黄金の融資実行(ファイナンス) ―2043年から戻った元銀行マン、15歳の経済覇道―

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第6話 五輪の光影と、資本の祭典

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  1998年、5月。八王子の街を吹き抜ける風は、初夏の香りを運び始めていた。
 夕食後のリビング。俺――葛石任三郎は、ソファに深く腰掛け、手元のゲーム雑誌『ファミ通』を眺めていた。ページをめくると、数ヶ月前に閉幕したばかりの長野冬季オリンピックを題材にしたスポーツゲームの広告が目に飛び込んでくる。

「……五輪か」

 俺はテレビのリモコンを手に取り、スイッチを入れた。
 画面には、スポーツニュースのダイジェストが流れている。長野の熱狂から数ヶ月。日本中が「日の丸飛行隊」や「スピードスケートの金メダル」に沸いた余韻は、まだ完全には冷めていなかった。だが、俺の脳裏にあるのは、表舞台の栄光ではなく、その巨大な祭典の裏側で動く、冷酷な資本の論理だ。

「あら、任三郎。珍しくスポーツニュースなんて見てるのね」

 キッチンから、母・美津子が冷えた麦茶を運んできた。
 エプロン姿の彼女は、近所のスーパーでも「八王子の女神」と密かに囁かれるほどの美人だ。30代後半という、女性として最も円熟した美しさを放つ彼女のプロポーションは、タイトなデニムパンツの上からもはっきりと分かるほど、しなやかで整っている。パート先の同僚の男性たちが、彼女の気を引くためにどれほど無駄な努力を重ねているか、今の俺には手に取るように分かった。

「……ああ。長野の余韻が冷めないうちに、次のシドニーやその先がどうなるか、少し気になってな」
「気が早いわね。でも、確かにあの感動は凄かったわ。日本中が一つになったみたいで」

 母が隣に座ると、微かに石鹸の清潔な香りが漂う。
 俺は母の純粋な感想を否定せず、ただ、自分が「ビジネス・モデル」として記憶しているオリンピックの変遷を脳内で整理し始めた。

 俺にとって、オリンピックの記憶は単なるスポーツの記録ではない。それは、巨大なマネーが政治と複雑に絡み合い、ビジネスとして完成されていく「資本の進化史」そのものだ。

 1980年。俺が生まれる4年前に行われた「モスクワ五輪」。
 あの大会は、冷戦下の政治問題と深く結びついていた。ソ連のアフガニスタン侵攻への抗議として、米国を筆頭に日本を含む西側諸国の多数がボイコットを表明したのだ。
 本来、政治から独立しているはずの五輪の権威は、この集団ボイコットによって根底から揺らいだ。その4年後、1984年のロサンゼルス五輪では、今度は東側諸国が報復としてのボイコットを行い、五輪というシステムそのものが開催継続の危機に立たされた。

「……かつての五輪は、赤字を垂れ流す政治の道具に過ぎなかったんだ」

 俺の呟きに、母が不思議そうに眉を寄せた。

「赤字? でも、今の五輪ってすごく儲かっているイメージがあるけど」

「ああ、それを変えた男がいる。ピーター・ユベロスだ」

 1984年、ロサンゼルス五輪。
 開催都市が巨額の税金負担を嫌い、招致に名乗りを上げる都市が不在という危機的状況の中で、ユベロスは画期的な「民営化」を断行した。彼は税金を極力使わず、既存の施設を徹底的に活用し、それまでにはなかったビジネス手法を導入した。

 放映権の高額販売。
 スポンサーを「1業種1社」に限定し、希少価値を高めることでライセンス料を釣り上げる手法。
 入場料の徹底した管理。
 五輪マークや名称の使用制限を厳格化し、ブランド化する戦略。
 そして「聖火リレーの走者を有料で募集する」といった、徹底した収益化の施策の数々。

 結果として、ロス五輪は2億ドルを超える大きな黒字を叩き出し、以後の五輪の商業主義の端緒となったのだ。

 だが、俺は知っている。その「成功」が、その後の開催都市にとってどれほど重い足枷となったかを。

「黒字と言っても、それはあくまで短期的な大会運営費の話だ。インフラ整備やスタジアムの建設費用は、自治体の『公的債務』として長く残り続ける。1976年のモントリオール五輪が良い例だ。あの大会が残した数千億円規模の巨額赤字は、市民がその後30年以上もかけて返済し続けることになった」

