黄泉還りの国 

ken

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 1998年、俺の感覚ではつい先日還暦を迎えた――はずだった。
 でも、現実はまるで違う景色を見せていた。

 六十年かけて積み重ねた記憶も経験も、そのまま頭の中に残っている。
 だけど、それだけじゃなかった。
 まるで何かが宿ったみたいに、脳がどこまでも冴えわたる。記憶力は桁違い、何かを読めば一度で頭に入るし、どんな難解な本も苦もなく理解できる。

「……これ、もしかして“伊邪那美”でも降りてきたんじゃないか?」

 冗談めかしてつぶやいてみるけれど、現実の自分が驚くほど“覚醒”しているのは疑いようもなかった。

 日本全体が不況の重たい空気に包まれているこの年、大人たちが「年金が」「会社が」と愚痴る横で、俺は妙な使命感に背中を押されていた。

「ここからは、俺のターンだな……」

 朝は新聞を隅々まで読み、昼は図書館にこもって時代の動きを調べる。
 夕方はインターネット――といっても、まだダイヤルアップだけど――で世界の情報を貪るように吸い込んでいく。

 歴史書も、経済書も、プログラミングの分厚い解説書も、今の俺にはどれも“おやつ”みたいなものだ。

「学ぶのが止まらないって、こんな感覚だったんだな。これまでの人生、何してたんだよ、俺」

 それでも焦りはなかった。むしろ、これから始まる変革への期待の方が大きい。

 還暦からの“リスタート”――この覚醒をどう活かすかは、自分次第だ。
 そんなことを心の中で反芻しながら、俺は新しい知識のページを、次々とめくっていった。

 知識欲に火がついた俺は、新聞も社会欄から経済欄、はたまた法律特集まで隅々読んでいた。
 ある日、ふと気づいたのは、戦後の“女性の社会進出”というフレーズが、どのメディアにもやたらと踊っていることだ。

「男女雇用機会均等法が改正されたばっかりで、“これからは平等です”って大きな顔して言ってるけど……現実は、まだまだ山あり谷ありだよな」

 教育現場は当たり前のように男女共学。
 募集・採用・退職まで男女差別は禁止――建前ではそう書いてある。

 でも、その実態はどうだ。
 せっかく働き出した女性が、結婚や出産を機に職場を去る話は珍しくない。
 再就職できても、待っているのは安定しない非正規の仕事ばかり。

「法律は進んだ。だけど、“男は仕事、女は家庭”って空気はまだ根強い。長時間労働も当たり前で、“働く母親は大変ねえ”なんて、どこか他人事みたいに言われてるし」

 家でも学校でも、話題に上るのは“制度改革”の明るい側面ばかり。
 けれど現実には、理想と現実のギャップに苦しんでいる人たちがたくさんいる。
 高橋愛だって「将来は銀行員……でも、結婚したら辞めるのかな」なんて、ぼんやり不安そうにしていた。

「平等って言うのは簡単だけど、“本当に公平に生きられる社会”はまだ先か……俺も男として、どこまで想像力が持てるか試されるな」

 知識を詰め込むほど、制度と現実の“壁”の分厚さがよく見える。

「でも、知ったからには、無視はできない。二周目の人生は、少しでもマシな社会に――いや、せめて“俺の周り”から変えてみたいもんだな」

 静かにそう呟き、新しい時代の教科書を、また一枚めくった。

 バブル景気の名残が消えかけていた九〇年代後半。

 “女性の社会進出”なんて華やかな言葉が踊ったのも、今は昔。

 現実には、日本列島総不況――そんな物騒な言葉が、世間を支配しはじめていた。

 終身雇用という“常識”までが揺らぎ、もはや“男が外で稼ぎ、女が家を守る”なんて余裕はどこにもない。

「うちも最近、母さんのパートのシフトが増えたな……。子ども心に、なんとなく“家の空気”が変わったのを覚えてる」

 新聞をめくると、「共働き世帯、専業主婦世帯を上回る」の見出しが踊る。
 その数字が、まるで時代の空気を物語っていた。

「今や“共働き”は選択じゃなくて、生き抜くための必然。“景気が悪いから”って理由だけじゃなくて、もう生活そのものがシビアなんだよな」

 母親たちは、朝も昼も夜も働きづめ。
 仕事が終われば買い物して、家に帰れば家事と育児。
 テレビドラマみたいな“優雅な夕食”なんて、どこの国の話だろうと思うくらい。

