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第四章 一ノ谷来栖は誠実そうに見えて勝手な男を変えてみる 4
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「あやめ、足どうかしたのか?」
「あう、実は私もアスレチックに挑戦して、その時にちょっと」
「えっ、けがしたのか」
「そ、そんなに大げさなものでは。少しぐねっただけです」
「ぐねるってなんだ!? 怖っ!」
「え……言いませんか、ぐねる? ひねった、みたいな」
とりあえず、近くのベンチにあやめを座らせる。
ハイソックスを脱がしてみると――あやめは抵抗があるようだったがやむを得ない――、見た目にはなんともなっていなかった。
「ほら、どうということはないんですよ。本当に軽くですから。もうほとんどよくなってます」
「それにしても、言ってくれれば……いや、おれが気づくべきだよな。ごめん」
「いえ、気づかれないように隠してましたから、むしろ気づかないべきだったんですけど」
あやめの足元にしゃがみ込んだ来栖が、軽くねめあげた。
「なんで隠すんだよ」
「だって……今日のクルスは、大変だったでしょうから。話がうまくまとまったみたいなので、いい気持ちのままで終わって欲しかったんです。私がけがしたことが分かったら、クルス、心配するでしょう?」
「どうかな。そんなにいい人じゃないかもしれないぜ」
「今、してるじゃないですか」
そう言われれば、返す言葉もない。
「そっかあ。なら、これで帰ったほうがいいな。のんきに誘ったりして、悪かった」
「えっ!? いえ、本当に大したことないので、クルスさえよければどこかに寄りたいですっ」
あやめの両手は、握りこぶしを作っていた。
「へ? あ……そう?」
「す……すみません。心配かけておいて、さっきの、いい気持ちのままで今日終わって欲しいっていうのと矛盾してますよね。でも、本当に本当に、平気なんです」
「そうか……なら、とにかく、足に負担がかからないように移動すればいいわけだな。失礼」
来栖が、あやめの腰と膝の裏に腕を回した。
「あっ!? く、クルス!?」
来栖は自分とあやめとのバッグを器用に腕に引っ掛け、
「荷物これだけだな? じゃ、行こう」
そうして、軽々とあやめを横抱えで持ち上げた。
そのまましっかりした足取りで、駅へと歩き出す。
「く、クルス! 人が見てます!」
「見られてまずいことなんてしてないだろ。」
一見すれば女子が女子を抱えているようにしか見えないため、普段の比ではないほどに人々がこちらを振り向いてくる。
やむなく、あやめはすぐ目の前の来栖の顔ばかり見ていた。時折目が合うと、それでも、つい視線を逸らしてしまったが。
来栖の腕や胸から、温もりがあやめに伝わってくる。
確か、男子のほうが筋肉が多い分、体温が高くなりやすいのだったか。来栖の温度が自分の体温と溶け合っていくのをイメージすると、やけに気恥ずかしかった。
温もりは肌を通ってあやめの胸と顔に集まってくるようで、その二か所がどんどん温まっていく。
次第に、あやめは頭がぼうっとしてきた。足の痛みなど、もうとうに消え失せている。
「なんかおれと知り合ってから、あやめには、生傷ばっかり作らせてる気がするよ……。気が咎めるなあ」
「私は、……今までになかったことばかり起きて、楽しいですよ。……来栖と出会えて、よかったです」
「ありがとう。おれもだよ。あやめと逢えて、よかった」
その言葉は、来栖が自分で思うよりもずいぶん深い響きと余韻をもって、目の前の少女に届いた。
それから駅へ着くまでは、口数が少なくなったのと裏腹に、二人とも目の前の相手のことを頭の中いっぱいに考えて進んだ。
なお、吾妻と佐奈はその後紆余曲折を経て、またよりを戻し、初々しくつき合い始めた……というのは、また別のお話。
■
日が暮れた。
来栖とあやめは駅ビルに入っているカフェチェーンで一息ついていた。
「あー、体動かした日は紅茶がおいしいぜ」
来栖が、レモンを絞ったアイスティをストローで吸い込む。
あやめはココアだった。シナモンと少量のジンジャーパウダーを振りかけてある。
「すみません、重かったですよね……?」
