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名も知らぬ恋人
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こいつはヤバいやつなんじゃないのか。
二人きりの部屋で私は一人汗をかく。室温は肌寒いくらいだったはずだが、じんわりとジャケットの脇のあたりが湿っていくのを感じる。
「アリスタイオスは、とても強くて優しかった。私たちの国を導くほどの大きな存在でした」
懐かしむ様子で話す彼女は、傍から見るとただの疲れた女だ。心理カウンセラーでもない私の見解が定かかどうかはわからないが、現実に疲れて、架空の世界に逃げ込んでいるだけなのではないか。
ニュースで見たことがある。
ゲームのやりすぎで、現実と架空の世界がわからなくなったのでしょう。得てしてそういう人間は、現実世界もゲームのようにリセットできると考えてしまいがちなのです。だから人の命を軽く見る。
そう、偉そうな爺さんが言っていた。こいつも、そういうやつなんじゃないのか。ゲーム内でデート?私には想像がつかなかった。
だが、下手なことを言って相手の機嫌を損ねるのも危険だ。私はそう判断した。事務とはいえ警察学校は出ているが、警察官と違って事務方がやるのはせいぜい体操とランニングくらいで、健康的な一般人と何ら変わりはない。
もしこの女が、偉そうな爺さんが言うような、「ゲームに侵された廃人」で、現実世界で急に刃物でも振り回したら。
極力柔らかい声で私は聞いた。「ええと……その、お探しのアリス……」
慣れぬ名前にどもる私に彼女が反応した。
「何か?」
「いえ、その探されている方のお名前は?」
「ああ、『アリスタイオス』」
「その方が、この遺体の方だと?」
彼女のスマホの画面には、八月頃に亡くなったと思われる男性の遺留品が写っている。
「多分」
「実際の、この遺体の方とはお会いしたことが?」
「いいえ。ゲーム内のアバターとしか」
「そうですか……ええと、あなたも何か、ええと」
「アバター」
「そう、それを持っていたんですか?」
「ええ。私はエーオースという名前のキャラを」
「はあ。じゃあ、実際に会ったことはないんですね」
「ええ」
と、そこまで朗らかに話していた彼女の様子が一変、落ち着かない様子となる。しきりに自分の両手を揉みだし、うつむく。しばらくして、震える声が聞こえた。
「でも、現実世界でも付き合わないかって、アリスタイオスに言われて」
まあ、ゲームを世にはびこるSNSだと考えれば、オンライン上で知り合った相手と本物の恋人同士になることだってあり得なくはない。
「でも私、そんなこと出来ないって」
「なぜ?恋人なんでしょう?」
「あくまでも、ゲーム内でです。本当にそんな仲になんて、なるつもりはなかった」
何かを思い出したのか、彼女はゆっくりと首を振る。
「無理だって言ってたのに、でもあの人はしつこくて。それで、殺してしまった」
重大な罪を告白するかのように、彼女は頭を深く垂れた。
「殺した……?まさか、あなたが」
立ち上がった勢いで椅子が倒れた。あなたが、あんなことをしたのですか?
