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昭和十九年

第48話・ハンドル①

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 午前の授業を終えて昼食を摂り、並んで軍歌を歌って会社へ向かう。勇ましい歌に鼓舞されて、直談判する意気を高めた美春は、事務所に入ってすぐに肩透かしを食らってしまった。
「冬先生は乗務されとるんですか?」
「病欠者が出てしまってのう。言伝ことづてがあるなら、わしが聞いておくが」
 直接話をしなければ意味がない、急いては事を仕損じる、美春はそう思って監督さんの申し出を丁重に断った。

「ええんか? 大事なことじゃないんかい」
「大事なことじゃけぇ、自分の口から言いたいんです。それに、うちと入れ違えで冬先生の乗務が終わります。あんまり待たせてしまうのも申し訳ないんで、忘れてください」
 美春が乗務をはじめてすぐ、冬先生が運転する電車とすれ違った。一瞬だけ覗いた冬先生の顔からは、無事に乗務を終えられそうな安堵が微かに滲み出ていた。

 いきなり乗って、無事に終わったところで気になる話をされてしまっては迷惑じゃけぇ。時機を窺えばええだけじゃ。

 これが気持ちの余裕となって、美春はひとつも失敗をせず乗務が出来た。組んだ運転士からも
「今日の森島君は、ええ仕事しよるのう」
と褒められた。意地の悪い言い方をすれば日頃の失敗が多すぎるのだが、車掌としての自信が運転士への希望の光に繋がって、美春にとって非常に気分のいい一日となった。

 物音少ない夜遅く、本社前で電車を降りて美春の乗務が終わった。車庫に電車を仕舞うのは運転士の仕事、車掌の美春は分岐器ポイントを切り替えてから精算をしに事務所へ向かう。
「うん、合っとるね。森島君、ご苦労様」
 最後の最後まで綺麗に仕事を終えられて、美春はホッと頬を緩めた。乗務中はもちろんのこと、お金を扱う仕事だから精算の時間もなかなか緊張させられる。だから、経理とともに安堵する瞬間には堪えられないものがある。

 これで車掌の仕事はすべて終わり。だが運転士の仕事はまだ終わっていない。仕舞う電車が集中する時間だから、目的の場所に辿り着くまで時間が掛かってしまうのだ。
 せめて分岐器ポイントの切り替えだけでも手伝おうと事務所を出ると、組んでいた運転士がホッとした顔を見せていた。
「終わったんですか? すみません、手伝おうと思うとったんですが」
「ええよ、先が詰まっとっただけじゃけん。今日はご苦労様、また宜しくの」

 やる気の行き場を失って胸の内が寂寞とした、そのときだ。
 車庫入口で電車が停まり、女学生車掌が降りて運転士に挨拶をした。
「先輩、今日はありがとうございました。勉強も教えてくれて、助かりました」
「ご苦労様。わからんことがあったら、また遠慮せんで聞いてね」
 コロコロと鳴る鈴のような声、千秋だ。空虚に侵されていた美春の胸は、花咲く庭を歩くような歓びで埋め尽くされて、駆け寄らずにはいられなくなった。

「千秋ちゃん、お疲れ様! 一緒に帰ろう!」
「美春ちゃん、終わったんね。電車これ仕舞うけぇ、ちょっと待っとってね」
 と、言ったところで疑問が湧いた。自分の運転が、美春に何をもたらしたのかと。千秋は美春を手招きして電車に乗せた。
「冬先生に何を言おうとしとったん?」
 美春は身体を反って息を吸い、空気と自信で胸を膨らませた。
「そりゃあ、うちでも運転出来るいうのを証明したるんじゃ」

 何かあっても対応出来るようにと千秋は身体をブレーキハンドルの脇に避け、美春は期待されたとおり運転台に収まった。ところが美春は収まるばかりではなく、コントローラとブレーキの隙間に身体を押し込んだ。
「窓にピッタリ貼り付いたら、真下が見えるわ」
 ふたつのハンドルに挟まれて得意になる美春を見つめて「なるほどのぅ」と千秋は感心しきっている。
「えらい窮屈そうじゃけど、そんなでハンドルは回せるん?」
 美春は両腕を左右に伸ばし、ふたつのハンドルを掴んでみた。むっ……と唸り、息苦しそうに顔が歪む。
「ごめん、ちょっとしんどいわ」
「停まっとるときとか、非常時じゃったら、ええかも知れんよ? ほんで、どう運転するん?」
 隙間から抜けた美春は呼吸を整えてブレーキ、コントローラの順に手を伸ばす。千秋は、それは盲点だったと目を見張った。

「ノッチオフじゃあコントローラの握り玉は左端じゃ。これがうちには届かんかったが、ハンドルが回ったらええんじゃ、ここを掴んだらええ」
 美春はハンドルの根本と、そこから握り玉まで伸びる腕を掴んだ。確かに、回すだけならどこを掴んでも構わない。またハンドルの長さだけ距離を稼げるから、ブレーキハンドルに近くなる。
「うち、そんなところを掴んどった? 気づかんかったわ」
「普段はしてないよ? たまたまじゃ。小川も、こうやっとったのを思い出したわ。後ろからじゃあ、握り玉だけが回っとるように見えるけぇ、変じゃのう思うとったんよ」

 ハンドルを掴めて嬉しそうな美春を見るうち、悪魔に誘惑されたように千秋の胸がウズウズしてきた。そのうち堪らなくなり、ついに我慢の限界を超えた。
「美春ちゃん、運転してみる?」
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