「ああいや、それは全然。むしろ軽くてびっくりした」
あやめが、悟られないように安堵のため息をつく。
「と、とにかくお疲れ様でした。今日は、帰ってから勉強ですか?」
「勉強? なんの?」
あやめが、一粒の冷や汗を垂らす。
「なにって、期末の……今日、ほぼ一日潰れちゃいましたし、取り返さないとなのでは」
「ああ、あいつら大変だよなー」
「他人事のように……」
来栖は、使わなかったガムシロップを指先でもてあそびながら、これをここに残していけば捨てられるのみだろうからもったいないが、持って帰っても使わないんだよなあ……などと考えつつ、ふと言った。
「しかしそういえば今日二回目だよな、あやめとお茶飲むのって」
「ええ。こういう、駅みたいに人の多いところだと、クルスを見せびらかして歩いているみたいで、少し気分がいいです」
「はは、なんだよそれ。変なの」
「クルスは、服装からして一目を引きますからね。羨ましいです。私もう高校生なのに、おしゃれってよく分からないですもん」
「おれだって、詳しいわけじゃないけども。失敗したなって思うことも多いし。でももしよかったら、今度……」
そう言われて、ココアの水面を見つめていたあやめの心臓が、どきんと一度はねた。
この後に続く言葉は、どう考えても決まっている。
あやめの答えも。
だが、どういう言い方で答えれば自然なのか、それが分からない。
どうしよう、と思いながら身構えていたが。
なかなか、来栖が続きを言わない。
「クルス……?」
あやめが顔を上げて来栖を見る。
来栖は、真横を見上げて、硬直していた。
来栖の視線の先、テーブルのすぐ横に人が一人立っていることに、あやめはようやく気づく。
若い女性だった。深いオレンジ色のメッシュが毛先に入ったショートヘアに、薄手の白いトレンチコートがよく映えている。黒いシア―素材のトップスも、ブルーがかったベージュのアシンメトリーなロングスカートも大人っぽいが、その顔立ちはまだ大学生くらいに見えた。
ルージュも毛先と同じくオレンジ色で、きれいに縁どられた唇がつやつやと光っている。
彼女もまた、来栖を見下ろしながら、身動きせずに立ち止まっている。
クルスのお知合いですか、と訊こうとして、しかしとてもそんな空気ではなく、あやめはなにもできずに二人を見比べていた。
一方来栖のほうは、体こそ動いていないものの、胸中では名状しがたいほどの感情の洪水にさらされていた。
こんなところで会うなんて。
彼女の大学は、まったく別の場所のはずだが。
なにを言えばいいのか。いや、なにも言う必要はない。
やり過ごせばいいだけだった。ただ、どうしてもそうできなかっただけで。
女性は、小さく会釈した。
そしてなにも言わずに去っていく。その時確かに、あやめを一瞥した。
なにも注文せずに店から出て行ったらしい女性の姿が消えてから、ようやくあやめが来栖に訊いた。
「クルス……今の人、お知り合いですよね?」
「……まあな。昔のな。今、あっちは大学生だな」
「ああ……」
なにかを察したように黙ってしまったあやめに、来栖がちろりと鋭い視線を送る。
「……元カノだろーなあ、とか思ってんだろ」
「えっ!? なんで分かったんですか!?」
「いや、思わせぶりにして悪かったよ。確かに元カノだ」
「う」
ずきん、とあやめの胸が痛んだ。その痛みさえもおこがましいと思う。来栖は同学年の友人として自分に気を許してくれているんだろうに、親しみにつけ込むようなことをして。
あやめは「きれいな人ですね」と言って、ココアを口に運ぶ。水面が震えていた。指が震えているせいだ。声も震えていたかもしれない。内面の動揺に比べれば、ほんの少しだけは。
「兄さんのな。おれのじゃない」
「えっ? あっ? そうなんですか?」
「? なんでうれしそうなんだ?」
「あっいえいえそんなことは! そうですか、クルスのお兄さんの……」
言葉の最後で、あやめの声がかすれた。いつの間にかのどが渇いていた。濃厚なココアのせいだけではなく。
「ああ。空栖兄さんの元彼女。そして、……おれがスカートを穿く、きっかけになった人だ」
「来栖が……あの人がもとで?」
「そう。あの人に憧れて、こういう格好をするようになった。なかなかに、影響力甚大な人だろ?」
