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第44話 第八章 優しくなかったから
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■
長く長く、眠っていたような気がする。
その目を開いた時、あたしが振り上げた包丁の下で、この学校でただ一人生きて欲しいと願った少女が、泣いていた。
ああ。
怖かったよね。
でも、もう大丈夫。
あたしはまだ、ここにいたから。
そんなに簡単に、消えてしまったりはしなかったから。
あたしは、自分の過ちに、ようやくこの時、本当に気づいた。
間違っていても、構わないと思った。
正しくなんてなくたって、そうしなければ気が済まないはずだった。
でも、あたしのしたことが、本当にあたしがしたかったことだと言うのなら。
――こんなに、悲しいはずは無い。
■
柚子生先輩が、血溜まりの中で微笑む。それは、誰の表情だったのだろう。
「エリヤちゃん、あたし――……」
がらん、と包丁が、力の抜けた手を滑って床に落ちた。
「――……ごめんね。ばいばい――……」
さっきと同じ声、同じ言葉。でも全く違う、別れの言葉。
既に夜煌蟲を通して柚子生先輩の過去も想いも覗いた今更、会話することなど何も無かった。
華奢な体がくず折れて、地に伏せる。
柚子生先輩の鳶色の目が、半分閉じていた。
私は柚子生先輩の体を覆う蟲を払う気もせずに、そのまま先輩の体を抱え起こした。
小さな、形のいい唇が、私に向かってぱくぱくと動く。もう声は出ない。
世界は、この人に優しくなかった。
だからこの人も、世界に優しくなんてできなかった。
ほとんど腹いせのようにして起こされた、今夜の大量殺人。犯人には、同情の余地も無い。それなのになぜか、この人が受けて来た仕打ちばかりが、無性に悔しい。
今日の今日まで、ただのおせっかい焼き同然に思っていた人が消えてしまうのが、恐ろしく悲しい。
説明のつかないことで、理屈の通らない感情に振り回される。それが人間なのだと、また思い知る。皆、こんなに辛いのに、なぜ人間をやめないでいられるのだろう。
柚子生先輩の首が、かくりと折れた。血に覆われた傷口を、せめてそれ以上開かないように、私はその体を静かに床へ横たえた。
ふと気づくと、周囲を覆っていた蟲が、波が引くように職員室から失せて行くところだった。柚子生先輩や斯波方先輩の体からも、見えない手で引き抜かれるようにずるずると緑の光る帯が引きずり出され、他の蟲と合流して、どこかへ出て行く。
窓の外を見ると、校庭でも異変が起きていた。
ほとんど学校中の全てと思われる量の夜煌蟲の群れが、校庭に集結しつつあった。そしてひとつの巨大な塊になった蟲は、ゆっくりと移動を始めた。
私は校舎を飛び出して、後を追った。彼らを、見届けなければならないと思った。あの中には、柚子生先輩も、斯波方先輩も、一坂も、皆の生きた記憶が詰まっている。
蟲の塊は、敷地の端にあるプールに到達した。校庭とプールには段差があり、プールの方が一メートルくらい高い。でも、プールサイドまでを丸ごと飲み込めそうなサイズに成長した蟲は、苦手なはずの段差もどろどろと乗り越えた。
もう冬なので、プールの水は抜かれている。そこへ、蟲は雪崩をうって入り込んで行く。二十五メートルのプールではとても入り切らないはずの量だったけど、やがて全部の蟲が収まり、プールは水の代わりに、緑色に光る不定形の流動体で満たされた。さっき凄まじい量の蟲が斯波方先輩一人の体に収まったことを考えても、夜煌蟲は、ある程度の伸縮ができるのだろう。その代わり、中の密度は凄まじいことになっているんだろうけど。
プールの栓は、閉じられているはずだった。このまま朝を迎えたら、夜煌蟲はどうなるのだろう。普通ならそそくさと逃げ出して避けるはずの、太陽の光を浴びたら。死んでしまい、死骸をさらすのだろうか。でも、実体を持たない夜煌蟲の、死骸なんて聞いたことが無い。死んだら、跡形も無く消えるのだろうか。
この中に今も保存されているはずの、人々の記憶ごと。
