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35話

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「…………」

 隼人はまだ日が高いうちに帰宅すると、休むことなく荷物を整理し始めた。
 仕事が全て無くなったため、引越し業者が来るまでに少し荷物をまとめておくことにしたのだ。
 機械的に目の前にある物を段ボールに詰めていく。
 淡々と。
 淡々と。
 あれだけ怒りに満ちていた感情が、潮が引いたように今はない。
 自分に残っているものを言葉に表すとしたら虚無という単語がふさわしい。
 もう疲れてしまった。
 何も考えたくないし、これ以上精神が揺さぶられるようなこともしたくない。
 ただ手だけを動かして部屋の中を空にしていく。

「隼人、少し休憩しましょう。ある程度まとめられましたし、そろそろお母様がいらっしゃるかと」

 ぼんやりと動いていた隼人は、仙崎の声で意識が現実に引き戻された。
 ふと顔を上げると外が暗い。
 とっくに夜になっていたようだ。
 
「……そうだね。ちょっと休もう」
「隼人、大丈夫ですか?」
「…大丈夫、多分。…何かもうよくわからない」
「何を飲みますか? お茶かコーヒーか、それとも――」
「…何でもいいや」
「わかりました。用意しますね」

 隼人は仙崎を待つ間に物がなくなっていく家の中を見た。
 生活感が剥ぎ取られ、空っぽな空間に戻りつつある。
 積まれた段ボールの数はそこまで多くない。
 無機質な空間も荷物の少なさも、まるで自分を表しているようだ。

(いや、実際そうなんだろうな。俺ってこの程度ってことか)

 何かこだわりの物があるわけでもなく、高価なブランド品があるわけでもない。
 なんなら捨ててしまっても構わないものばかり。
 今この場所に似つかわしくないものをあげるなら――。
 隼人はキッチンに立つ仙崎に目をやる。
 こんな状況でもスーツは少しも乱れることなく、人目を引く彼の格好良さは決して損なわれない。
 そしてこれから来訪する人間はそれを見逃さない。
 
「修二さん、本当に同席するの? 俺は修二さんがいてくれるのは心強いけど、間違いなく絡んでくるよ。やっぱりここから離れていて方がいいんじゃない?」
「いいえ、私も同席しますよ。こじれる可能性が高いでしょう? 隼人の側にいて守りたいのです。それに私に少し考えがあります。お母様がこの案に賛成してくれたら、隼人は穏便にお母様との関係に距離を置けるでしょう」
「そうなれたら凄く嬉しいけど……」
「大丈夫。きっと上手くいきます」

 仙崎はそう言いきるが不安は拭いきれない。
 隼人はプライドの高過ぎる母の性格をよく知っている。
 自分の思い通りにならなければ、今度は仙崎を攻撃対象にするだろう。

(そうしたら、俺に何が出来るだろう……)
 
 隼人がもんもんと考えていると、彼はティーカップをテーブルに置く。

「さあ隼人、紅茶を入れましたよ。リラックス効果のある茶葉を使ってみました」
「うん、ありがとう」

 隼人は出されたお茶を飲もうとしたその時、インターホンが鳴った。
 その音に身体が硬直して口をつけようとティーカップを持ち上げた手が止まる。
 そして同時に隼人のスマートフォンにも着信が来て、忌々しい電話番号が表示される。
 顔をしかめて電話に出ると、ふてぶてしい声が鼓膜に響く。
 
『来たわよ。開けなさい』
「……」

 相変わらず態度の大きい母に、隼人はもう何かを言う気力がなかった。
 無言のまま電話を切ると、仙崎に来たと一言告げてオートロックを開錠した。



「外、まだ女の子がたくさんいるわね。あんた一応人気はあるのね」
「……うるさい」

 玄関を開けてすぐに飛んできた癇に障る母の言葉に、隼人はぼそっと悪態をつく。
 母は今日もブランド物で全身を着飾っていて、その格好でここまで来たのかと思うと頭が痛くなる。
 ごてごてし過ぎているし、はっきり言って似合ってない。
 センスの悪すぎる宣伝広告になっている。

「引っ越すの? 引っ越したらちゃんと住所教えなさいよね。お金が足りなくなった時に貰いに行けないでしょ。ねえ、いらない家電があったら私にちょうだい」

 図々しいことを言ってずかずかと上がり込んでいく母に、隼人は乱暴に玄関の扉を締める。
 少しでも早く追い出したい。
 枯れていた怒りが湧き上がってくる。
 しかしほんの少しの苛立ちから、想定以上の疲れがどっと押し寄せてきた。

「……――――?」

 目眩を覚えるような異常な疲れ。
 立ち眩みのような感覚に、とっさに壁に手をついた。
 このまま座り込んでしまいたい。
 目を閉じて耳を塞いで、倒れ込んで眠ってしまいたい。
 隼人は不可解な自分の体調に頭が混乱する。

(…なんだこれ?)