そうですね、と相槌を打ちながら、あやめは先ほどの来栖の様子を思い返す。
来栖の女装があの女子大生をきっかけとしているというなら、今の来栖――引いては彼の周りで起きる、その美貌をめぐるどたばたのおおもとということになる。
憧れた、と来栖の口からはっきり言われたのにも驚いた。来栖が他人をそんなふうに言うのを、少なくともあやめは初めて聞いた。
確かに、来栖にとって影響力が相当大きい人物だ。
しかし。
その割にどう見ても、親しそうにも楽しそうにも思えない。
「……あやめ。いきなりなんだが」
「はい?」
「これから、うちに来ないか? 今日家に誰もいないんだ」
一瞬、あやめは、なにを言われたのか分からなかった。
それから、今自分はなにを言われたのか、答えを導き出そうと頭が回転し始め、その瞬間にオーバーヒートする。
「えっ!? そ、……わ、私今、どういう、お誘いを受けてます!? 家って、家ですか!?」
「あ、ああ悪い。家に誰もいないって言ったのは、気を遣わなくていいってだけの意味だ。……さっきの人――つかささんのことを、話したい。あまり、こういうところで話す気分にはなれないんだ。でも、……君に聞いて欲しい。今まで、人には言えなかったんだけれど」
つかさ。と、いうのか。
あやめは、残っていたココアをぐいっと一気に飲んだ。
底に沈殿していた濃い塊が喉に引っかかったが、構わずに答える。
「はい、私でよければこふっげほげへんげへっけっほっ――」
「……大丈夫か?」
「はいでけほ。喜んでけふ」
涙目でうなずくあやめを見て、来栖は思わず笑顔になりながら、紅茶の残りを飲み干した。
「む。そうか?」
「はい。僕が、……浅はかでした。先輩の言う通りです。先輩を初めて見た時、今までにない感覚に襲われて、……知らなかったけど、これがきっと本当の恋だと思い込んだ。たぶん、恋愛感情が、あの時の僕の気持ちに一番近いものだったから。でもそのために、向き合わなくちゃいけないものから、逃げてしまっていた……」
来栖の体から、光が引いていく。
いつしか、空は暮れかけていた。
「もう少し、よく考えてみます。僕のやるべきこと。大切にすべき人……」
「そうか。……今日は、結構楽しかったよ」
来栖もゲートを出る。
近くに駐車場が見えた。家族連れの子供が、さっきあっちでなにか光ったーとゲートのほうを指さしているが、まあ、放っておいていいだろう。
「僕もです。とても、意義深い一日になりました。……一つ、思い出したことがあります」
「お。なんだ?」
「佐奈に告白された時。それまでは友達だと思ってたんですけど、すぐ、つき合いたいって思いました。僕のことを好きだと言ってくれた佐奈が、凄くかわいいなって思ったんです」
「そうか。それから、どんどん恋になっていったんだな」
「はい。先輩も、佐奈のことかわいいと思うでしょう?」
「もちろん。あんなかわいい子、そうそういないぜ」
それから他愛ない話をして、二人は別れた。
幸い、来栖の服は多少湿ってはいたものの、身動きするのに気持ち悪いというほどではない。
電車に乗ると、席は空いていたが立ったままドアにもたれて、深く息をついた。
言いたいこともいろいろ言わせてもらったが、純粋な好意に対してノーを突きつけるというのは、いまだに慣れない。
「この後、彼らがどうなるかは分からんが。復縁しても別れたままでも、もうおれが首突っ込むことじゃないからな……」
「まだ別れてませんっ!」
「ってうおおおおおお!?」
つい大声を出してしまい、来栖は慌てて口を押える。
いつの間にか、来栖の右には佐奈が、左にはあやめが立っていた。
「あ、そういえば西口さんいたっけな……ってなんであやめも?」
「わ、私はその、クルスと吾妻くんの二人がどうなっちゃうのか気になって」
どうにもなるはずもないだろう、と来栖は半ばあきれ顔になる。
「
「あう、実は私もアスレチックに挑戦して、その時にちょっと」
「えっ、けがしたのか」
「そ、そんなに大げさなものでは。少しぐねっただけです」
「ぐねるってなんだ!? 怖っ!」
「え……言いませんか、ぐねる? ひねった、みたいな」
とりあえず、近くのベンチにあやめを座らせる。
ハイソックスを脱がしてみると――あやめは抵抗があるようだったがやむを得ない――、見た目にはなんともなっていなかった。