「仕事と家の“二重負担”って、簡単に言うけど……家族のために頑張るって、ほんとに大変なことなんだな」

 家計のやりくりでピリピリする日も増えて、親子の会話も、子どもにかけられるお金や時間も、気がつけば“削られている”――そんな現実が、じわじわと迫ってくる。

「こういう時代に、子どもたちはどうやって夢を見ればいいんだろうな……」

 ふとそんな疑問を抱えながら、俺は家に帰って母のエプロン姿を見るたび、心の中でそっと頭を下げるような気持ちになるのだった。

 “女性の社会進出”なんて言葉が、もう珍しくもない1998年の日本。

 けれど、社会の表紙だけはいくらでも新しくできても、中身はそう簡単に変わらない。

 確かに、キャリア志向の女性も少しずつ増えた。
 大学を出て働くのが“普通”になりつつあったし、「仕事を続けたい」「もっと上を目指したい」って言う友人もいる。

 だけど、出生率は1.38――数字だけ見ても、未来が明るいとは言いがたい。
 クラスの人数だって、昔に比べてなんだか減ってきた気がする。

「“育児は家庭で”って空気、まだまだ根深いんだよなあ……」

 保育園の待機児童問題は連日のようにニュースになる。
 両親が働いている家は“保育サービス”を探して右往左往。
 それでも空きがなくて、結局どちらかが仕事を諦めるしかないなんて話も、身近に転がっている。

 社会全体が、“家族”より“労働力”を優先するのも、相変わらずだ。
 企業の都合や景気対策ばかりが大きな声で叫ばれて、個人の生活や夢は、どうしても“後回し”になってしまう。

「エンゼルプランとか色々対策は出てるけど、子育て世帯へのサポートって、正直まだまだ手ぬるいんだよな」

 経済的な支援も、手続きや条件がややこしくて、実際に恩恵を受けられる人は思ったより少ない。

 だからこそ、仕事と育児の両立は、簡単なことじゃない。
 この“両立の困難さ”が、そのまま静かに少子化へとつながっていく――それが、今この国で進行している「静かな危機」だ。

「……結局、“制度”と“現実”の間には、まだまだ深い溝があるんだよな」

 そんなことを思いながら、新聞の少子化関連記事に目を落とした。
 どこか重たく、そして切実な課題が、平成の空気をじわじわと染めていた。

 「日本列島総不況」――そんな不吉な見出しが新聞やテレビを賑わせていた1998年。

 誰もが「今は我慢のとき」と息をひそめているこの時代に、俺の頭の中だけはやけに騒がしかった。

「……やっぱり、世の中って変えられる余地がまだまだあるんだよな」

 多くの女性たちが、仕事と家庭の板挟みに苦しんでいる現実。
 制度はできても、現実の“壁”は相変わらず高い。

 俺は思った。

 “本気で両立できる社会”を実現するには、結局“誰か”が型破りな仕組みを作るしかないんじゃないか、と。

「だったら……自分で“作る側”に回ってみるか」

 頭に浮かんだのは、社内保育園を完備した新しい巨大企業の構想。

 “働く親”が家族も仕事も諦めずに済む場所を、この時代にこそ作りたい――そんな野心が、胸の奥で静かに燃え始めていた。

 もっとも、不況真っただ中に“巨大企業を興す”なんて、冷静に考えれば無謀以外の何物でもない。
 でも、俺には見えていた。モバイルゲーム産業、携帯電話やインターネット……時代の波が、着実に「情報」と「つながり」へと向かっているのを。

「いずれみんなが“持ち歩けるゲーム”や“電話でつながる”だけじゃなくて、“ネットの中でコミュニケーション”する時代が来る。……それなら、そのプラットフォームを作ったもん勝ちだ」

 まだ誰もSNSなんて言葉を知らないこの時代に、人々が“オンラインで繋がる”新しい世界を見据えていた。

「無謀? 上等だ。二周目の人生、これくらいの賭けに乗ってやらなきゃ面白くない」

 俺はそんなことを胸の中でつぶやきながら、未来の設計図を、頭の中に描き始めていた。
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