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さようなら

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 そして式の日がやって来た。小さな教会で、白のドレスに白のベールを被って、モリスに伴われて壇上に上がる。

 壇上で待っているグレンも白のフロックコートで、直前までしていた眼帯は外されて、素顔を晒している。司教には事前に事情を話していた。何も遮るものは無い。マーサも連れてきて、四人と一匹だけの結婚式。嬉しくて、アニーは何度も泣きそうになるのをこらえた。

 グレンの手を取って壇上を上がる。司教の口上を聞き終えて、指輪を交換する。彼がゆっくりとベールを持ち上げる。誓いのキスを交わして、アニーは幸せの絶頂にいた。

 ふと、本当に何気なく、女神像が目に留まった。泣きそうな女神。その像を見た途端、何かが去来する。何だろう。あれは───

 身を巡らせていく何かに、アニーは拒絶出来ない。あれは──この記憶は───

「アニー?」

 グレンの声。間近の彼の顔でアニーは正気に戻る。必死に全ての感情を押し殺して微笑むと、グレンもホッとしたように微笑んでくれた。

 そのまま何事もなく式は終わり、二人は同じ指輪を嵌めて、再び小屋へ帰った。


 二階のいつもの部屋で、二人はやっと身体を重ねた。この時が最上で、これ以上の幸福は無いのを、アニーだけが知っていた。


 アニーは起き上がる。隣で眠るグレンを見下ろす。そっとベッドから降りて、彼の額にキスをする。そのまま部屋を出た。

 向かったのは小屋の前の小川。アニーは靴を脱いだ。短く祈りを済ませると、一度だけ振り返った。


 あの教会で、アニーは全ての記憶を取り戻していた。自分が何者で、何をして、何をされたのか、ありありと思い出した。
 罪を重ねた自分には相応の罰が必要だ。人を殺しておいて、自分だけが幸せにはなれない。

 自分はただ、平和を願っただけ。戦争を終わらせて、平和になってくれたらと、そう願っただけ。その代償に多くの人が死んでいった。殺してしまった。その責を受けずして、自分だけが幸せになんて、他ならぬ自分が耐えられない。

 幸運だった。最期に、好きな人と結ばれて、こんなに幸運なことはない。女神に感謝する。恨みもした。もう戻れない。何もかも思い出して、何もかも知らぬふりは出来ない。

 もっと早くに出会いたかった。もっと早くに会っていたら、何も罪を負わず、綺麗な身体のまま、何の負い目もなく純粋な気持ちで添い遂げられただろう。叶わぬ夢だった。

 小川の流れは早い。何日か前に降った雨で増水して、泥の色をしていた。

「さようなら」

 ボールロールの一節を思い出す。アニーは川に身を投げた。


『さようなら。終わりには別れの言葉が良く似合う』




 グレンが目を覚ますと、隣にいる人がいなかった。隣は冷たくて、随分前にいなくなったのだと知る。

「アニー…?」

 グレンは一階に降りる。誰もいない。モリスは遠慮して昨夜から村の方で寝泊まりしていた。アニーを呼ぶが、返事はない。グレンは部屋すべてを探してから、外に出た。
 目の前の小川は、雨のせいで増水して濁流のように流れている。そこに、小さな白い物を見つける。近づくと靴だと分かった。アニーの靴だ。

 近づく時に既に、グレンには一つの予感が駆け巡っていた。悪い予感ほど的中する。今回もそうで、どう考えてもアニーはこの川に身を投げたとしか思えなかった。

 靴を広い上げようとして、中々拾えなかった。膝をつく。震える手で何とか拾い上げて胸に抱く。胸が締め付けられたように呼吸が出来ない。

 認めたくないのと、紛れもない事実が交錯する。その言葉を唱えないように必死で止め続けた。靴を強く握りしめる。

「女神よ…」

 震える喉で、何とか絞り出す。全ての感情を怒りに集約していた。

「女神よ!これが彼女の望んだことなのか!彼女はただ願っただけ!こんな終わりを望んではいなかった!彼女はただ小さな幸せさえ得られればそれだけで良かったんだ…!それさえも踏みにじるお前は女神ではない!厄災をもたらす悪魔だ!」

 地面を叩く。怒りの行き場を失って、ただ自分の手を傷つけた。

「女神なら!俺の願いも叶えろ!この忌まわしい瞳に陥れておいて!俺の願いは何も叶えてくれない!一度くらいは俺の言うことを聞け!」

 叫びは、虚しく濁流の音に消えていく。温もりを失って久しい靴だけを拠り所に、グレンはいつまでも嗚咽した。

   



 視界が明るくなる。まばゆい光に包まれて、何も見えない。光と自分の境界が分からなくなるような一体感があり、空間全体を支配したかのような心地になる。

 温かなぬくもりに触れる。光の先に誰かが立っていた。

「アニー?」

 名を呼ぶと、その人は微笑んだ。光が邪魔してよく見えない。

「返事をしてくれ」

 微笑むばかりで、何も言ってくれない。触れようにも、体の感覚が無く、どうやったら近づけるのかも分からない。

「アニー、会いたいんだ。来てくれ」

 呼びかけも虚しくその人は光の中へ消えていく。グレンは手を伸ばした。

「アニー!」



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