「ほら、どうということはないんですよ。本当に軽くですから。もうほとんどよくなってます」
「それにしても、言ってくれれば……いや、おれが気づくべきだよな。ごめん」
「いえ、気づかれないように隠してましたから、むしろ気づかないべきだったんですけど」
あやめの足元にしゃがみ込んだ来栖が、軽くねめあげた。
「なんで隠すんだよ」
「だって……今日のクルスは、大変だったでしょうから。話がうまくまとまったみたいなので、いい気持ちのままで終わって欲しかったんです。私がけがしたことが分かったら、クルス、心配するでしょう?」
「どうかな。そんなにいい人じゃないかもしれないぜ」
「今、してるじゃないですか」
そう言われれば、返す言葉もない。
「そっかあ。なら、これで帰ったほうがいいな。のんきに誘ったりして、悪かった」
「えっ!? いえ、本当に大したことないので、クルスさえよければどこかに寄りたいですっ」
あやめの両手は、握りこぶしを作っていた。
「へ? あ……そう?」
「す……すみません。心配かけておいて、さっきの、いい気持ちのままで今日終わって欲しいっていうのと矛盾してますよね。でも、本当に本当に、平気なんです」
「そうか……なら、とにかく、足に負担がかからないように移動すればいいわけだな。失礼」
来栖が、あやめの腰と膝の裏に腕を回した。
「あっ!? く、クルス!?」
来栖は自分とあやめとのバッグを器用に腕に引っ掛け、
「荷物これだけだな? じゃ、行こう」
そうして、軽々とあやめを横抱えで持ち上げた。
そのまましっかりした足取りで、駅へと歩き出す。
「く、クルス! 人が見てます!」
「見られてまずいことなんてしてないだろ。」
一見すれば女子が女子を抱えているようにしか見えないため、普段の比ではないほどに人々がこちらを振り向いてくる。
やむなく、あやめはすぐ目の前の来栖の顔ばかり見ていた。時折目が合うと、それでも、つい視線を逸らしてしまったが。
来栖の腕や胸から、温もりがあやめに伝わってくる。
確か、男子のほうが筋肉が多い分、体温が高くなりやすいのだったか。来栖の温度が自分の体温と溶け合っていくのをイメージすると、やけに気恥ずかしかった。
温もりは肌を通ってあやめの胸と顔に集まってくるようで、その二か所がどんどん温まっていく。
次第に、あやめは頭がぼうっとしてきた。足の痛みなど、もうとうに消え失せている。
「なんかおれと知り合ってから、あやめには、生傷ばっかり作らせてる気がするよ……。気が咎めるなあ」
「私は、……今までになかったことばかり起きて、楽しいですよ。……来栖と出会えて、よかったです」
「ありがとう。おれもだよ。あやめと逢えて、よかった」
その言葉は、来栖が自分で思うよりもずいぶん深い響きと余韻をもって、目の前の少女に届いた。
それから駅へ着くまでは、口数が少なくなったのと裏腹に、二人とも目の前の相手のことを頭の中いっぱいに考えて進んだ。
なお、吾妻と佐奈はその後紆余曲折を経て、またよりを戻し、初々しくつき合い始めた……というのは、また別のお話。
■
日が暮れた。
来栖とあやめは駅ビルに入っているカフェチェーンで一息ついていた。
「あー、体動かした日は紅茶がおいしいぜ」
来栖が、レモンを絞ったアイスティをストローで吸い込む。
あやめはココアだった。シナモンと少量のジンジャーパウダーを振りかけてある。
「すみません、重かったですよね……?」
「ああいや、それは全然。むしろ軽くてびっくりした」
あやめが、悟られないように安堵のため息をつく。
「と、とにかくお疲れ様でした。今日は、帰ってから勉強ですか?」
「勉強? なんの?」
あやめが、一粒の冷や汗を垂らす。
「なにって、期末の……今日、ほぼ一日潰れちゃいましたし、取り返さないとなのでは」
「ああ、あいつら大変だよなー」
「他人事のように……」
来栖は、使わなかったガムシロップを指先でもてあそびながら、これをここに残していけば捨てられるのみだろうからもったいないが、持って帰っても使わないんだよなあ……などと考えつつ、ふと言った。
「しかしそういえば今日二回目だよな、あやめとお茶飲むのって」
「ええ。こういう、駅みたいに人の多いところだと、クルスを見せびらかして歩いているみたいで、少し気分がいいです」
