはようございました。昨日、失礼なお話をしてしまいましたので」
女将さんが頭を下げる。
「いえ、おかげさまで吹っ切れました。私も心を決めて先に進む気になりました」
「そうですか……」
「昨夜、一人で座っていたら美雪さんが来てくれました。なんか温もりを感じたんです。私、美雪さんが励ましてくれているような気がしました。いえ、勝手にそう思うことにしました」
「ああ」
女将さんは目頭を押さえた。
「そう思って下さったのですね。うれしい。これでやっと美雪も利光さんも、呪縛から解放される……」
「お願いがあります」
「なんでしょう?」
「またいつか、美雪さんに会いに来ていいですか?」
「ありがとうございます。きっと喜ぶと思います」
その場に、なんとも和やかな空気が流れた。
「それでは、札幌の藤木法律事務所へ向かおうと思います。小樽駅までタクシーをお願いしたいのですが」
「いえ、もう迎えに来ていますよ、利光さんが」
「えっ」
「まあ、高速を走ってくれば一時間くらいですから。きっと待ちきれなかったのでしょう」
支払いを済ませロビーに出ると、利光さんがソファに座っていた。
「先生……」
「ああ、おはようございます」
それに続く声が出ない。
「利光さん、お焼香ありがとうございました。美雪も喜んでいると思います。はるばる東京からいらした浅川様をよろしくお願いしますね」
「はい、確かに」
「浅川様とよく話してください」
「わかりました」
そのとき、女将さんの表情が引き締まった。
「利光さん、元・義母として言わせていただきます。この先、あなたがどんな女性とお付き合いしようと自由です。でも、できれば美雪に負けない方とにしていただきたいわ。たとえばここにいる由梨花さんのように」
「はい」
「それでは、雪も降っているのでお気をつけて。浅川様、またいつでもおいでくださいね」
「お世話になりました」
利光さんが高級車の助手席のドアを開けてくれた。微かなシトラスの香り。シートに座ると利光さんの存在感が有無を言わさず迫って来る。利光さんも運転席に座り、シートベルトを締めた。女将さんに会釈すると静かに発進する。振り返ると女将さんが見送っていた。それが美雪さんと重なっているように見えた。
「驚いたでしょう」
利光さんが口を開いた。
「ええ、とても」
「気を悪くしましたか?」
「いえ、逆です。なぜ先生が、そんなにまで奥様を愛しているのかよくわかりましたから。あんなきれいな奥様なら、そうなるでしょうね」
「妻が病気になっても、医師ではない私は何もしてやれませんでした。法律のことなら自由自在に扱えるのに、病気のことには全くの無力で、それが悔しくて」
利光さんは、いまも痛みを感じながら生きている。それを感じる私も心が痛む。たぶんそれは生涯消えることはない。それでも私は利光さんと生きよう、そう心に決めた。
藤木法律事務所は札幌市中心部の十階建てのビルのワンフロアに入っていた。
利光さんがドアを開ける。
「おはよう」
利光さんの声に皆が振り向き、口々に挨拶をする。そして、私の存在に注目が集まった。
「東京の浅川物産の社長秘書・浅川由梨花さんだ。東京で仕事をするときは食事のことなどサポートを頂いている。今日は、今後の打合せで立ち寄られた」
「初めまして、浅川由梨花と申します。今後、よろしくお願いいたします」
秘書勤務で習得した「美しい挨拶」を披露して見せた。
利光さんによれば、事務所には弁護士が五人、所長の利光さんと参謀格の山路弁護士がベテラン、あとの三人は若手ということだ。地元企業の法務関係業務を請け負うことが多いとのことだ。それからパラリーガルや事務の女性が五人。窓からは大通公園とテレビ塔が見える。もちろん浅川物産本社とはスケールが違うが、華やかな雰囲気だった。
「では、私の執務室で話をしましょう」
促されて利光さんの執務室に入る。仕事用のデスクと応接セットがある。
「どうぞ」
ソファに座るよう勧められた。事務の女性がお茶を出してくれる。
「これまでは私の方が絶対的にアウェイなので緊張していましたが……」
「先生が、そんなふうに思われていたのなら私の不行き届きでした」
利光さんをまっすぐに見る。
「東京でも、ホームと思っていただけるよう努めてまいります」
「あ、いや……。ありがとうございます」
なんだか照れくさそうにしている。
「これからのスケジュールですが、先生が東京に来られるのは、来週の水曜日でよろしいでしょうか?」
「その予定です」
「それまでに用意しておくものはございますか?」
「いえ、こちらで準備しますので大丈夫です」
私はひそかに深呼吸して、そして言った。
「以前申しましたが、私の家で一緒に生活していただけますか?」
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