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第一部 血族
4 不吉な占い②
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もう少年の域を出て青年と呼ぶにふさわしい年齢だが、その表情はまだあどけない。巻き毛の黒髪は、女妖界の領主である母譲りで、肩より少し長く、ゆったりと後ろで束ねている。少し潤んで黒々と輝いている瞳は、どきりと胸を突かれるほどに艶めいて見える。文句なく美青年であろう。しかしその美は妖艶な色香を漂わせた女性的なもので、ナシェルのような強い輝きとは無縁だ。
「兄上、どうなさったのです。お加減でも……?」
「いや、なんでもない」
「でも、そんなにも蒼い顔をなさって。どうかこちらへ来てお休みください」
とエベールは自分の傍らの椅子を手のひらで示した。王妃の部屋に忍んで行くところに出くわすとは、なんともまずい。
「いや、本当に何でもない」
「兄上、エベールのそばになど寄るのも穢らわしいとお思いなのですね。確かにぼくは妾腹の子ですが……ああ、でも父上だけでなく兄上までぼくをそんなふうに見ておられたなんて」
「エベール、そなたをそんな風に思ったことなど一度もない、本当だ」
ナシェルはため息を押し殺して露台に近づいた。エベールは顔を覆った両手の間から濡れた瞳でこちらを見た。
「では、口付けを許してくださいますか?」
「勿論だ」
ナシェルは椅子に腰掛け、異母弟がひざまづいて手の甲に接吻するのを許した。弟はうっとりと目を閉じ、兄の手を包むように押し戴いている。
「兄上、貴方は気高く勇ましく、そしてお優しい。後にも先にも、ただひとりのぼくの味方です」
「……エベール」
「この冥王宮の誰もが僕を軽んじます。いえ、全員ではありませんけど、そうでないものもきっと心の内では、僕のことを本当に陛下の子だろうかと疑っているに違いありません。この僕自身ですら、時々自信がなくなるのですから。だって僕は兄上と違って、ちっとも父上に似ていない。兄上のように強くもなければ、体も丈夫とはいえなくて……魔族としても失格です」
「そんなことはない、エベール。そなたは離れた所のものを視る、立派な力を持っているではないか」
「そう云ってくださるのは兄上だけです。他のものはみな、表向きは僕に仕えてくれているけれど、影ではどんな噂をしているやら……。僕はこの広い王宮の中で、一人きりなのです」
エベールは黒い瞳を涙でぬらし、ナシェルを見上げる。落ち着かせようと肩に手を置けば、ますます彼の感情を高ぶらせ、とうとう彼はナシェルの膝に顔を伏せて嗚咽をもらしはじめた。
「兄上、どうかお帰りにならないでください。このままエベールの傍に……」
細い異母弟の肩が震え、揺れる黒髪の間から白い項が覗いた。男とも思えぬそのなまめかしさに、思わず兄は眼を逸らす。
……しばらく異母兄弟はその姿勢を崩さずにいた。
ようやくナシェルが解放されたのは、エベールが泣きはらした顔を上げてからだった。彼は慌てて眼をふき、恥ずかしそうに頬を染めた。
「申し訳ありません、みっともないところをお見せして……。それにこんな所でお引止めしてしまって。継母上に会いにゆかれる所だったのでしょう?」
「構いはせぬ、別に大した用事があったわけでもない。ただの見舞いだ」
「でも、大切なお召し物が涙で汚れてしまいました」
「こんなもの、汚れたうちに入らぬ。汚いものではあるまい……それにすぐ乾く」
「……お優しいのですね、兄上」
まじまじと見つめられ、ナシェルは再び眼を逸らさずにはいられなくなる。この異母弟の妖艶さは、凶器としか思えない。どきりとしてから、自分は何を考えているのかと馬鹿馬鹿しく思う。
彼は不意に黒い長衣の懐から水晶玉を取り出した。