意気込む私の様子に気付いたのか、慌てて彼女が付け加える。
「その、本当に殺したわけじゃないんです。その……、ゲームの中で」
「ゲームの中で?」
一体どんな罪を犯したかと思えば。なんだ、ゲームの話か。力が抜けて、私は倒れた椅子を直して腰掛ける。
「FPSPKって、ご存知ですか?」
「なんですか、それ」初めて聞く言葉だ。
「FPSが『First-Person Shoote』の略。これは対戦型のゲームを指します。CMで見たことありませんか?銃をもったプレイヤー同士が戦い合うシーン」
「はあ」間の抜けた声しか私からは出てこない。
「そして、PKが『PlayerKill』、言葉のとおり、他のプレイヤーが操作しているキャラクターを殺害する人のことを指します」
「それが、あなただっていうんですか?」
「PKとしてゲーム内を荒らすようなことはしませんが、私は実際アリスタイオスを殺してしまった。PKと言われても仕方がありません」
言い切って、彼女は両手を強く握りしめた。
「あんなに彼は私の力になってくれていたのに、私、なんてことを……」
「ですが、あなたがアリスタイオスさんを殺したのは、あくまでもゲーム内の話でしょう」
すでにバカバカしくて話す気にもならなかったが、このままこの女を追い返すわけにもいかない。私は渋々聞いた。
「それがなぜ、現実で死んでいるだなんて思ったんですか」
「その……例えば、私に拒否されたことでショックを受けて、自殺でもしてたらって。実際、あれ以来アリスタイオスはゲーム上にも現れなくなってしまったんです」
それで、自殺者の多そうな山梨県警のホームページにたどり着いたというわけか。
「仮に、そうだったと仮定しましょう。ゲーム内でショックなことが起こり、アリスタイオスさんは自殺を選んだ」
そんなことあるもんか。自殺を選ぶなんて、よほどのことがなければ。そう思ったが、そこを否定しては話が進まない。
「ですがなぜ、この遺体……いえ、身元不明者の方が、そのアリスタイオスさんだと思ったんですか?」
残念ながら遺体の顔は原型をとどめていなかったから、骨格を頼りに似顔絵を作成することさえできなかった。残された手がかりは遺留品のみだが、現実世界で会ったことがないのなら、その人が何を身に着けていたかなんて知る由もないはずだ。
だというのになぜ、この女はホームページの、この一番最近に見つかった身元不明者を『恋人』だと思ってやってきたのだろう。
「蜂蜜です」
返ってきたのは意外な答えだった。
「彼は、蜂蜜が好きだって言ってたから。身体にいいし、これさえ食べとけばいいって言っていたくらい」
「はあ」
私は阿呆みたいに返すしかなかった。確かに遺品としては珍しいだろう。蜂蜜。
それだけを手掛かりに、彼女は警視庁の身元不明者のページから、ここまでやってきたのだ。
「お願いです、あの人が本当にアリスタイオスなのか、調べてもらえませんか?」
二人きりの部屋で私は一人汗をかく。室温は肌寒いくらいだったはずだが、じんわりとジャケットの脇のあたりが湿っていくのを感じる。
「アリスタイオスは、とても強くて優しかった。私たちの国を導くほどの大きな存在でした」
懐かしむ様子で話す彼女は、傍から見るとただの疲れた女だ。心理カウンセラーでもない私の見解が定かかどうかはわからないが、現実に疲れて、架空の世界に逃げ込んでいるだけなのではないか。
ニュースで見たことがある。
ゲームのやりすぎで、現実と架空の世界がわからなくなったのでしょう。得てしてそういう人間は、現実世界もゲームのようにリセットできると考えてしまいがちなのです。だから人の命を軽く見る。
そう、偉そうな爺さんが言っていた。こいつも、そういうやつなんじゃないのか。ゲーム内でデート?私には想像がつかなかった。
だが、下手なことを言って相手の機嫌を損ねるのも危険だ。私はそう判断した。事務とはいえ警察学校は出ているが、警察官と違って事務方がやるのはせいぜい体操とランニングくらいで、健康的な一般人と何ら変わりはない。
もしこの女が、偉そうな爺さんが言うような、「ゲームに侵された廃人」で、現実世界で急に刃物でも振り回したら。
極力柔らかい声で私は聞いた。「ええと……その、お探しのアリス……」
慣れぬ名前にどもる私に彼女が反応した。
「何か?」
「いえ、その探されている方のお名前は?」
「ああ、『アリスタイオス』」
「その方が、この遺体の方だと?」
彼女のスマホの画面には、八月頃に亡くなったと思われる男性の遺留品が写っている。
「多分」
「実際の、この遺体の方とはお会いしたことが?」
「いいえ。ゲーム内のアバターとしか」
「そうですか……ええと、あなたも何か、ええと」
「アバター」
「そう、それを持っていたんですか?」
「ええ。私はエーオースという名前のキャラを」
「はあ。じゃあ、実際に会ったことはないんですね」
「ええ」
と、そこまで朗らかに話していた彼女の様子が一変、落ち着かない様子となる。しきりに自分の両手を揉みだし、うつむく。しばらくして、震える声が聞こえた。
「でも、現実世界でも付き合わないかって、アリスタイオスに言われて」
まあ、ゲームを世にはびこるSNSだと考えれば、オンライン上で知り合った相手と本物の恋人同士になることだってあり得なくはない。
「でも私、そんなこと出来ないって」
「なぜ?恋人なんでしょう?」
「あくまでも、ゲーム内でです。本当にそんな仲になんて、なるつもりはなかった」
何かを思い出したのか、彼女はゆっくりと首を振る。
「無理だって言ってたのに、でもあの人はしつこくて。それで、殺してしまった」
重大な罪を告白するかのように、彼女は頭を深く垂れた。
「殺した……?まさか、あなたが」
立ち上がった勢いで椅子が倒れた。あなたが、あんなことをしたのですか?