長く長く、眠っていたような気がする。
その目を開いた時、あたしが振り上げた包丁の下で、この学校でただ一人生きて欲しいと願った少女が、泣いていた。
ああ。
怖かったよね。
でも、もう大丈夫。
あたしはまだ、ここにいたから。
そんなに簡単に、消えてしまったりはしなかったから。
あたしは、自分の過ちに、ようやくこの時、本当に気づいた。
間違っていても、構わないと思った。
正しくなんてなくたって、そうしなければ気が済まないはずだった。
でも、あたしのしたことが、本当にあたしがしたかったことだと言うのなら。
――こんなに、悲しいはずは無い。
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柚子生先輩が、血溜まりの中で微笑む。それは、誰の表情だったのだろう。
「エリヤちゃん、あたし――……」
がらん、と包丁が、力の抜けた手を滑って床に落ちた。
「――……ごめんね。ばいばい――……」
さっきと同じ声、同じ言葉。でも全く違う、別れの言葉。
既に夜煌蟲を通して柚子生先輩の過去も想いも覗いた今更、会話することなど何も無かった。
華奢な体がくず折れて、地に伏せる。
柚子生先輩の鳶色の目が、半分閉じていた。
私は柚子生先輩の体を覆う蟲を払う気もせずに、そのまま先輩の体を抱え起こした。
小さな、形のいい唇が、私に向かってぱくぱくと動く。もう声は出ない。
世界は、この人に優しくなかった。
だからこの人も、世界に優しくなんてできなかった。
ほとんど腹いせのようにして起こされた、今夜の大量殺人。犯人には、同情の余地も無い。それなのになぜか、この人が受けて来た仕打ちばかりが、無性に悔しい。
今日の今日まで、ただのおせっかい焼き同然に思っていた人が消えてしまうのが、恐ろしく悲しい。
説明のつかないことで、理屈の通らない感情に振り回される。それが人間なのだと、また思い知る。皆、こんなに辛いのに、なぜ人間をやめないでいられるのだろう。
柚子生先輩の首が、かくりと折れた。血に覆われた傷口を、せめてそれ以上開かないように、私はその体を静かに床へ横たえた。
ふと気づくと、周囲を覆っていた蟲が、波が引くように職員室から失せて行くところだった。柚子生先輩や斯波方先輩の体からも、見えない手で引き抜かれるようにずるずると緑の光る帯が引きずり出され、他の蟲と合流して、どこかへ出て行く。
窓の外を見ると、校庭でも異変が起きていた。
ほとんど学校中の全てと思われる量の夜煌蟲の群れが、校庭に集結しつつあった。そしてひとつの巨大な塊になった蟲は、ゆっくりと移動を始めた。
私は校舎を飛び出して、後を追った。彼らを、見届けなければならないと思った。あの中には、柚子生先輩も、斯波方先輩も、一坂も、皆の生きた記憶が詰まっている。
蟲の塊は、敷地の端にあるプールに到達した。校庭とプールには段差があり、プールの方が一メートルくらい高い。でも、プールサイドまでを丸ごと飲み込めそうなサイズに成長した蟲は、苦手なはずの段差もどろどろと乗り越えた。
もう冬なので、プールの水は抜かれている。そこへ、蟲は雪崩をうって入り込んで行く。二十五メートルのプールではとても入り切らないはずの量だったけど、やがて全部の蟲が収まり、プールは水の代わりに、緑色に光る不定形の流動体で満たされた。さっき凄まじい量の蟲が斯波方先輩一人の体に収まったことを考えても、夜煌蟲は、ある程度の伸縮ができるのだろう。その代わり、中の密度は凄まじいことになっているんだろうけど。
プールの栓は、閉じられているはずだった。このまま朝を迎えたら、夜煌蟲はどうなるのだろう。普通ならそそくさと逃げ出して避けるはずの、太陽の光を浴びたら。死んでしまい、死骸をさらすのだろうか。でも、実体を持たない夜煌蟲の、死骸なんて聞いたことが無い。死んだら、跡形も無く消えるのだろうか。
この中に今も保存されているはずの、人々の記憶ごと。
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