夜煌蟲伝染圧

クナリ

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第9話 第四章 トイレ・トーク

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 普段運動などまるでしない私が、緊張しながら動き回ったせいで、体がずっしりと重く感じた。
 2-Bはすぐ隣だったので、男子二人が素早く教室の内外を見回して、安全を確認してから中に入った。
 全員で深く息をつきながら、また椅子を出して、座った。
 もう一度ため息をついた時、気がゆるんだせいか、急に吐き気がこみ上げた。このまま、皆の前で戻すなどとは、勘弁して欲しい。何とか耐えなければ。いくら私でも、、さすがに人前でそんな恥を晒すのには耐えられない。
 歯を食いしばったままえづきかけた私に、座ったばかりの柚子生先輩が駆け寄る。
「エリヤちゃん、具合悪い?」
「へ、……平気です」
 つい強がってしまう自分を、ひっぱたいてやりたい。
「平気って顔色じゃないよ、無理しないで。ちょっと男子二人、トイレまで行くからボディガード」
 私は、自分に気を遣ってもらうのが、あまり好きじゃない。こんな、全員に命の危機が迫った状況では、尚更だった。けれど柚子生先輩はさっさと私を抱え起こすと、ドアの方へ歩いて行こうとする。斯波方先輩が、
「俺が担ぎますよ」
と言って、私をおぶった。
「すみません……」
 斯波方先輩は、ちょっと意外そうな顔をした。
「挨拶とか、返事以外で……いやそもそも、お前からしゃべってくれたのは初めてのような気がするな」
 そうかもしれない。初めての能動的な発言が、スミマセンとは、情けなくて私らしい。
「まあ、何だか時森らしいけど。変わりもんだもんな、お前」
 心外ではあるのに、妙に納得してしまう辺りが、我ながらまた情けない。変わっていると言うよりは、対人能力が極端に劣っているだけというのが正しいのだけど。
 しばらくおぶられていたら、一坂がドアを出て、周囲を警戒しながら早口で言った。
「今なら大丈夫そうです。トイレすぐそこだし」
 斯波方先輩がすたすたと教室を出て、はす向かいにあるトイレの前で私を下ろした。
「その辺で見張ってっから、行って来い。柚子生さん、頼みます」
「はいはい。あんた達、あんまり近づかないようにしつつ万全に守りなさいよ」
 んな無茶な、という表情の二人を残して、私達はトイレに入った。柚子生先輩が先に中を一通り見て回って、夜煌蟲がいないことを確認してくれた。
 私は個室の中までは行かずに洗面台で数回しゃくりあげて、濃い唾液だけを吐いてから口をゆすいだ。
 それでずいぶん、落ち着いた。水を止め、ハンカチで口を拭って、洗面台に両手をつく。
「どう?」
「だいぶ、良くなりました。あの……皆の前で、みっともないとこ見せずに済んで、その」
「あたしには、お礼なんか言うのやめてよね、女同士だもん」
 そう言って、柚子生先輩は口の端と目だけで笑う。
「まあ、これからが大変だよ。いつまでも校内にいたらジリ貧だし、かと言ってどっから逃げたらいいのかなー……」
 そう言いながら柚子生先輩が、水道の蛇口をひねった。けたたましい水音に紛れて、先輩は小声で続けて来た。男子には聞かせたくない話、ということだ。
「斯波方君の話って、本当なのかな。夜煌蟲が罠を張るなんて。さっきはあたしもああ言ったけど……。人間に取り憑いて、仲間を増やして、すぐには自殺しないようにコントロールしつつ、部室棟の三階へぞろぞろ行かせて……一人や二人じゃない、十何人もだよ? 全員美術部の部室に潜ませて、その上中から鍵かけて、斯波方君と殿音君を一度やり過ごして、二人がうちらの部室に入ったのを合図に廊下に出て、通せんぼ。殿音君が近寄ったら抱きついて、感染させる。……そんなことをさせられる夜煌蟲が、たまたま初めて今日、ここに現れたの?」
 確かに言われてみると、偶然にしてはおかしい気もする。
「それに、そんなことになってたのに、斯波方君はよく……無事だったよね」
「……柚子生先輩、何が言いたいんです?」
「部室棟で何が起こったのか、本当のことは、斯波方君しか知らないわけよ」
「何か、隠し事をしてるってことですか? 斯波方先輩が?」
 先輩は頭を横にくらくらと振ると、今までよりもかなり早口で、しゃべり出した。
「彼を疑ってるわけじゃないよ。ただあたし、……あまりものをいい方に考えないクセがついちゃってるんだな。駄目だね、こんなんじゃ。それにごめん、後ろ向きなこと言うね。正直あたしさ、そりゃ夜煌蟲が怖いし、逃げもするよ。でも、一度捕まったら、もうあんまり抵抗しないような気もするんだ。できればそりゃ、死にたくないよ。でも、何て言うかな。死にたくないだけで、生きていたいわけじゃないんだよね。死ぬのが怖いから嫌だっていうのと、生きて行きたいっていう気持ちは、全然違うことのような気がする」
 そう言って、柚子生先輩はうつむいた。この人らしからぬ発言に、私は胸中で衝撃を受けていた。
 その言葉だけで、柚子生先輩と何かが共感できたとは思わない。でも、私もずっと同じことを考えていた。ただ、言いだせなかっただけで。聞いてくれる人も、いなかっただけで。
 私の喉から、勝手に、声が押し出された。
「同じ……です。私も同じ。死ぬのは怖いから逃げてるんですけど、生きる為に逃げのびたいっていうのとは違うんです」
「そっか。エリヤちゃん、あんまり、生きてて楽しくない?」
「私、別に、これと言って生きてる理由無いですから……。先輩こそ、そんな風に考えてたなんて」
 私の知っている限り、この人はいつも笑っていた。友達も多く、こんなにも人生を充実させている人も珍しいんじゃないかと思っていたくらいだった。
 柚子生先輩は、私から視線を反らした。一層声を小さくして、床に向かってささやく。
「昔、色々あってね。生きることへの執着っていうのかな、意味っていうのかな。そういうものが、よく分からなくなったみたい。命が素晴らしいものだっていうのは分かるの。大事にしないといけないっていうのも。そう思えた時が、確かにあったから。でも、……必ず、何をどうしても守らなければならないほど、全ての命が尊いものだとは思えなくなった……かな、なんてね」
 絞り出すような言葉は、どれも、いつもの先輩からは想像もつかないものだった。いかにも、生きてさえいれば何とかなる、生命ってそれだけで素晴らしいんだ、と溌剌と唱えるタイプだと思っていた。
 部内で、同性だというのに一番私から遠い位置にいると感じていた人が、私と同じことを考えている。驚きだった。
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