「兄上、お詫びに占いをして差し上げます。何の取り柄もないぼくですが、これに関しては素質があるらしく、よく当たるのです。お召し物が乾く間だけ、すこしご覧になりませんか」
「……占い?」
エベールはそそくさと大理石の卓の上に小さな紫の布を広げ、その上に水晶玉を載せた。
「……そうだ、今度生れてくるのが弟か妹か、占ってみましょう」
「……なに?」
「セフィ様の子のことですよ。最近ぼくはそのことばかり考えています。腹違いとはいえ、兄になるのはどんな気分だろうと、それはもう待ち遠しくて。兄上はどうですか?」
「あ、ああ……そうだな」
ナシェルは生返事をした。突然セフィの腹の子が話題に上ったので、少なからず焦っていた。やめろと云いたいところだが、断るのも不自然すぎる。
そうこうしているうちに、エベールは占いの姿勢に入る。両手を水晶玉の上にかざして、何事か低く魔道の言葉を唱えるうち、水晶玉は淡い乳白色に輝き始める。
輝く水晶玉の中に、きらりと金色に光るものがある。
エベールはそれを確認し、ついで兄にもそれを見るよう勧めた。
ナシェルは眼を疑った。
「これは……継母上なのか?」
美しい一人の少女。
純白と呼ぶに相応しい肌。足元に届かんばかりの金髪はゆるやかに波打ち、金糸のヴェールのように少女の頬にかかっている。少しうつむいた顔、瑞々しい桃色の唇は何か云いたげに少し開かれ、白い歯がのぞいている。柔らかで細い手足。それを包むのは淡い菫色のドレスだった。
目も眩まんばかりの美少女が、水晶の中に映し出されていた。そしてそれはナシェルの愛するセファニア王妃に瓜二つだったのだ。
「違う……よく見てください。この子は継母上の腹の子供……ぼくたちの妹です。兄上。ああ、何て美しいんだろう。この透き通るような肌の色。まるで陶器人形だ」
「これが……!?」
ナシェルは絶句した。これが吾が娘……?セフィの腹にいる子だというのか。
母親の形質を見事に受け継ぎ、少女の姿は非の打ち所なく天上界の神族そのものだった。ナシェルは自分の例から云って、天上神と冥界神の間の子は、冥界神の形質を受け継ぐものと思っていたので、 この少女の金色の髪には驚いた。金髪は天上界の神族の証である。
しかし、致命的な欠陥がこの子にはあった。
ナシェルはそれを見た瞬間、全身の毛が逆立つのを覚えた。
瞳の色、である。
「……!」
蒼ざめたナシェルの表情を、エベールは察知したように訊ねた。
「兄上、どうかなさいましたか?」
「いや……」
ナシェルは眼を逸らした。
その少女の瞳の色。それは紛れもなく父親であるナシェルから受け継いだ形質であった。云いかえれば、全身のうちで唯一、そこだけが父親に瓜二つだったのだ。
群青石のように煌く二つの瞳。夜空の女神でさえも、この瞳と同じ色を造りだすことは不可能であろう。それほどに輝かしい群青の瞳……。ナシェルのそれと同じ……。
冥王が愛した色。そして冥王の子ではありえない色。冥王の瞳は血の如き紅玉だ。冥王は生れた子の瞳が開くなり、即座に子供の父親を悟るだろう。自分ではなく、ナシェルであると。
「なんて綺麗な瞳をしているんでしょう、ねえ、兄上。この色は父上というより、どちらかというと……」
エベールは小首を傾げた。幼い動作だったが、眼は違う。笑っていた。
だがナシェルはそんな異母弟の僅かな変化を気にする余裕もなく、半ば立ち上がっていた。
「もうよせ、エベール。すべて水晶で見てしまっては楽しみが減る。楽しみは……無事に生まれてからに取っておくとしよう」
「兄上、そうおっしゃらずに」
エベールはナシェルの袖を引く。ナシェルは我知らず、その手を振り払っていた。
「やめろと云っている!」
ぱしっと乾いた音がして、エベールは驚いたように頬を押さえた。振り払った手が当たったのだ。やがて、彼の眼にじわりと涙が浮かぶ。