「あらやだ、どなた!? あなた凄くカッコいいわね」
「!!」

 隼人はリビングから聞こえてきた声に、不調を顧みずにパッと身を翻す。
 
「初めまして。隼人さんのマネージャーの仙崎です」
「まあ! 息子がお世話になっています。あなたほんとに素敵だわ! 隼人のマネージャーなんてもったいないくらい。ねえ、結婚はされているの? 彼女は?」
「母さん!!」

 隼人はリビングに駆け込むと、仙崎に言い寄る母を静止する。
 こうなるとは思っていたが、実際に眼の前で親ではなく女として振る舞われると鳥肌が立つ。

「邪魔しないでよ。気が利かないんだから」

 母は隼人の抗議など目もくれず、テーブルにあった隼人のお茶を一息で飲み干すとそのまま席につく。
 
「お茶を入れ直しますね」
「どうぞお構いなく。あ、でも紅茶ならミルクと砂糖もつけて下さるかしら」
「かしこまりました」

 隼人はにこにこと仙崎に笑顔を向ける母の前に座ると、妙な疲れを無視して単刀直入に言い切った。

「お金、用意してないから。事務所でも言ったけど、今後ももう渡さないし、会うつもりもないから」
「はあ!?」

 母は一瞬声を荒らげたが、仙崎の方向をちらりと見てすぐに取りつくろう。
 よほど仙崎のことを気に入ったらしい。
 こんなところに血縁を感じて不快になる。
 
「なんでよ。母さんが困っているんだから助けるのは当然でしょう」
「もう無理。俺、母さんのせいで仕事全部なくなったんだよ。今の騒ぎが収まったとしても、前みたいに仕事が来るかわからないんだから、遊ぶためのお金なんてあるわけないじゃん」
「そんなのどうにかしなさいよ! 私が用意しろって言ったら用意するのはあんたの義務よ!」
「ふざけんな! 絶対に渡さないから! 今までどれだけ渡してきたと思ってんの!? 自立しろ!」
「嫌よ! あんたは私が産んでやったのよ! 何処までもしがみついてやるわ! 仕事が来ないなら枕営業でも何でもしなさいよ! 変態親父の相手でもして――」

 前触れもなく陶器が砕け散る音が部屋に響く。
 隼人達は思わず音がした方へ振り向いた。
 
「失礼しました」

 顔を向けた先には、申し訳無さそうに微笑む仙崎がいる。
 いつもと変わらない礼儀正しい彼だ。
 ヒートアップしていた親子の会話も自然と熱が冷めていく。
 
「あら大丈夫よ。よくあることだわ」
「……」

 母は思い出したようによそ行きの顔で言葉を返す。
 隼人はもうそんなことをしても遅いと思いながらも、心の片隅で薄ら寒いのを覚えた。
 母親に対してではない。
 仙崎にだ。

(今、目が全く笑ってなかったような……)

 一瞬だった。
 勘違いかもしれない。
 でも背筋が震えるような、隼人が今まで感じたことのない怖さを彼から感じたような気がした。
 
「お待たせいたしました。さあどうぞ召し上がって下さい」

 仙崎は何事もなかったかのように茶器を運んでくると、テーブルに三人分のカップを置いた。
 
「まあ、良い香り。お茶を淹れるのもお上手なのね。個人的に教えてもらいたいわ」
「……マジでいい加減にして」

 あからさまな母の態度に、隼人は辟易しながらお茶を飲む。
 自然と頬が緩むような、優しい花の香りが喉元から鼻へ抜けていく。
 母と同じ感想になるのは嫌だが、体内に入っていく良い香りにほっと一息つけた。

「お母様、お話は隼人さんからある程度伺っております。ホストクラブに推しているキャストがいるとか」
「ええ、そうなの。なのに隼人がお金を出してくれないのよ。息子なら援助してくれてもいいじゃない」
「隼人さんはこれから大事な時期ですから、どうかご理解下さい。ところでお母様はそのキャストに満足なさっていらっしゃるのですか?」
 
