30 / 82
昭和十九年
第30話・指導①
しおりを挟む
若い血潮の 予科練の
七つボタンは 桜に錨
今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にゃ
でっかい希望の 雲が湧く
映画『決戦の大空へ』の主題歌「若鷲の歌」が早朝の広島電鉄本社に轟いてきた。広島電鉄家政女学校の女学生、出勤である。
本社に入った少女の列がなかなか終わらない。準備中の乗務員は疑問を顔に浮かばせていたが、点呼台の監督さんと冬先生は張りつめる緊張の糸に固まっていた。
「はぁ、なるほど。今日から一年生の見習いですか」
何気なく呟いた乗務員に、冬先生が目玉だけをジロリと向けた。
「お前に師匠をやってもらう。覚悟せいよ」
「わ、わしがですかぁ!? そんな……えらい性急じゃないですか……」
突然の指名を受けて茫然自失の乗務員などよそに、冬先生は女学生に目を向けた。誰が、わしの弟子になるんかのう……という、乗務員の重たい不安と淡い期待は見事なまでに裏切られた。
「二年生は全員、一年生の師匠をしてもらう!」
少女たちは、音もなくどよめいた。車掌として独り立ちして一年未満、日々の業務はともかくとして、何も知らない少女に仕事を教えるのだから緊張するのも当然だ。
「一年生も二年生も、名前順に並んでおるな? 組み合わせは、隣同士にする。残った一年生は、男性車掌についてもらう。ええな!?」
先ほど師匠に指名された男性車掌は、冬先生に肩を叩かれ一年生に苦笑いを送っていた。
点呼を執り、商売道具を預かって神棚にお祈りしたら、いざ初陣。だが、一年生も二年生も不安を全身から滲ませている。そんな様子に冬先生は眉を歪ませ、スゥッと息を吸い込んで厚い胸板を突き出した。
「二年生は、師匠の教えを弟子に伝えたらええ。仕事は脈々と繋がっておる、それが師弟関係いうものじゃ」
二年生にまとわりついた言葉にならぬ緊張は、背後に師匠の気配を感じて緊迫へと成り代わり、背筋に芯が通っていった。
「それに、弟子は師匠の鏡じゃ。出来ると思っていたことが、至らんかったと気づかせてくれる。教えるいうことは、教わることでもあるんじゃ」
次に冬先生は、一年生に目を向けた。師匠とは違う張りつめた空気に自ずと背筋が伸びていく。
「わからんことは、どんどん聞きんさい。出来る思うたら、ジャンジャンやりんさい。それが師匠にとっても勉強になるけぇの。車掌見習い乗務は一週間しかないけぇ、一日一列車一停留所を大切にせいよ」
これに声を上げたのは、二年生だ。はじめての指導で一週間しかないなんて、とてもじゃないが無理な話だ。
最も自信がなさそうな美春がヨロヨロと冬先生に縋ってきた。
「一週間で一人前なんて、いくら何でも無茶じゃあないですか?」
「師匠が無理とか無茶とか言うな!! 弟子が不安になるじゃろうが!」
しがみつくような眼差しを、冬先生は一喝して払い除けた。仁王立ちする冬先生と、恐れ慄き腰を抜かしてべったり座る美春は、まるで金色夜叉の貫一お宮のようである。
「森島君は見習いが終わってすぐ、一人前の車掌になったわけじゃあなかろうが! 何のために、学年を越えて相部屋にしたと思うとるんじゃ!? 教えきれんかったら、部屋で教えんかい!!」
師匠連中が慌ただしく準備して、一年生がわけもわからず後に続く。監督さんから今日の行路を受け取ると、出場時間を見ることもなく逃げ出すように次々と師弟揃って出場していった。
途端にガランとした事務所を眺めて、監督さんは回っている目の焦点を探し、冬先生は深い深い溜め息を漏らした。
「去年より不安じゃ……。冬先生、あんなんで大丈夫かいな?」
「やってもらうしか、なかろうが。これで終わりっちゅうわけじゃあ、ないんじゃ」
「そりゃあ……わかっとるが、のう?」
* * *
