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「お帰りなさいませ、父上」
 息子の褒治が、弾んだ声を上げた。小身といえども武士の子なのだからもう少し厳しく躾けねば、と思うのだが、一粒種の息子はやはり愛おしい。
 遠方代官である市之進は、家そのものは城下の池之入西に寓居を構えているのだが、仕事の兼ね合いから、普段は本宮にある公宅や糠沢の名主宅に、市之進一人が単身赴任をしているようなものである。代官の職務の報告の時に家に立ち寄ることはあっても、このところ、ゆっくり息子に構ってやる暇もなかった。
「褒治、父上はお仕事でお疲れなのですよ」
 妙が、息子を叱る。だが、その口元には微かに笑みが浮かんでいた。妙も、久しぶりに夫の姿を目にして、ほっとしたのだろう。だが、目を合わせると、その顔がゆっくりと強張っていった。
「米沢は……」
 妙の言葉に、市之進は黙って首を横に振った。妙には、出立前に「米沢へ行ってくる」と告げてあった。妙も、目を伏せる。武士たる者、常に死を覚悟せねばならぬ。頭では理解していても、咄嗟に感情が追いつかないのだろう。
「父上。今年は両社山りょうしゃざん提灯ちょうちん祭りを見に行ってもよろしいでしょうか」
 無邪気にねだる褒治に半ば呆れながら、市之進はこつんと息子の頭を小突いた。
「たわけ。武士の子が平民らに混じって浮かれ騒ぐなど、とんでもない。それは恥というものだ」
「……はい」
 しゅんと項垂れる息子は、二本松が戦場になるなど露にも思っていないのだろう。秋の提灯際りは、本町にある二本松の総鎮守、両社山の小さな祭りだったのを、丹羽貴明や丹波たんば親子らが皆が楽しめるようにと規模を広げ、藩公認の祭りとしたものだった。宵闇にいくつもの提灯が下げられた山車が練り歩く様子はそれはそれは華やかであり、町人らの秋の楽しみとしてすっかり定着した感があった。もっとも裏側で祭礼を執り行う武士らも、建前上は「あれは平民が浮かれ騒ぐもの」として、子供らが参加するのは許していなかった。
 だが、その「提灯祭り」も、今年は行う余裕がないに違いない。
 なあ、と鳴き声を上げて褒治の足元に一匹の猫が擦り寄ってきた。笠間家の飼い猫のたまである。褒治は珠を抱き上げると、その体を撫で回した。すると珠は嫌がって褒治の腕の中で身を捩らせ、褒治の二の腕を引っ掻きざまにぱっと蹴って、地面に降りた。笠間家の、いつもの日常が光景がそこにあった。だが、それを見られるのもあと何日のことか。
「あ、もう。何で逃げるんだよ、珠」
 愛猫を追いかける息子の背中をやれやれと見送ったが、その姿も、間もなく今生の見納めになる。そう思うと、市之進の眦に涙が浮かびかけた。
ひろし様……」
 顔を俯かせてつぶやく妙の声は、震えていた。長年連れ添った妻である。市之進が死を覚悟しているのを、先程の返答で悟ったに違いない。人前では「市之進様」呼びだが、二人だけのときは、妙はいみなで呼ぶのだった。
「明日には、白岩で留守を預かって下さっている横田様らの元へ参る」
「はい……」
 声は震えているが、妙は気丈に答えてみせた。恐らく、今晩の食膳には勝栗や松葉を入れた水杯が並ぶのだろう。常州に遠征したときも、妙はそれを用意した。だが、縁起物とは言え、今回ばかりはどこか空々しく感じた。
「それからな。万が一の場合は皆と米沢へ向かえ」
 市之進の声に、妙がきっと顔を上げた。
「それは決まったことなのですか?」
 思わずその迫力に、たじろぎそうになる。
「いや、日野様が城下に命を下す準備をする、と仰っていたに過ぎぬ」
 だが、どう考えても源太左衛門の口ぶりからすると、二本松の民の避難先は、米沢の可能性が高かった。会津はそもそも奥羽越列藩同盟の発足となった切掛である以上、西軍が攻めてくるのは必須である。仙台は藩論が割れたままま、此度の戦に突入した。挙げ句、白河では度々敗退している。両藩よりも比較的情勢が落ち着いているのが、米沢藩だった。
 もっとも、米沢の軍備が大したものでないのは、剣術師範として米沢に赴いていた市之進はよく知っていた。第一、外部から剣術師範を招くというのは、他国に手の内を明かすようなものである。米沢の戦に対する危機感がないのはその一事からも明らかだったが、奥羽越列藩同盟の盟主に名乗り出るなど、保身には長けているとも言えた。
 そして、源太左衛門が市之進を米沢に赴かせたのは、万が一二本松の民らが避難することになった際に、米沢藩に「貸し」を作っておくためでもあった。
 それが二本松の民らの保護につながるのならば、市之進は構わない。だが、妙はぎゅっと唇を結んだままだった。
「母上。珠がまたどこかへ行ってしまいました」
 頬を膨らませたまま、褒治が戻ってきた。一人っ子の褒治にとって、珠は兄妹のようなものなのだろう。
「仕方ないでしょう。珠は猫なのですから。どこへでも気ままに行くのが猫の性というものです」
 そう言って息子の頭を撫でる妻の顔は、すっかり母親としてのそれに戻っていた。だが、その心中は穏やかでないに違いない。

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