 母が溜息をつく。

「……感動の裏側は、そんなに世知辛いのね」

「それだけじゃない。商業化が進みすぎたことで、招致活動そのものが巨大なマネーゲームになった。招致予算は天文学的に膨らみ、裏側では汚職や不正が進みやすくなる。このまま膨張を続ければ、数十年後、私が老人になる頃には、五輪というシステムそのものが、その自重に耐えきれなくなっているはずだ」

 ここから先――2020年の東京五輪という、俺が知る「もう一つの未来」に触れることは避けた。
 あの大会が残した未曾有のコスト、パンデミックによる無観客、そしてその後噴出した組織委員会の不透明な金流。
 それらを思い出すと、今目の前にある1998年の清々しい「スポーツへの信頼」とのギャップに、暗澹たる気持ちになる。

「任三郎? また、そんな怖い目をして」

 美津子が心配そうに俺の顔を覗き込む。彼女の瑞々しい瞳には、俺の内側に潜む60歳の亡霊が、時代を先回りして嘆いている姿が映っているのだろう。

「……すまない。少し考えすぎていたよ」

 翌日。学校の休み時間、俺は図書室で東鶴襟華と向かい合っていた。
 彼女は机の上に置かれた『Windows 98』の導入ガイドを興味深そうに指でなぞっている。
 弾けるような笑顔と知的なショートカット。襟華が微笑むだけで、静まり返った図書室の空気が、パッと明るくなるような錯覚を覚える。

「葛石くん。昨日のテレビ見た? サッカーのワールドカップ、フランス大会の特集。日本中がカズさんが外れたことで大騒ぎしてるわね」

 彼女の透き通るような肌は、窓から差し込む春の光を吸い込んで白く発光している。15歳という未熟さと、大人の女性のような洗練された雰囲気が、彼女の言葉に独特の説得力を与えていた。

「ああ。日本にとって初めての本大会出場だからな。……だが、スポーツの熱狂は、その裏にあるビジネスの巨大さを隠すための目隠しにもなる」

「また、そんな難しいことを。でも、男の子たちがみんな夢中になるのも分かるわ。邦彦くんなんて、教室でもずっとボールを蹴るマネをしてるし。……五輪もそうだけど、ゲームやテレビでこれだけ身近になると、憧れない方が難しいわよね」

 襟華がクスリと笑う。
 1998年という時代。学生たちの間では、スポーツ選手は依然として「なりたい職業」の筆頭だった。サッカー、野球、そして五輪。メディアが作り上げる「スター」という虚像が、最も力を持っていた時代だ。

「……憧れるのは勝手だが、選ばれるのはほんの一握りだ。そして、その一握りすらも、巨大な資本の歯車として消費されていく。……東鶴さん。君が夢見る『安定』も、実はそうした巨大なシステムが機能していることが前提なんだよ」

「わかっているわよ。だから、あなたの話は読み応えがあるの。……でもね、葛石くん。たまにはシステムの話じゃなくて、純粋に誰が勝つか、みたいな賭けに乗ってみたくはないの?」

 襟華は、いたずらっぽく瞳を輝かせ、俺の顔を覗き込んだ。その距離は、15歳の少年の心拍数を跳ね上げるには十分すぎるほど近かった。

「……私は、賭けはしない。勝つと分かっているフラグを立てるだけだ」

 俺はあえて視線を外し、図書室の窓からグラウンドを見下ろした。
 そこでは邦彦が、泥だらけになりながらボールを追いかけている。
 彼にはプロになる才能がある。だが、その才能を「資本」として守り抜く知恵を、今の彼は持っていない。

(五輪も、サッカーも、そしてネットも……。すべては、情報の非対称性を利用したマネーゲームだ)

 俺は心の中で、自分自身の「投資計画」を更新した。
 エンターテインメントと通信。人々が熱狂し、情報を求める場所にこそ、富は集まる。
 ロス五輪がスポーツをビジネスに変えたように、俺はこの1998年の混沌を、新しい「価値の体系」へと変えてみせる。
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