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しおりを挟む聞きたくない、と思ったときには何も聞こえなくなっていた。静かな音のない世界。けれどあの歓声が鳴り止まない。アンは耳を塞いだ。
彼の来訪から数日後、部屋を移された。そこは牢獄とは思えない普通の部屋で、床は絨毯が敷かれ、壁紙が貼られ、ベットも前よりも大きく広いものになっていた。窓だけは鉄格子のままだった。
簡素なテーブルと椅子、壁には棚が置かれ、開けると紙やらペンやら備品が入っていた。
それと身の回りの世話をする侍女もついた。彼女はアンが耳が聞こえない事情を知っていて、『ソル』と書いた小さな切れ端を見せてくれた。それが彼女の名前だった。いつもニコニコして、ほがらかな人だった。
これがあの人による気遣いだと気づいていた。テオ総督、テレンス王の異母弟だが、王位への野心が無いのを示すために早々に王位継承権を放棄していた。自らは軍に志願し、王族というコネを最大限に生かして、総督にまで登りつめていた。常に戦争で他国へ行っていたから、王宮で暮らしてきたアンとは面識はほとんど無かった。
アンが塔に収容されてから、テオがやって来るようになった。最初は何のためかは分からなかったが、一つの手紙を受け取ってから、その理由が判明した。
あろうことか彼は、テレンスを退位させようとしていた。
アンにとってそれは青天の霹靂だった。幼い頃から王妃にと望まれてきたアンは、テレンスが王になるのも当たり前だと思っていた。そしてその通りにテレンスは王になった。まだニヶ月前の出来事だ。
アンは彼の誘いを断った。廃された時点でアンの役目は終わっていた。正直言って、もう何も考えたくないし何もしたくない。無気力だった。
テオはそれからも次々と手紙を送ってきた。父と兄の濡れ衣。テレンスの身勝手な政治。サリタの贅沢な暮らし。アンは父と兄の罪が嘘だった事実を知れたことには感謝したが、二人の横暴さを知らされても、テオに協力しようとは思わなかった。アンは度々聞こえてくる歓声に苦しんでいた。
手紙は人目を憚ってテオの従者が直々に持ってきた。その場で読んでその場で返した。返事をと請われてもいつも断った。
優しいソルは、アンのために色々と骨を折ってくれたらしい。部屋の掃除から始まり、父と兄の祈りのための祭壇の設置、鞭打たれた背中の薬まで、あらゆることに気を配ってくれた。一日中、部屋にいては体に悪いからと、部屋の外に出ていい許可を貰ってきた。
豊かな部屋を与えられただけでも問題だと思っているのに、罪人が監獄を出るなど、王やサリタに知られたらどうなるか、アンはさすがに、と断った。
数日後、アンの元にテオがやって来た。テオは自らアンに手紙を渡した。封筒はなく、四つ折りのそれを開く。アンはその内容に思わずテオを見返した。
『王とサリタを捕縛した。この塔の地下に軟禁している。アンは王妃に復位する』
信じられなかった。だが、テオの射抜くような眼差しが真実を告げていた。持っていた手紙が震えていた。自分の手が、震えていた。
テオはアンの腕を乱暴に引っ張った。部屋の外、牢獄から連れ出される。アンは渾身の力で抵抗した。
「───!」
声にならない声を叫んでいた。テオが振り向く。一瞬の隙をついて手を振り払って、牢獄へ戻ろうと走った。
立ちはだかったのはソルだった。牢獄の扉の前で塞ぐように立ち、首を大きく横に振った。
アンは王宮に連れていかれた。一ヶ月前まで住んでいた宮。何も変わっていなかった。テオにしっかり腕を掴まれ隣を歩かされる。傍目から見たら誰もが思うだろう。
まるで夫婦のようだと。
アンは出来るだけ下を向いた。それが精一杯の抵抗だった。
知らない部屋に通される。テオは扉に鍵をかけると、アンを椅子に座らせた。テーブルの上に白紙が置かれ、テオは走り書きした。
『現王は退位のサインをさせる。サリタも廃妃となるだろう。私が王になる。貴女を私の妻に迎える』
ペンが置かれる。書けということらしい。アンは手に取った。
『お断りします。廃されましたが、私は陛下の妻でした。父も兄もなく、私に後ろ盾はおりません。罪人の娘を妻とする意味がありません』
テオは直ぐに書いた。
『意味はある』
アンは怪訝な顔をした。
『貴女は臣下たちを味方にしている。求心力がある。それが欲しい』
そんなものはないと首を横に振る。
テオはニヤリと笑って「ある」と言ったように見えた。つらつらと書いて見せてきた。いろいろ書いてあったが、どうやらテオは随分、アンの政治的な手腕を買っているらしい。
アンはそれにも首を横に振った。
『私が嫌なんです』
テオは、初めて驚いた顔をした。
『まさか、テレンスをまだ愛しているのか』
父と兄を殺されて、こんなに苦しんでいるのに、何故テレンスを愛すなど出来るものか。そんなわけが無かった。もう怖くて仕方ないのだ。自分は、国のためにと、王に何度も諫言してきた。王に疎まれようと、先代が勝ち取った領土を手放してしまうような愚かな行為を見逃すことは出来なかった。王が妾を愛でようと、たとえ王宮で無視されようとも、王妃は王妃の役目を全うしようとした。
それがこれだ。
父と兄の首が跳ねられて、自分の番が来た。寸前で生き残って、極度の緊張、死への覚悟、最後の矜持が、斬首を免れたことで全て崩れてしまった。あのとき頬に走った引きつれが忘れられない。吸い込んだ息の、肺に広がった寒々しさが忘れられない。もうあんな思いはしたくない。
『処刑寸前で生かされるような目にはもう遭いたくありません。豪華な暮らしはもうたくさん。牢獄ならば、それ以上、堕ちることはありません。私を牢獄に戻してください』
『本当の牢獄はあんなもんじゃない。男どもの人形になってもおかしくなかった』
『それなら自死する言い訳も立ちましょう』
『死ぬのならいつでも出来る。父と兄に生かされたならば、もう一度その命、国に使ってみろ』
そんな気にどうしてもなれなかった。かと言って、その心情を書き出す気にもなれなかった。
ペンを置いたアンは、膝に手を置いた。会話を放棄したアンに、テオはペンを持った。
『残念だ』
それだけを書いて、テオは扉へ向かう。
「──どんなに屈辱を受けても貴女は耐えてきた。今回も、耐えられると思ったんだがな」
鍵を開けて部屋を出ていく。
扉が閉まる音がして、アンは自分の耳に手を当てた。
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