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昭和十九年

第42話・電車①

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 乗務を終えた夏子と千秋を、美春は待ち構えていた。顔を見るなりパアッと明るくなったので、ふたりは安堵の視線をそっと交わした。
 しかし美春から一歩下がって立つ運転士が辟易としていることにも気づかされ、交わした視線はしおしおと床に落とされた。
 そんなことを気にする様子は微塵もなく、美春はふたりに歩み寄って手を掴む。そこからは強い意志が感じられ、どんな願いをされたとしても、断ることなど出来そうにない。

「待っとったわ! 早う行こう!」
「行こうって……どこね?」
 狼狽えている千秋に運転士がのそっと近寄り、ぼそぼそと耳打ちをした。
「ずっと作業を見られとったけぇ、かなわんわ。早いとこ森島君に電車を教えたれ」
 そういうことかと解したふたりは、美春に導かれるまま車庫へと向かった。

 夜も更けて、今日の役目を終えた電車が車庫で眠りについている。美春は、彼らを燦々と照らすほどに明るく跳ね回っていた。
「美春ちゃん、いつ電車が動くかわからんけぇ。車庫では決まった通路を通らんと危ないんよ?」
「決まった通路……? どこね?」
「線路と線路の間、ちょっと広くなっとるやろ? 線路を横切るときは、電車が来んか指差しさ確認せなあかん」
「そうよ。車庫はどっちから電車が来るか、わからんけぇ」
 ほうなんか、と美春は苦笑いして凍りついた。挺身隊ていしんたいのお姉さんに化粧をお願いしたとき、まったく気にしていなかった。勢いにまかせて危ないことをしてしまったと、ただただ戦慄するばかりである。

 車庫を一瞥した夏子と千秋は、手近な電車から説明をはじめた。
「運転台が素通しなんが、よう乗るA形や。これが450形で、こっちのが400形。150っちゅうのがE形で、200はG形や」
「いっぺんに言われたら、わからんわ……」
 さっそく美春は知恵熱で、頭の天辺から湯気を立ち上らせていた。続く話を夏子と千秋は慌てて取り繕っている。
「これは、みんな四輪単車や。どれも大して変わらんわ」
「ほうよ、モータの大きい小さいの差はあるけぇど、扱い方はそんなに変わらんのよ」

 そう言われても車掌で精一杯の美春には、耳にする言葉が何ひとつ頭に入っていってくれない。辛うじて「ヨンリン……タンシャ?」と呟いたので、夏子は心を鎮めるために小さく息を吐いて車輪を指した。
「この車輪が収まっとるのが台車や。一軸二輪、これがふたつで二軸四輪。二軸車しかない電車を単車、言うんやで」
「台車に直接、車体が載っとるけぇ。走っとっても、あんまりぐねぐねせんのよ?」

 経験と言葉が結びつき、美春の頭にじわじわと滲みてきた。確かに小さな電車は揺れが少ない気がしており、それは短い車体に客をぎゅうぎゅうに詰め込んで重いからだと勝手に解釈していた。
 間違いに気づき氷解した美春は、花開くように目を見開いて、闇夜に瞳を輝かせていった。

 そんな顔を目の当たりにしてしまっては、夏子も千秋も熱を込めて教えてしまう。千秋は運転台に立ち、左側にドスンと鎮座する楕円の筒に手を触れた。上辺には鉄の蓋がしてあり、そこから鉤状のハンドルが飛び出している。
「これがコントローラ、電車を加速させるんよ」
「こうして見ると、大きいねぇ……うちなら入れそうじゃ」
「なんぼ美春ちゃんでも入れんわ。中にモータに送る電気を調整する抵抗器がギッシリ詰まっとンねん」

 ポールが下がっていると確かめてから、千秋はコントローラの前蓋を開けた。その中には金属製のカムスイッチが縦に並び、それらはハンドルから伸びる一本の鉄棒に貫かれている。ハンドルを回してみると、カムスイッチも回転し外側に据え付けられた接点に触れた。
「電気は、ここを通ってモータに送られるんよ。ひとつ回すたび接点が変わってモータに送る電気が大きくなって、速度を上げていくんじゃ」
「そんなん、電線を掴んどるようなもんじゃないんかね!?」
 真っ青になって引きつる美春を、夏子と千秋は感電しない作りだと、必死になだめた。

 美春が落ち着きを取り戻してからから、千秋は運転台右側に据えつけられた輪っかに触れた。
「この輪っかがブレーキで、単車はみんな機械式の手ブレーキなんよ。ブレーキハンドルの軸は、床から伸びとるじゃろう?」
「この軸が、車輪まで繋がっとんねん。ハンドルを回すと、ブレーキが掛かるんや」
「軸の根本にある歯車と、歯車を留めとるのは何なん? あれのせいで、えらい目に遭ったわ」
 混み合う中、美春が鼠のようにチョロチョロと車内を回った際、モンペを歯車に引っ掛けた。
 危ないから取ってくれ、そう冬先生に訴えると「そんなことをするんは森島君だけじゃ」と軽くあしらわれ、居合わせた乗務員に嘲笑わらわれた。

 美春がムスッとしたので、そんなことがあったなと、夏子も千秋も苦々しくはにかんでから解説をする。
「歯車留めはラチェット言うて、ブレーキを固定するのに使うんよ。うちら運転士がタップダンスみたいに、右の爪先を動かしとるじゃろう?」
「……タップ……ちゅうのが、わからんわ」
 そこからか……と、夏子と千秋は目を閉じ額に手を当てた。タップダンスを教えるために映画を見るのは授業料が高すぎるし、そもそもアメリカ映画など時局を反映して公開されていない。
 
 千秋はちょっと狼狽えつつも、話を続ける。
「足元の左が警鐘フートゴングよ」
「うちらを呼ぶとき、これを鳴らしとったん?」
「そうよ、運転しながら紐に手ぇは伸ばせんわ」
 そういえば床を這っていたときに、これを手で叩いて発車合図を送ったなと美春は思い出した。
 あれは、車掌見習い中のことだ。それから車掌業務に邁進したせいで、入学早々にあった冬先生の電車の授業が抜けてしまっていた。実物を前にして解説されて、ようやく話が繋がった。
「何となくわかってきたわ、思っとったより簡単じゃねぇ」
「ほな、次は空気ブレーキのボギー車やな。宮島線には間接制御車がおって、まるで#__ちゃ__#うねん」
 まだ覚えることがあるのかと、美春はガックリとうなだれた。
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