「申し訳ありません、兄上、お気に召さなかったのですね……」
「済まぬ、手を出すつもりは……」
ナシェルは異母弟の頬に触れる。
「いいえ、私が悪うございました。退屈しのぎにと思っただけなのです。どうかお許しください。……どうか嫌わないで下さい」
「分かっている。そなたを嫌うなど、考えもつかぬこと」
じわじわと溢れる弟の涙は、そのまま頬を濡らし膝に落ちる。
ナシェルはこの繊細で脆弱に見える異母弟を、常に哀れに思い、何かと助けてやりたいとも思っていた。嫌わないで下さい、その言葉を何度聴いただろう。
女妖界の女領主と冥王が戯れに契り、その結果生まれた子で、望んで生まれた子ではないがゆえに、冥王からはその存在すらほぼ無視されている。神の子でありながら神力を持たぬがゆえ、永劫に認められることはないのだろう。しかし、今のところ冥王の子といえばナシェルと、このエベールだけなのだ。
エベールの母親である女公爵は冥王の子に相応しい待遇を求めて彼を幼少時から王宮に送り込んだが、彼を待っていたのは父王の無関心と、家臣たちの心のこもらぬ視線だった。一応、女妖界の後ろ盾はあるものの、王宮における彼の地位は極めて脆弱なものだった。小さなころから味方といえば、身分の違いすぎる兄ナシェルのみだったのだ。
「長居をした。継母上に会わねばならぬゆえ、もう行くことにする」
「はい、お引止めして済みませんでした」
ナシェルは立ち去り際、もう一度振り返ってエベールを見た。回廊の向こうに佇むエベールは、何か物言いたげに心細げにナシェルを見つめていたが、やがて深く一礼すると、柱の向こうに消えた。
異母弟の様子に何か不可解なものを感じたが、ナシェルにはそんなことに気を配る余裕はなかった。彼のほうこそ、その場から一刻も早く立ち去りたかったのだ。
エベールは円柱に凭れて肩を震わせた。
「ふふ……可笑しい、兄上の……あのうろたえた顔! ちょっとからかってやるつもりだっただけなのに」
いつもながら、異母兄の前でしおらしく演技するのは疲れる。
おやさしい兄上。僕を見下したことなど一度もないだって?笑わせる。
いつも、僕を一番哀れみの視線で見るのはお前じゃないか。
今に見てろ。お前の大事なものを、全て奪って……壊してやる。
エベールは唇を歪ませて笑い、唾を吐き捨てた。
「兄上、どうなさったのです。お加減でも……?」
「いや、なんでもない」
「でも、そんなにも蒼い顔をなさって。どうかこちらへ来てお休みください」
とエベールは自分の傍らの椅子を手のひらで示した。王妃の部屋に忍んで行くところに出くわすとは、なんともまずい。
「いや、本当に何でもない」
「兄上、エベールのそばになど寄るのも穢らわしいとお思いなのですね。確かにぼくは妾腹の子ですが……ああ、でも父上だけでなく兄上までぼくをそんなふうに見ておられたなんて」
「エベール、そなたをそんな風に思ったことなど一度もない、本当だ」
ナシェルはため息を押し殺して露台に近づいた。エベールは顔を覆った両手の間から濡れた瞳でこちらを見た。
「では、口付けを許してくださいますか?」
「勿論だ」
ナシェルは椅子に腰掛け、異母弟がひざまづいて手の甲に接吻するのを許した。弟はうっとりと目を閉じ、兄の手を包むように押し戴いている。
「兄上、貴方は気高く勇ましく、そしてお優しい。後にも先にも、ただひとりのぼくの味方です」
「……エベール」
「この冥王宮の誰もが僕を軽んじます。いえ、全員ではありませんけど、そうでないものもきっと心の内では、僕のことを本当に陛下の子だろうかと疑っているに違いありません。この僕自身ですら、時々自信がなくなるのですから。だって僕は兄上と違って、ちっとも父上に似ていない。兄上のように強くもなければ、体も丈夫とはいえなくて……魔族としても失格です」