朝が白々と明けてきた、広島電鉄本社前。車庫から出て来た電車へと、女学生の師弟が次から次へと乗り込んでいく。
停まった電車に千秋が颯爽と乗り込んで、微笑を浮かべて一年生に手を差し伸べた。
「うちは市内の生まれじゃけえ、わからんことは何でも聞いて」
弟子の娘は真っ赤な顔をうつむかせ、千秋の掌をそっと握った。繋いだ手が電車に引き込まれると、ふたりは乗務の舞台に立った。酷使に酷使を重ねて疲弊しきった電車でさえも、今だけは輝きを放って見えた。
千秋たちを乗せた電車が停留所へ滑り込むと、次の電車が車庫からのっそり現れた。夏子は停止直前に開け放たれた乗降台へと飛び乗った。
「ほな、行くで! 乗るのは300形、ボギー車でドアがない電車や。直線でもグネグネしながら走るさかい、しっかり踏ん張っとらんと、飛んでいってしまうで」
慌てて弟子が乗り込むと、夏子は自信ありげに満面の笑みを見せていた。つられて弟子も笑顔を返すと、電車は車体を揺らしながら道路中央へと躍り出た。
生唾を飲む弟子よりも緊張し、宙に浮きそうなほど小刻みに震える美晴の番だ。
そのとき、冬先生が美春師弟の見送りに来た。美春は捕まった猫のように背中を丸くしている。
「森島君は確かに未だ、失敗ばかりじゃ。自信がないのも仕方ないわい」
弟子の前で言うことかい、と思ってみたが事実なので美春は歪んだ愛想笑いをするだけだ。
「しかしのう、出来るようになりたいっちゅう気持ちは、誰にも負けておらん。失敗しながら努力を重ねとるのは、ずっと見ておるわい」
見開かれた目は朝日に照らされ、眩しいくらいに輝いた。内なる炎が瞳の中で揺れている。
「よっしゃ! 森島君、師匠の顔になったな!? 師弟共々、勉強せい!」
冬先生に背中を叩かれ、美春は弟子を伴い電車に乗った。一緒に立派な車掌になろう! と弾む声の余韻を残して、電車は走り去っていった。
七つボタンは 桜に錨
今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にゃ
でっかい希望の 雲が湧く
映画『決戦の大空へ』の主題歌「若鷲の歌」が早朝の広島電鉄本社に轟いてきた。広島電鉄家政女学校の女学生、出勤である。
本社に入った少女の列がなかなか終わらない。準備中の乗務員は疑問を顔に浮かばせていたが、点呼台の監督さんと冬先生は張りつめる緊張の糸に固まっていた。
「はぁ、なるほど。今日から一年生の見習いですか」
何気なく呟いた乗務員に、冬先生が目玉だけをジロリと向けた。
「お前に師匠をやってもらう。覚悟せいよ」
「わ、わしがですかぁ!? そんな……えらい性急じゃないですか……」
突然の指名を受けて茫然自失の乗務員などよそに、冬先生は女学生に目を向けた。誰が、わしの弟子になるんかのう……という、乗務員の重たい不安と淡い期待は見事なまでに裏切られた。
「二年生は全員、一年生の師匠をしてもらう!」
少女たちは、音もなくどよめいた。車掌として独り立ちして一年未満、日々の業務はともかくとして、何も知らない少女に仕事を教えるのだから緊張するのも当然だ。
「一年生も二年生も、名前順に並んでおるな? 組み合わせは、隣同士にする。残った一年生は、男性車掌についてもらう。ええな!?」
先ほど師匠に指名された男性車掌は、冬先生に肩を叩かれ一年生に苦笑いを送っていた。
点呼を執り、商売道具を預かって神棚にお祈りしたら、いざ初陣。だが、一年生も二年生も不安を全身から滲ませている。そんな様子に冬先生は眉を歪ませ、スゥッと息を吸い込んで厚い胸板を突き出した。
「二年生は、師匠の教えを弟子に伝えたらええ。仕事は脈々と繋がっておる、それが師弟関係いうものじゃ」
二年生にまとわりついた言葉にならぬ緊張は、背後に師匠の気配を感じて緊迫へと成り代わり、背筋に芯が通っていった。
