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第一部 血族
13瘴気の森①
しおりを挟む荒みきった私生活から目を背けるようにして、ヴァニオンがナシェルの元に出仕したのは数日後のこと。
「ヴァニオン卿!」
エレボス城の廊下で、不意に呼び止められ振り返ると、声の主はナシェルの目付け役・冥界軍のアシュレイド将軍だった。
彼は廊下の向こうで騎士団員に何やら指示していたが、それを切り上げ小走りに追いついてきて、ヴァニオンに並んだ。
「まったくいい所においでになりました」
「何だよいい所って……薄気味悪いな」
いつもナシェルをそそのかして遊興に連れ出す乳兄弟のヴァニオンは、ふだんはアシュレイドに目の敵にされている。先日もナシェルの不在を誤魔化そうとしたことでさんざん文句を云われ、殿下の執務の邪魔になるからあんた、しばらく登城するなと追い払われたばかり。
だから追い返されこそすれ、歓迎されるなど滅多にないことだ。
アシュレイドは声を潜めた。
「あれ、何なんです。一体……」
「あれって何だよ」
「殿下ですよ。冥王宮から帰って来られてからというもの、ずっと塞ぎこんだご様子で部屋に閉じこもりきりなのです。なにか思い悩んでおいでのようで、酒浸りと申しますか……とにかく、御政務にも支障をきたしております」
「ナシェルが政務に支障をきたしてるのは今に始まったことじゃないだろ」
「ええ、それはまあ……というか、酒量が普段より凄まじくていらっしゃるので、臣どもも心配いたしておるのです。一体何があったのか、ご存知ありませんか」
「う、うーん……」
ヴァニオンには理由がうすうす分かっているが、口が裂けても話せない。
「政務のことで私が代行できるものはいたしておりますが、どうしても殿下に通さねばならないものもございます。殿下に私が直接お持ちしてもいいのですが、なにせ酔っておいでなのでご裁可いただけないでしょう。ヴァニオン卿、何とか酒量のことだけでもお諫めしてください」
「お諫め、ねえ……」
泣きつかれて、頭をかきかき、ヴァニオンは最上階のナシェルの私室に向かった。
普段と何ら変わらない闇の世界が広がっている。
冥府に向かう死者たちの行列が、城下を蟻の如き速度で進んでいくのも、暗黒の空を横行する魔鳥の群れも、深い洞窟の世界を吹き抜ける血なまぐさい風も、全ては何百年以上続いてきた暗黒界の日常である。
最上階の私室のテラスから、それらの変わらぬ風景を眺め下ろしている者がいる。
流れる黒髪と黒い衣装のせいで、その姿は闇に解け込んでしまうかのよう。顔や、袖口からのぞく手の甲だけに、神聖な白さがある。
彼は天鵞絨のソファにしどけなく腰掛け、肘掛けに肘をついて片頬をのせている。
半ば眠りに落ちそうな姿勢で、ぼんやりと何かを憂うような表情をしているその者は――もはや云うまでもないだろう――この常闇の世界の王子でもある死の神である。
その群青の瞳にはしかし、いつものような聡明さはない。
傍らの円卓には、一通の手紙と残り少なくなった酒瓶が置かれてあった。
「継母上……」
切なげなつぶやきが、我知らず漏れる。
心痛は、やはりセファニアのことだ。
最後に会ってからどれぐらいたっただろう。日に日に病は進行し、子を産むほどの体力は、まだ残っているのだろうか。
想いはつのるが、おいそれと会うこともかなわず、ただひたすら遠い領地からその無事を願うよりほかない。
ふさぎがちに悶々と暮らしていたところに、精霊たちが父王からの手紙を運んできたのだった。
いつもの戯けた内容ではなく、セファニアの容態を知らせている。冥王は結局前線に戻らず、妻の傍に付き添っているようだ。それほどに彼女が弱っているということなのだろう。