「そんなことはない、エベール。そなたは離れた所のものを視る、立派な力を持っているではないか」
「そう云ってくださるのは兄上だけです。他のものはみな、表向きは僕に仕えてくれているけれど、影ではどんな噂をしているやら……。僕はこの広い王宮の中で、一人きりなのです」
エベールは黒い瞳を涙でぬらし、ナシェルを見上げる。落ち着かせようと肩に手を置けば、ますます彼の感情を高ぶらせ、とうとう彼はナシェルの膝に顔を伏せて嗚咽をもらしはじめた。
「兄上、どうかお帰りにならないでください。このままエベールの傍に……」
細い異母弟の肩が震え、揺れる黒髪の間から白い項が覗いた。男とも思えぬそのなまめかしさに、思わず兄は眼を逸らす。
……しばらく異母兄弟はその姿勢を崩さずにいた。
ようやくナシェルが解放されたのは、エベールが泣きはらした顔を上げてからだった。彼は慌てて眼をふき、恥ずかしそうに頬を染めた。
「申し訳ありません、みっともないところをお見せして……。それにこんな所でお引止めしてしまって。継母上に会いにゆかれる所だったのでしょう?」
「構いはせぬ、別に大した用事があったわけでもない。ただの見舞いだ」
「でも、大切なお召し物が涙で汚れてしまいました」
「こんなもの、汚れたうちに入らぬ。汚いものではあるまい……それにすぐ乾く」
「……お優しいのですね、兄上」
まじまじと見つめられ、ナシェルは再び眼を逸らさずにはいられなくなる。この異母弟の妖艶さは、凶器としか思えない。どきりとしてから、自分は何を考えているのかと馬鹿馬鹿しく思う。
彼は不意に黒い長衣の懐から水晶玉を取り出した。
「兄上、お詫びに占いをして差し上げます。何の取り柄もないぼくですが、これに関しては素質があるらしく、よく当たるのです。お召し物が乾く間だけ、すこしご覧になりませんか」
「……占い?」
エベールはそそくさと大理石の卓の上に小さな紫の布を広げ、その上に水晶玉を載せた。
「……そうだ、今度生れてくるのが弟か妹か、占ってみましょう」
「……なに?」
「セフィ様の子のことですよ。最近ぼくはそのことばかり考えています。腹違いとはいえ、兄になるのはどんな気分だろうと、それはもう待ち遠しくて。兄上はどうですか?」
「あ、ああ……そうだな」
ナシェルは生返事をした。突然セフィの腹の子が話題に上ったので、少なからず焦っていた。やめろと云いたいところだが、断るのも不自然すぎる。
そうこうしているうちに、エベールは占いの姿勢に入る。両手を水晶玉の上にかざして、何事か低く魔道の言葉を唱えるうち、水晶玉は淡い乳白色に輝き始める。
輝く水晶玉の中に、きらりと金色に光るものがある。
エベールはそれを確認し、ついで兄にもそれを見るよう勧めた。
ナシェルは眼を疑った。
「これは……継母上なのか?」
美しい一人の少女。
純白と呼ぶに相応しい肌。足元に届かんばかりの金髪はゆるやかに波打ち、金糸のヴェールのように少女の頬にかかっている。少しうつむいた顔、瑞々しい桃色の唇は何か云いたげに少し開かれ、白い歯がのぞいている。柔らかで細い手足。それを包むのは淡い菫色のドレスだった。
目も眩まんばかりの美少女が、水晶の中に映し出されていた。そしてそれはナシェルの愛するセファニア王妃に瓜二つだったのだ。
「違う……よく見てください。この子は継母上の腹の子供……ぼくたちの妹です。兄上。ああ、何て美しいんだろう。この透き通るような肌の色。まるで陶器人形だ」
「これが……!?」
ナシェルは絶句した。これが吾が娘……?セフィの腹にいる子だというのか。
母親の形質を見事に受け継ぎ、少女の姿は非の打ち所なく天上界の神族そのものだった。ナシェルは自分の例から云って、天上神と冥界神の間の子は、冥界神の形質を受け継ぐものと思っていたので、 この少女の金色の髪には驚いた。金髪は天上界の神族の証である。