意気込む私の様子に気付いたのか、慌てて彼女が付け加える。
「その、本当に殺したわけじゃないんです。その……、ゲームの中で」
「ゲームの中で?」
一体どんな罪を犯したかと思えば。なんだ、ゲームの話か。力が抜けて、私は倒れた椅子を直して腰掛ける。
「FPSPKって、ご存知ですか?」
「なんですか、それ」初めて聞く言葉だ。
「FPSが『First-Person Shoote』の略。これは対戦型のゲームを指します。CMで見たことありませんか?銃をもったプレイヤー同士が戦い合うシーン」
「はあ」間の抜けた声しか私からは出てこない。
「そして、PKが『PlayerKill』、言葉のとおり、他のプレイヤーが操作しているキャラクターを殺害する人のことを指します」
「それが、あなただっていうんですか?」
「PKとしてゲーム内を荒らすようなことはしませんが、私は実際アリスタイオスを殺してしまった。PKと言われても仕方がありません」
言い切って、彼女は両手を強く握りしめた。
「あんなに彼は私の力になってくれていたのに、私、なんてことを……」
「ですが、あなたがアリスタイオスさんを殺したのは、あくまでもゲーム内の話でしょう」
すでにバカバカしくて話す気にもならなかったが、このままこの女を追い返すわけにもいかない。私は渋々聞いた。
「それがなぜ、現実で死んでいるだなんて思ったんですか」
「その……例えば、私に拒否されたことでショックを受けて、自殺でもしてたらって。実際、あれ以来アリスタイオスはゲーム上にも現れなくなってしまったんです」
それで、自殺者の多そうな山梨県警のホームページにたどり着いたというわけか。
「仮に、そうだったと仮定しましょう。ゲーム内でショックなことが起こり、アリスタイオスさんは自殺を選んだ」
そんなことあるもんか。自殺を選ぶなんて、よほどのことがなければ。そう思ったが、そこを否定しては話が進まない。
「ですがなぜ、この遺体……いえ、身元不明者の方が、そのアリスタイオスさんだと思ったんですか?」
残念ながら遺体の顔は原型をとどめていなかったから、骨格を頼りに似顔絵を作成することさえできなかった。残された手がかりは遺留品のみだが、現実世界で会ったことがないのなら、その人が何を身に着けていたかなんて知る由もないはずだ。
だというのになぜ、この女はホームページの、この一番最近に見つかった身元不明者を『恋人』だと思ってやってきたのだろう。
「蜂蜜です」
返ってきたのは意外な答えだった。
「彼は、蜂蜜が好きだって言ってたから。身体にいいし、これさえ食べとけばいいって言っていたくらい」
「はあ」
私は阿呆みたいに返すしかなかった。確かに遺品としては珍しいだろう。蜂蜜。
それだけを手掛かりに、彼女は警視庁の身元不明者のページから、ここまでやってきたのだ。
「お願いです、あの人が本当にアリスタイオスなのか、調べてもらえませんか?」
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