周りを飛び回る死の精たちすら、主人のただならぬ様子を不審がり、ざわざわと落ち着きがない。
ナシェルが新たに酒を注ごうとボトルをつかみかけたとき、横合いから誰かの手がすっと伸びてきてボトルを掠め取った。
重い頭を持ち上げて見上げると、円卓の向こうで、ヴァニオンが青筋をたてている。
「こら、何杯飲んだら気が済むんだ、さっきから見てりゃ……」
「……ヴァニオンか。どれだけ飲もうと酔いつぶれようと私の勝手だ……返せ」
「返すかよ……、ぶはっ、何これ。なんてきついの飲んでやがる」
呆れた顔で見下ろしてくる乳兄弟から、ナシェルはぷいと顔を背けた。
「誰にでも、我を忘れて酔いたい気分のときがある。お前だってあるだろう。さあ、返してくれ」
「まあね、俺も飲んだくれたいのはやまやまなんだがね……。生憎そうも云ってられなくてな。お前の素行が近ごろ一段とよろしくないので、お諫めしてくれと泣きつかれちまったからにはな」
「泣きつかれた?アシュレイドにか。余計なことを……」
口うるさい部下を、ナシェルは口中で罵った。ヴァニオンはナシェルの横に自分も勢いよく腰を下ろした。
「お前を心配しているのさ。アシュレイの気持ちが分かるなら、もうふて腐れて閉じこもるのはおしまいにするんだな」
「別にふて腐れているわけではない」
「さて、それでは何ゆえに拗ねておいでなのやら、殿下は」
顔を近づけ、耳元に息を吹き込むような云い方は、諫めに来たというよりからかいに来たようにしか聞こえない。うなじに絡む黒髪を一房、手にとって口付けされ、顔を背ければ、更に伸びた手が胸元に忍び寄る。乱れた服の間から指が滑り込み、白い肌をするり……と撫でた。
「あんまり挑発的な格好してると、食っちまうよ?」
低い声が耳元で囁き、ナシェルの耳朶を刺激する。
「酔っているお前も綺麗だ、ナシェル……そんなふうにしてると、抱きたくなっちまうよ。久しぶりに」
耳朶に歯を立てる口付けは、果たして悪ふざけととってよいものか。酒に火照った頭はぼうっとして、真意を測れずにヴァニオンを見返せば、吸い込まれそうな黒曜石の瞳が一時の火遊びを半ば本気で誘っている。
「……ヴァニオン。他の男に走ったお前に、そんな権利はない」
「よくいうね。お前が俺を捨てたんだろ……」
「そうだったかな……どちらにしろ、昔の話だ」
悪戯な手をぱちんと叩いてやると、ヴァニオンは名残惜しそうに指を離した。ナシェルははだけた胸元を掻き合わせながら、円卓の上の冥王からの手紙を指し示した。
「またお遊びの誘いか? 陛下もよくやるな、ホント」
ヴァニオンは今の妖しい雰囲気などけろりと忘れてしまったように、円卓の上で丸まっている書状を手にする。その様子からすると、甘美な誘いも冗談だったのだろう。
彼は文面に目を走らせ、僅かに表情を引き締めた。
「そうか、王妃は具合がお悪いのか……」
「せめてもう一度なりともお会いしたいが、それも叶わぬだろう。父上がつきっきりでおられるようだし……」
「なるほどね、陛下と一緒にいるところなど、見たくもないか」
「そういうことだ」
何度目かのため息と共に、ナシェルはソファに深く身を沈める。
「それで生まれてくる赤ん坊のことはどうするんだ。お前の子供だってことがもし陛下にバレたら……怖っ!!」
ヴァニオンは身震いする。
ナシェルは生まれる娘がセファニアの生まれ変わりであることをヴァニオンに説明した。そして娘の瞳の色が、自分と同じ群青であるという異母弟エベールの予言のことも。
ヴァニオンは女神の神通力に驚きつつ腕を組む。ナシェルはかたわらで、仰向き加減にだらりと伸びた。
「もうどうでもいいんだ、そんなことは。もしセファニアが転位するなら私も後を追って死ぬ。あとはどうにでもなれ。子供は……たぶん父上が育てるだろう」