「はは、なんだよそれ。変なの」
「クルスは、服装からして一目を引きますからね。羨ましいです。私もう高校生なのに、おしゃれってよく分からないですもん」
「おれだって、詳しいわけじゃないけども。失敗したなって思うことも多いし。でももしよかったら、今度……」
そう言われて、ココアの水面を見つめていたあやめの心臓が、どきんと一度はねた。
この後に続く言葉は、どう考えても決まっている。
あやめの答えも。
だが、どういう言い方で答えれば自然なのか、それが分からない。
どうしよう、と思いながら身構えていたが。
なかなか、来栖が続きを言わない。
「クルス……?」
あやめが顔を上げて来栖を見る。
来栖は、真横を見上げて、硬直していた。
来栖の視線の先、テーブルのすぐ横に人が一人立っていることに、あやめはようやく気づく。
若い女性だった。深いオレンジ色のメッシュが毛先に入ったショートヘアに、薄手の白いトレンチコートがよく映えている。黒いシア―素材のトップスも、ブルーがかったベージュのアシンメトリーなロングスカートも大人っぽいが、その顔立ちはまだ大学生くらいに見えた。
ルージュも毛先と同じくオレンジ色で、きれいに縁どられた唇がつやつやと光っている。
彼女もまた、来栖を見下ろしながら、身動きせずに立ち止まっている。
クルスのお知合いですか、と訊こうとして、しかしとてもそんな空気ではなく、あやめはなにもできずに二人を見比べていた。
一方来栖のほうは、体こそ動いていないものの、胸中では名状しがたいほどの感情の洪水にさらされていた。
こんなところで会うなんて。
彼女の大学は、まったく別の場所のはずだが。
なにを言えばいいのか。いや、なにも言う必要はない。
やり過ごせばいいだけだった。ただ、どうしてもそうできなかっただけで。
女性は、小さく会釈した。
そしてなにも言わずに去っていく。その時確かに、あやめを一瞥した。
なにも注文せずに店から出て行ったらしい女性の姿が消えてから、ようやくあやめが来栖に訊いた。
「クルス……今の人、お知り合いですよね?」
「……まあな。昔のな。今、あっちは大学生だな」
「ああ……」
なにかを察したように黙ってしまったあやめに、来栖がちろりと鋭い視線を送る。
「……元カノだろーなあ、とか思ってんだろ」
「えっ!? なんで分かったんですか!?」
「いや、思わせぶりにして悪かったよ。確かに元カノだ」
「う」
ずきん、とあやめの胸が痛んだ。その痛みさえもおこがましいと思う。来栖は同学年の友人として自分に気を許してくれているんだろうに、親しみにつけ込むようなことをして。
あやめは「きれいな人ですね」と言って、ココアを口に運ぶ。水面が震えていた。指が震えているせいだ。声も震えていたかもしれない。内面の動揺に比べれば、ほんの少しだけは。
「兄さんのな。おれのじゃない」
「えっ? あっ? そうなんですか?」
「? なんでうれしそうなんだ?」
「あっいえいえそんなことは! そうですか、クルスのお兄さんの……」
言葉の最後で、あやめの声がかすれた。いつの間にかのどが渇いていた。濃厚なココアのせいだけではなく。
「ああ。空栖兄さんの元彼女。そして、……おれがスカートを穿く、きっかけになった人だ」
「来栖が……あの人がもとで?」
「そう。あの人に憧れて、こういう格好をするようになった。なかなかに、影響力甚大な人だろ?」
そうですね、と相槌を打ちながら、あやめは先ほどの来栖の様子を思い返す。
来栖の女装があの女子大生をきっかけとしているというなら、今の来栖――引いては彼の周りで起きる、その美貌をめぐるどたばたのおおもとということになる。
憧れた、と来栖の口からはっきり言われたのにも驚いた。来栖が他人をそんなふうに言うのを、少なくともあやめは初めて聞いた。
確かに、来栖にとって影響力が相当大きい人物だ。
しかし。
その割にどう見ても、親しそうにも楽しそうにも思えない。
「……あやめ。いきなりなんだが」
「はい?」
「これから、うちに来ないか? 今日家に誰もいないんだ」
一瞬、あやめは、なにを言われたのか分からなかった。
それから、今自分はなにを言われたのか、答えを導き出そうと頭が回転し始め、その瞬間にオーバーヒートする。
