王妃の椅子~母国のために売られた公子

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13.離宮・王妃の回想(10)

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 春になるまで、何度かシャラフへ手紙を出した。雪が積もってくると、国外便は銀貨九枚必要になった。

「こう寒くちゃね、配達する人も渋るのよ」

 深い皺が寄るヤスミンの手へ、もう一枚銀貨を追加した。



 雪が降ってはやみ、吹雪いては晴れる。冬の女王の意のままに世界は白へ。夜の帳は長く、冷たく、重く。
 冬の間、ライルは早く就寝するようになった。
 ここでは何もかも配給制だ。
 リガーレの宮殿なら、読書のためにランプの油の減り具合を心配する必要もなかった。本の内容が時間によって変化する訳でもなし、陽が差す日中に読めばいい。
 それに、冬の夜は魔が忍び寄る。ほんの小さな心の隙間をざわめかせるのだ。
 休息日前のある晩のことだった。酒に酔った兵士たちが騒ぐのはよくあること。ライルはいつもなら気にしないが、偶々目が覚めてしまった。温かい布団を出て、冷える窓辺へ足を向けた。
 理由はない。敢えて言うのなら、無意識の魔に招かれたから。
 窓辺から見上げた空はインク壺の底のようだった。
 このインクの中をどれだけ飛べば、リガーレに着くのだろう。
 ふとそんな疑問が浮かんだ。荒唐無稽な話だが、闇に紛れてしまえば鳥の一羽くらい誰の目にも留まらない。逃亡とは違う。シャラフの姿を一目確認したら、すぐディルアへ戻るつもりだ。
 身体は、そう意識する前に鳥の姿になっていた。
 窓枠に立つ。冷たい空気にすすけた匂いが混じる。
 できそうな気がした。案外簡単じゃないだろうかとも思えた。
 心臓がばくばくとした。脳までが脈打つ。
 そうしてどれだけ経っただろう。細い脚はかじかんで痛みだした。
 さあ踏み出せ、今なら母国へ帰れる。

 ライルは意を決して羽ばたく。そしてすぐに着地した。床に落ちた寝間着の横へ。
 するすると人の姿へ戻り、何もなかったかのように寝間着を着る。

「ふっ……ふふっ。馬鹿なことを……」

 できるわけがない。広大な王宮の壁の向こうがリガーレだとしても、無許可で出るのは許されない。シャラフに一目どころか、一歩も出られないのに。
 あの王が不可侵条約を守っているのは、ライルを預かっているからではない。他の戦をあちこちでしているからだ。そもそもリガーレなど演習相手にもならない。
 分かっていた。短い夢を見ただけ。

 ドンドンドン。
 突然、部屋の扉を乱暴に叩かれる。
 何事だろう。深夜の来訪など、どんな緊急事態だろうか。そうでなければただの無作法者だ。
 扉を開けると、最早ライルの師ともいえる人物が顔を出す。

「あ、いた!」
「アーシム……さん?」

 顔が赤い。酒の匂いもさせている。それに、アーシムは城下の自宅から通う騎士だ。こんな時間に王宮にはいないはず。

「なあんだ。安心したよ。さっきまでさ、友人の部屋で酒飲んでいて。それで家に帰るとこだったんだけど、外から姿が見えたから……」
「姿?」
「うん、白い鳥。窓のところでビシってきまってて気高そうだったから、あれはライルなんだろうなって思った。でも……」
「でも?」
「ライルが……どこかに行ってしまいそうだったから。でもそれって大変なことになるんじゃないかなって。ごめん。僕が勝手に勘違いしただけだ」

 実行していたら大事だった。

「行こうと思ってました」
「えぇ?」
「夜空へ散歩に。騒がしくて目が覚めてしまったけど、寒いから止めたんです」
「そ、そうか。散歩か。ははっ。こんな時間は寒いよな。寝るところを邪魔してしまってごめんな。それじゃあ、おやすみ」

 ライルはくるりと背を向けたアーシムの外套を摘まみ、少しだけ引き留めた。

「アーシムさん、あなたはいい人ですね。おやすみなさい」

 ライルの事情を知った上で部屋まで駆けつけてくれた。わざわざ外から見えたというだけで。
 もう夜に目を覚ましても、窓の外を見ないようにしよう。恐ろしいものほど魅力的に見えてしまうから。
 眠るだけで十分だ。



 リガーレから持ってきた未読の本が少なくなるにつれ、次の季節の気配が色濃くなってきた。
 雪の下からは土が見え始める。荷を引く馬たちは冬の間にでっぷりと肥えていた。朝日は日増しに早く登り、暖かな輝きをもって冬を追いやっていく。
 もう春だ。次の戦が動き出す。
 シャラフへの手紙は何度も書いたが、またペンをとった。遠征先では国外便を出せる方法が分からない。王宮にいる間に出すのが確実だ。
 書簡管理室を訪ねると、ヤスミンは席を外していた。後ほどまた訪ねようと踵を返すと、いつもヤスミンの隣で黙々と作業をしている男に呼び止められた。

「お前さん、あんまり業務外の依頼を彼女にするんじゃあないよ」

 一瞬、ひやっとした。男は耳が遠いと聞いていたし、ヤスミンとのやり取りを見ている素振りもなかったのに。

「何のことでしょう」

 国外便はヤスミンに頼るしかないのだ。知られていようといまいと、止める選択肢はない。
 部屋を出た先で席へ戻ろうとしているヤスミンに出会えたので、そこで手紙を託した。
 春になったら戻ると言われた価格は、銀貨九枚のままだった。

「王宮の雪は溶けてきたけど、道のりの全てがそうなわけじゃないからねぇ。まだ雪が残ってる地域なんか大変なのよ」

 そういうことらしい。

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