「またすぐそういうこと云う……。本当にいいのかよ? お前の娘だろ。陛下が育てたらお前みたいになっちまうかもしれないぜ? その……つまりさ……」
「……云いたいことは分かる」
つまるところナシェルと同じような被害者がもうひとり増えるということだ。
「それにお前がもし居なくなったら陛下は絶対にヤバい。たぶん狂うと思う」
「それも分かる……今でさえ半分狂ってるからな……」
「だから王妃に何かあってもお前が、しっかりしなきゃいけないんだよ。酒浸りはダメ」
「……」
放っておいてほしい、とばかりナシェルは群青の双眸を閉ざす。
「とにかく赤ん坊の父親がお前だってバレないようにする、いい方法はねえかな」
真剣に考え始めたヴァニオンの横で、ナシェルはうとうとと眠りに落ちかけている。幼い時分から万事につけ投げやりなところがあって、こういう性格なのだとヴァニオンも判っているのだが、それでも身分の差を越えて一緒に育ってきたこの乳兄弟を、放っておくことはできない。
幼いころ父親たちの狩りについていって、迷い込んだ腐樹界の深い森の奥で、ナシェルが毒虫に刺されて動けなくなったことがあった。美味しそうな血の匂いに、周りの木々までが引っかかった獲物を味見しようと蔓を伸ばしてきた。ヴァニオンがナシェルを庇おうとしているのに、幼いナシェルは飄々と云ったものだ。
『私が囮になってやるゆえそなたは早う逃げよ。たぶん私の血のほうがうまいであろうし、命もさほど惜しくはない。それに地上の人の死を司るこの私が、果たしてこんな雑魚の手にかかって消滅することができるのか、試してみるのも一興だ』
異変に気づいたヴァニオンの父が助けに来たから助かったものの、あのままあそこにいたら間違いなく吸血花に食われていただろう。
ヴァニオンは安堵のあまりびーびー泣いた記憶があるが、ナシェルのほうは冥王に抱き上げられながら、むしろ憮然としていたように思う。可愛い容姿に似合わず奇妙なほど肝が据わっていて、子供らしくない澄ましたガキだった。あの頃から投げやりで、命というものにまるで頓着しない性格だったが…。
「腐樹界か…」
あの一件以後、鬼門のようなイメージのその小世界のことを、ヴァニオンは思い出していた。
同時に、その領主である男の顔が浮かんでくる。
王家の主治医を称する、毒薬の収集家。ナルシストで嫌味な奴だ。
自分とは犬猿の仲だがこの際は仕方がない。
ヴァニオンはナシェルの肩を揺すった。
「ナシェル、起きろ。ファルクだ。あいつに頼んで眼の色を誤魔化す薬でも造ってもらおうぜ」
「ファルク?……嫌だ。ヤツの顔を見るぐらいなら死んだほうがましだ」
「我儘いってる場合じゃねえだろ。俺だってなるべく関わりたくねえよ、あんな変態。だけど他に方法が思いつかないんだから」
「私は別にどうでもいいと云っているのに…」
ナシェルは親友を恨めしそうに見上げたが、ヴァニオンは既に立ち上がっている。
「聞くだけ聞いてみようぜ。行こう、腐樹界に」
「今からか…?ファルクに会うには少なからず心の準備が要るのだ」
面倒くさそうに、ナシェルは髪をかきあげる。
尻込みする彼の腕を引いて立ち上がらせ、背中を押して部屋を出たところで、外から様子を伺っていたらしいアシュレイドに会った。将軍は久しぶりに部屋から出てきた酒臭い王子を見て、してやったりという顔をした。
「おいアシュレイ、ナシェルを少し借りるぜ」
「え?ええ、どうせ居ても居なくても大差はありませんから構いませんが、どこぞにお出かけで?」
「遠乗りだ、こいつが酔いを醒ましたいというのでな」
「誰がそんな……うっ」
反論しかけた瞬間ナシェルは尻をつねられる。不思議そうな顔のアシュレイドを残し、二人は城を出立した。
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