「えっ!? そ、……わ、私今、どういう、お誘いを受けてます!? 家って、家ですか!?」
「あ、ああ悪い。家に誰もいないって言ったのは、気を遣わなくていいってだけの意味だ。……さっきの人――つかささんのことを、話したい。あまり、こういうところで話す気分にはなれないんだ。でも、……君に聞いて欲しい。今まで、人には言えなかったんだけれど」
つかさ。と、いうのか。
あやめは、残っていたココアをぐいっと一気に飲んだ。
底に沈殿していた濃い塊が喉に引っかかったが、構わずに答える。
「はい、私でよければこふっげほげへんげへっけっほっ――」
「……大丈夫か?」
「はいでけほ。喜んでけふ」
涙目でうなずくあやめを見て、来栖は思わず笑顔になりながら、紅茶の残りを飲み干した。
「む。そうか?」
「はい。僕が、……浅はかでした。先輩の言う通りです。先輩を初めて見た時、今までにない感覚に襲われて、……知らなかったけど、これがきっと本当の恋だと思い込んだ。たぶん、恋愛感情が、あの時の僕の気持ちに一番近いものだったから。でもそのために、向き合わなくちゃいけないものから、逃げてしまっていた……」
来栖の体から、光が引いていく。
いつしか、空は暮れかけていた。
「もう少し、よく考えてみます。僕のやるべきこと。大切にすべき人……」
「そうか。……今日は、結構楽しかったよ」
来栖もゲートを出る。
近くに駐車場が見えた。家族連れの子供が、さっきあっちでなにか光ったーとゲートのほうを指さしているが、まあ、放っておいていいだろう。
「僕もです。とても、意義深い一日になりました。……一つ、思い出したことがあります」
「お。なんだ?」
「佐奈に告白された時。それまでは友達だと思ってたんですけど、すぐ、つき合いたいって思いました。僕のことを好きだと言ってくれた佐奈が、凄くかわいいなって思ったんです」
「そうか。それから、どんどん恋になっていったんだな」
「はい。先輩も、佐奈のことかわいいと思うでしょう?」
「もちろん。あんなかわいい子、そうそういないぜ」
それから他愛ない話をして、二人は別れた。
幸い、来栖の服は多少湿ってはいたものの、身動きするのに気持ち悪いというほどではない。
電車に乗ると、席は空いていたが立ったままドアにもたれて、深く息をついた。
言いたいこともいろいろ言わせてもらったが、純粋な好意に対してノーを突きつけるというのは、いまだに慣れない。
「この後、彼らがどうなるかは分からんが。復縁しても別れたままでも、もうおれが首突っ込むことじゃないからな……」
「まだ別れてませんっ!」
「ってうおおおおおお!?」
つい大声を出してしまい、来栖は慌てて口を押える。
いつの間にか、来栖の右には佐奈が、左にはあやめが立っていた。
「あ、そういえば西口さんいたっけな……ってなんであやめも?」
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……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
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ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
お茶をしましょう、若菜さん。〜強面自衛官、スイーツと君の笑顔を守ります〜
ユーリ(佐伯瑠璃)
ライト文芸
陸上自衛隊衛生科所属の安達四季陸曹長は、見た目がどうもヤのつく人ににていて怖い。
「だって顔に大きな傷があるんだもん!」
体力徽章もレンジャー徽章も持った看護官は、鬼神のように荒野を走る。
実は怖いのは顔だけで、本当はとても優しくて怒鳴ったりイライラしたりしない自衛官。
寺の住職になった方が良いのでは?そう思うくらいに懐が大きく、上官からも部下からも慕われ頼りにされている。
スイーツ大好き、奥さん大好きな安達陸曹長の若かりし日々を振り返るお話です。
※フィクションです。
※カクヨム、小説家になろうにも公開しています。
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