しかし、致命的な欠陥がこの子にはあった。
ナシェルはそれを見た瞬間、全身の毛が逆立つのを覚えた。
瞳の色、である。
「……!」
蒼ざめたナシェルの表情を、エベールは察知したように訊ねた。
「兄上、どうかなさいましたか?」
「いや……」
ナシェルは眼を逸らした。
その少女の瞳の色。それは紛れもなく父親であるナシェルから受け継いだ形質であった。云いかえれば、全身のうちで唯一、そこだけが父親に瓜二つだったのだ。
群青石のように煌く二つの瞳。夜空の女神でさえも、この瞳と同じ色を造りだすことは不可能であろう。それほどに輝かしい群青の瞳……。ナシェルのそれと同じ……。
冥王が愛した色。そして冥王の子ではありえない色。冥王の瞳は血の如き紅玉だ。冥王は生れた子の瞳が開くなり、即座に子供の父親を悟るだろう。自分ではなく、ナシェルであると。
「なんて綺麗な瞳をしているんでしょう、ねえ、兄上。この色は父上というより、どちらかというと……」
エベールは小首を傾げた。幼い動作だったが、眼は違う。笑っていた。
だがナシェルはそんな異母弟の僅かな変化を気にする余裕もなく、半ば立ち上がっていた。
「もうよせ、エベール。すべて水晶で見てしまっては楽しみが減る。楽しみは……無事に生まれてからに取っておくとしよう」
「兄上、そうおっしゃらずに」
エベールはナシェルの袖を引く。ナシェルは我知らず、その手を振り払っていた。
「やめろと云っている!」
ぱしっと乾いた音がして、エベールは驚いたように頬を押さえた。振り払った手が当たったのだ。やがて、彼の眼にじわりと涙が浮かぶ。
「申し訳ありません、兄上、お気に召さなかったのですね……」
「済まぬ、手を出すつもりは……」
ナシェルは異母弟の頬に触れる。
「いいえ、私が悪うございました。退屈しのぎにと思っただけなのです。どうかお許しください。……どうか嫌わないで下さい」
「分かっている。そなたを嫌うなど、考えもつかぬこと」
じわじわと溢れる弟の涙は、そのまま頬を濡らし膝に落ちる。
ナシェルはこの繊細で脆弱に見える異母弟を、常に哀れに思い、何かと助けてやりたいとも思っていた。嫌わないで下さい、その言葉を何度聴いただろう。
女妖界の女領主と冥王が戯れに契り、その結果生まれた子で、望んで生まれた子ではないがゆえに、冥王からはその存在すらほぼ無視されている。神の子でありながら神力を持たぬがゆえ、永劫に認められることはないのだろう。しかし、今のところ冥王の子といえばナシェルと、このエベールだけなのだ。
エベールの母親である女公爵は冥王の子に相応しい待遇を求めて彼を幼少時から王宮に送り込んだが、彼を待っていたのは父王の無関心と、家臣たちの心のこもらぬ視線だった。一応、女妖界の後ろ盾はあるものの、王宮における彼の地位は極めて脆弱なものだった。小さなころから味方といえば、身分の違いすぎる兄ナシェルのみだったのだ。
「長居をした。継母上に会わねばならぬゆえ、もう行くことにする」
「はい、お引止めして済みませんでした」
ナシェルは立ち去り際、もう一度振り返ってエベールを見た。回廊の向こうに佇むエベールは、何か物言いたげに心細げにナシェルを見つめていたが、やがて深く一礼すると、柱の向こうに消えた。
異母弟の様子に何か不可解なものを感じたが、ナシェルにはそんなことに気を配る余裕はなかった。彼のほうこそ、その場から一刻も早く立ち去りたかったのだ。
エベールは円柱に凭れて肩を震わせた。
「ふふ……可笑しい、兄上の……あのうろたえた顔! ちょっとからかってやるつもりだっただけなのに」
いつもながら、異母兄の前でしおらしく演技するのは疲れる。
おやさしい兄上。僕を見下したことなど一度もないだって?笑わせる。
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