 母は仙崎のその一言に、ピクリと眉を吊り上げた。
 隼人はその様子を見て胃がひっくり返りそうになる。
 まずい。
 キレ出すかもしれない。

「どういう意味かしら?」
「隼人さんからお金を借りるほど、そのキャストからいい思い出を貰えていますか?」
「……それは、まあ、もちろん」

 言葉を濁す母の様子に、隼人はまあそうだろうな、という感想を抱く。
 どれだけ着飾ってお金があるアピールをしても、もういい歳だ。
 ホストが金づるではなく一人の女として扱ってくれるとは思えない。

「もしよろしければ、もっと満足できて幸福な夢を見せてくれるお店があるのですが、そちらで楽しんでみてはいかがですか?」
「修二さん!?」

 まさか、という感情が駆け巡る。
 仙崎は胸元から名刺入れを出すと、隼人も見覚えのある、でも以前のものとは少し違う名刺が出てきた。
 色は以前と同じ黑。だが金ではなく銀色の箔押しで店名だけが入っている。

「アフロディーテ? 聞いたことないわね」
「VIP専用の店ですから。ここを利用するお客様は、経営者や資産家、政治家等、富裕層の方ばかりで誰かの紹介がないと利用できないんです。ちなみにこちらがキャストの一覧です」

 仙崎のスマートフォンからキャストの写真を見せられた母は、あからさまに生唾を飲み込んだ。
 目は画面に釘付けになり、好色の色が滲み出ている。

「…流石高級店ね。イケメン揃いじゃない。でも何であなたが紹介できるの?」
「こちらは芸能人もよく利用するお店だからですよ。一般人に手を出してスキャンダルになるのを防ぐために、事務所から遊べるお店として紹介されるうちの一つです。キャストは男女両方在籍していて、どのような指向をお持ちの方でも楽しめるお店となっています」
「ふーん。ねえ、もしかして隼人もここで遊んだわけ?」
「え!? いや、えっと…」

 店には行ったことはない。でも利用したことがないと言えば嘘になる。
 なにせ隼人の隣りに座る仙崎こそ、その店の経営者なのだから。
 隼人がどう返すべきか目を泳がせていると、母は隼人の答えを待たずに仙崎に尋ねていく。余程興味が惹かれるようだ。

「でもそんな高級店なら高いんでしょう?」
「ご安心下さい。この店にはプリンセスシステムというものがあります」
「プリンセスシステム?」
「プリンセスとして誰かに紹介して貰えると、お店では一切の料金が発生しない、という独自の制度です。どれだけ飲もうと誰を指名しようとも一円の請求もされません。お姫様として最高の待遇を受けられます。私はお母様をそんなプリンセス候補に紹介することができます」
「何それ最高じゃない!!」

 とんでもない話が飛び出してきて隼人は目が丸くなる。
 プリンセス? 母が? 
 色々とありえない。

「ちょ、修二さん! それいいの!?」

 隼人は言葉だけでなく、テーブルの下からも仙崎の腕を引いて止めようとする。
 確かに彼なら出来るだろう。
 でもそんな簡単に無料にしてしまって、店の経営に影を落とすことにならないのだろうか。
 隼人は仙崎がオーナーだとか直接は聞いていないうえに母の前だ。あまり詳しく突っ込めない。

「大丈夫ですよ。これは本当に店にある制度ですから、何も問題はありません」
「でも……」

 仙崎は母親から目を離さないまま、しかし母からは見えない位置で隼人の手を優しく包み込んで握り返してくる。
 その温もりは、気疲れで冷たくなった隼人の手を暖めていく。

「お母様いかがでしょう。一度お試しでこちらのお店を利用してみませんか? 先程お話したように来店するお客様は富裕層ばかり。普通に楽しんでも構いませんが、玉の輿や運命の出会いのようなこともあるかも知れませんよ」
「それ、凄く良いわね。本当にタダで遊べるのよね?」
「ええ、もちろん。お母様は私からシンデレラの候補として紹介します。いかがですか?」
「ふふふっ、素敵! ガラスの靴に舞踏会ね! 最高よ!」
「では決まりですね」

 仙崎は銀色のボールペンを取り出すと、名刺の裏に『Cinderella』と書き込んでいく。
 黒い名刺にシルバー色のインクで書き込まれたそれは、怪しくきらめき光を反射している。
 彼がそれを差し出すと、母は満面の笑みで受け取った。
 

「ではどうぞ一時の夢をお楽しみ下さい」






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