「それに、弟子は師匠の鏡じゃ。出来ると思っていたことが、至らんかったと気づかせてくれる。教えるいうことは、教わることでもあるんじゃ」
次に冬先生は、一年生に目を向けた。師匠とは違う張りつめた空気に自ずと背筋が伸びていく。
「わからんことは、どんどん聞きんさい。出来る思うたら、ジャンジャンやりんさい。それが師匠にとっても勉強になるけぇの。車掌見習い乗務は一週間しかないけぇ、一日一列車一停留所を大切にせいよ」
これに声を上げたのは、二年生だ。はじめての指導で一週間しかないなんて、とてもじゃないが無理な話だ。
最も自信がなさそうな美春がヨロヨロと冬先生に縋ってきた。
「一週間で一人前なんて、いくら何でも無茶じゃあないですか?」
「師匠が無理とか無茶とか言うな!! 弟子が不安になるじゃろうが!」
しがみつくような眼差しを、冬先生は一喝して払い除けた。仁王立ちする冬先生と、恐れ慄き腰を抜かしてべったり座る美春は、まるで金色夜叉の貫一お宮のようである。
「森島君は見習いが終わってすぐ、一人前の車掌になったわけじゃあなかろうが! 何のために、学年を越えて相部屋にしたと思うとるんじゃ!? 教えきれんかったら、部屋で教えんかい!!」
師匠連中が慌ただしく準備して、一年生がわけもわからず後に続く。監督さんから今日の行路を受け取ると、出場時間を見ることもなく逃げ出すように次々と師弟揃って出場していった。
途端にガランとした事務所を眺めて、監督さんは回っている目の焦点を探し、冬先生は深い深い溜め息を漏らした。
「去年より不安じゃ……。冬先生、あんなんで大丈夫かいな?」
「やってもらうしか、なかろうが。これで終わりっちゅうわけじゃあ、ないんじゃ」
「そりゃあ……わかっとるが、のう?」
* * *
朝が白々と明けてきた、広島電鉄本社前。車庫から出て来た電車へと、女学生の師弟が次から次へと乗り込んでいく。
停まった電車に千秋が颯爽と乗り込んで、微笑を浮かべて一年生に手を差し伸べた。
「うちは市内の生まれじゃけえ、わからんことは何でも聞いて」
弟子の娘は真っ赤な顔をうつむかせ、千秋の掌をそっと握った。繋いだ手が電車に引き込まれると、ふたりは乗務の舞台に立った。酷使に酷使を重ねて疲弊しきった電車でさえも、今だけは輝きを放って見えた。
千秋たちを乗せた電車が停留所へ滑り込むと、次の電車が車庫からのっそり現れた。夏子は停止直前に開け放たれた乗降台へと飛び乗った。
「ほな、行くで! 乗るのは300形、ボギー車でドアがない電車や。直線でもグネグネしながら走るさかい、しっかり踏ん張っとらんと、飛んでいってしまうで」
慌てて弟子が乗り込むと、夏子は自信ありげに満面の笑みを見せていた。つられて弟子も笑顔を返すと、電車は車体を揺らしながら道路中央へと躍り出た。
生唾を飲む弟子よりも緊張し、宙に浮きそうなほど小刻みに震える美晴の番だ。
そのとき、冬先生が美春師弟の見送りに来た。美春は捕まった猫のように背中を丸くしている。
「森島君は確かに未だ、失敗ばかりじゃ。自信がないのも仕方ないわい」
弟子の前で言うことかい、と思ってみたが事実なので美春は歪んだ愛想笑いをするだけだ。
「しかしのう、出来るようになりたいっちゅう気持ちは、誰にも負けておらん。失敗しながら努力を重ねとるのは、ずっと見ておるわい」
見開かれた目は朝日に照らされ、眩しいくらいに輝いた。内なる炎が瞳の中で揺れている。
「よっしゃ! 森島君、師匠の顔になったな!? 師弟共々、勉強せい!」
冬先生に背中を叩かれ、美春は弟子を伴い電車に乗った。一緒に立派な車掌になろう! と弾む声の余韻を残して、電車は走り去っていった。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
7
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる