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第一部 血族
5 王妃①
しおりを挟む女神セファニアの住む内殿は、森厳とした静寂に包まれていた。彼女が魔族の穢れた気を拒むので、冥王がほとんどの者の立ち入りを禁じたからだ。いまは僅か数人の、侍女たちのみが彼女に仕えている。
エベールの占いのことを考えながら、ナシェルは王妃の居室に向かっていた。
生まれてくる子が娘だということは、命を司る女神であるセファニア自身も話していた。だから恐らく、宿した命が女子であることは確かなのであろう。
しかし、あの瞳の色……。
自分が父親だと広言するかのような群青の瞳をしていた。あれはまずい。
いくら鷹揚な性格で一本抜けたところのある父王でも、さすがに気づくだろう。
ナシェルは慄然とした。その先を想像すると身の毛が弥立つ。冥王は嫉妬に狂うだろう。自分に対しても。セファニアに対しても。愛する者ふたりに同時に裏切られることになるのだ。その怒りは、どんなすさまじいものになるか、その先は想像もつかない。
なんとかしなくては……。ばれる前に、生まれてくる子を殺すか?いや……、そんなことはできない……。
それにそもそも、すべては父王の束縛に嫌気が差してはじめたことなのだ。今さらばれたところで、何を恐れることがあろうか……。
そんなことを考えるうち、王妃の居室の前まで来る。彼は周りを飛び回る死の精たちに声をかけた。
「お前たち、しばらく離れておれ」
死の精たちは追い払われてムッとしたようだった。神に仕える精霊たちは、眠っているときでさえ主の傍を離れないものなのに、いつもナシェルはここで眷族たる死の精たちを追い払う。女神セファニアが、ほんの少しの邪気でも弱ってしまうからだ。
扉を叩くと、向こう側から侍女の一人が扉を開け、ナシェルを見て眼を丸くした。
「殿下……!?」
静止を振り切って部屋の中に入る。突然の侵入者に数人いた侍女たちは抗議の声を上げようとしたが、ナシェルはかまわず人払いを命じる。侍女たちはおろおろと、天蓋の奥とナシェルを見比べ……、やがて諦めて一礼すると、部屋から出て行った。
扉が締め切られてしまうと、居室の中は高貴な二人の神たち以外には誰も居なくなる。
ナシェルは部屋を横切って、大きな天蓋つきの寝台のほうに向かった。
四方に、真っ白な絹の幕が幾重にも襞を作って張り巡らされていて、中の様子を隠している。彼は、その中に向かって呼びかけた。
「起きておられますか、継母上」
返答はない。ナシェルはしかし、返答など待たずにいきなり天蓋を引き開けた。
「ナシェル……!」
非難の声を上げたのは、寝台の上に居た一人の少女。ナシェルは唇を歪めた。
「起きていらっしゃるなら、返事くらいしてくださればよいものを」
寝台の上に横たわったまま、上半身だけ起き上がって掛け布を引き寄せた少女は、その緑色の瞳に怒りの色を浮かべてナシェルを睨む。
「許しもなしに、無礼ではありませんか」
「寝顔を拝見したかったんですよ、美しい継母上の」
云いながら、ナシェルは寝台の端に腰掛けた。後ずさろうとする少女の腕を掴んで強引に引き寄せ、唇を重ねる。慇懃な口調とは裏腹の行いだった。
「やめて、」
顔を逸らして、少女は抗った。もがこうとするその肩を掴んで、強く寝台に押し付ける。逃げようとする少女が、冗談かと思うほど非力なのが可笑しい。そのまま倒れこみ、象牙のような首筋に接吻する。
「貴方に毎日会えないのは苦痛です。貴方が父上に毎晩こんな風にされているかと思うと、私の心は張り裂けんばかりだ。判りますか」
「ナシェル、やめて!」
少女は押し殺した声で叫んだ。少女といってもそれは外見だけのことだ。
セファニア……、冥王の二度目の正妻。天上界の、命を司る女神。
ナシェルにとっては、継母に当たる。
真珠の肌に、若葉の輝きを放つ翠色の瞳。数千年を生きているとは思えない。
神はもっとも美しい時期になると成長を止める。ナシェルも外見の変化がなくなって数百年がたつ。セファニアは比較的早い時期に成長が止まったのだろう、ナシェルよりもはるかに年上だが、ずっと幼く見えるのだ。
唇を貪りながら、ナシェルは片方の手で、小さな命の入ったセフィの腹部にそっと触れてみた。
膨らみがだいぶ目立ち始めている。
舌をかまれて、ようやくナシェルは唇を離した。王妃は肩で息をしながら、蒼白になった顔に怒りの表情を浮かべている。ナシェルは唇についた血を拭った。
「……最近はひどく調子がすぐれないと伺っていましたが、元気じゃありませんか」
「ナシェル! どうして……」
継母が厳しい口調で非難する。ナシェルは笑い、体を離して寝台の端に座りなおした。
「遊びですよ。本気で噛み付くことないのに」
そして、眼の前にいる天上界の女神をじっと見つめた。セファニアはナシェルの舐めるような視線を拒んで、横を向く。そのほっそりした肢体を包むのは、白い夜着だった。敷布の上に広がる長い髪は金。アルカディア(天上界)の神族の特徴だ。
セファニアは顔を背けたまま、少し咳き込んだ。具合が悪そうだが、背中に手をやろうとすれば、
「……何でもないわ」
と拒まれる。
セファニアは掛け布を引き寄せ口元を押さえた。秀麗な眉が顰められ、肩を震わせて咳き込んでいる。口に当てた白いシーツに、うっすらと血が滲むのが見えた。
「継母上……!」
ナシェルは凍りついた。ティアーナも……、彼を産んですぐ死んだ母も、この冥界の瘴気によって病み、消滅したのだ。同じく、血を吐いて。
「大丈夫よ、少し咳が出るだけ」
「血が滲んで……」
「大した量じゃないわ」
まさかここまで病が悪化していようとは。ナシェルは己の強引な行いを恥じ、悔いた。絶句した彼を宥めるように、セファニアは無理に表情を繕う。
「本当に、何でもないわ……。それより、どうして来たの。もう会わない方がいいと、あれほど……」
「判っています……ですがどうしても、耐え切れなかったのです」
セファニアはため息をつく。
二神《ふたり》の関係は、ナシェルの一方的な押しかけだ。契ったのも、強引なやり方だった。女神セファニアは終始受け身であり、そうなるのも運命と半ば諦めていたかのようだった。抗わぬのはこの冥界に嫁がされた時と同様、それが彼女の生き方だからなのか。
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