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第一部 血族
12堕ちし月神④
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いつしか気を失い、ぐったりと動かないサリエルに口付けながら、ヴァニオンはもどかしさを感じていた。
何のためにここに来た?少なくともこんな風に、一方的に犯すためではなかったはずだ。
(歩み寄ってやるつもりではなかったのか、俺は)
もう百年も、故郷を遠く離れ、この魔物の住まう地で幽閉されているのだ。冥界の毒素に満ちた空気は彼の体を蝕み、じわじわと弱らせている。
話し相手もヴァニオンひとりだけ。召使たちには衣食住の世話のみを命じ、一切の余計な会話を禁じている。なまじ仲良くなって、脱走の手助けでもされては困ると、当初に決めたことだった。
本来なら唯一の話し相手である自分こそが労ってやるべきなのに。
見たこともないレオンとかいう光の神に嫉妬し、歯がゆさともどかしさから心無い行いを繰り返している。
(俺を憎むのは当たり前だろう。せめて残り少ない命を、労ってやるべきなのに)
……分かっているのに、どうして優しくできないのだろう。このままでは、埋めたい溝も深まるばかりだ。
眼を合わす前までは、今日こそは彼の話を聞いてやろう、今日は優しく振舞おうと思うのだ。だがいざ向かい合うと、無感情を装いすべてを拒絶するサリエルにかっとなり、我を忘れてしまう。
天上界の神は、おそらく冥界では長く生きてゆけないのだ。冥界の瘴気は、刻一刻とサリエルの命を削っている。時折血を吐いているのは、かつてナシェルの誕生とひきかえに死んでしまった母神と同じ病だからだ。時間はおそらく、残り少ない。
焦燥感でいっぱいになる。こんなことはもう終わりにしなければ。
不意に、眠っていたサリエルが身じろぎした。
優美な眉がゆがみ、薄い唇から零れる寝息に、呻き声が混じる。
「……う……」
悪い夢でも見ているのか、閉じた瞼は悲しげだった。狭い長椅子の上で彼が身をよじるたび、苦しげな呼吸に胸が上下した。
愛しいサリエル。こんなにも、気が触れるほど思っているのに、その心を手に入れることはできない……。
「愛してる……。愛してるんだ……サリエル」
苦しくて吐き出した本当の言葉は、無論眠っているサリエルには届くはずもなく。
面と向かい合わなければ、こんなにもすんなり伝えられるのに。眠っている彼なら、こんなにも優しく呼べるのに。
サリエルの蒼白い瞼に、そっと口づける。泣き濡れた睫毛に溜まる涙を、ゆっくりと嘗めとる。猛々しく奪った後にしては、それは優しすぎる接吻だった。
ヴァニオンは握った手をそっとサリエルの胸の上に戻し、彼の体に自分の羽織っていたローブをかけてやると、自分は薄い部屋着のまま、静かに部屋を出た。
後ろ手に閉めた扉からしばらく離れられずに、取っ手を握ったまま立ち尽くす。
何度謝ろうと、彼が許すはずはない。どれだけ愛しても、彼の愛が返ってくることはない。
だが不毛な恋と諦めるには、あまりに長く一緒に居すぎた。あまりに深く愛しすぎた。そしてあまりに、遅すぎた……。
「どうすりゃいいんだ、畜生……」
扉に凭れ、汗ばんだ額にへばりつく髪をかきあげる。
唇を噛み、瞳をきつく閉じて、かなわぬ恋に静かに狂う。胸が痛い。毒花の針に刺されたように。
「サリエル……」
胸を押さえ、扉の前に崩れ落ちながら、彼は声を殺してひたすらに愛しい名を繰り返していた。
サリエルは長椅子の上に、疲れ果てた躯を起こした。
乱れて頬にかかる銀髪を、物憂げな仕草で掻きやり、ほっとため息をついた。
伏せていた蒼い瞳がそっと開かれ、扉のほうに向けられる。……彼の後ろ姿はすでに、扉の向こうに消えていた。
サリエルの顔に浮かんだ安堵の表情の裏には、複雑な感情が渦巻いている。
ヴァニオンの冷酷な態度の奥に、自分への真摯な愛が込められていることに、気づかぬはずはない。
さきほどのように、眠っているサリエルに、面と向かって伝えられない想いを囁くこともしばしばだった。
哀れな不器用な魔物。素直に愛を伝えることもできないでいる。
だが、それはサリエルも同じこと。
何度、眠ったふりをして苦しげな告白から逃れたことだろう。
何度、よろめき出て行く背を、息を殺して見送っただろう。
認めてしまうことは簡単だった。わたしもあなたと同じ、不器用で哀れな生き物なのだと。
だが、天界の神であるという誇りが、邪魔をする。心を開き向き合いたいと思う反面、どれほどに汚されようと魔族などに決しておもねってはならぬと、己を叱咤する、この誇り。
恐ろしいのだ。このまま魔族になっていく自分が。
彼を愛することでなくなってしまうであろう、神であることを証明する確かな証……それを失うのを、恐れている。
それは気高い心。神である誇り。……司るべきものも、神力も、神々しい容姿も全て失った今の自分にとって、神である証はもはや、それだけしか残っていない。
だがあの男を受け入れてしまっては、それも失うことになる……。嫌悪している魔族の、一員になってしまうのではないかと恐れている。
ふと、剥かれた肌に寒さを感じ、ヴァニオンの残していったローブをおずおずと引き寄せてみた。
暖かく、肌触りもいい。サリエルはそれを肩に羽織り、寒さから身を守った。
あの男の匂いがした。
足元に落ちている鳥琴を拾い上げ、指を走らせ一曲爪弾いてみた。
眼を閉じ、懐かしい日々を思い出そうと試みた。何度かレオンに弾いて聞かせたあの曲を繰り返した。
『そなたの鳥琴は私の心を安らげてくれる。一晩中でも聞いていたいほどだ』
そう褒めてくれた彼のにこやかな笑みを、心に思い描いて……。
しかし、何故だろう。何度同じ旋律を弾いても、天王レオンの微笑みは、靄がかかったようにぼんやりとしか、思い出せない。サリエルは必死で思い出そうとしたが、レオンの顔をそれ以上思い出せなかった。
それではと、故郷のアルカディアの様子を心に描いてみた。幾つもの浮島が浮かび、神々の浮遊城がゆったりと風に流されている。光の妖精たちが笑さざめき、花の精たちが春を謳いあげる……。
……だがそれも、ぼんやりと記憶の向こうで光っているだけで、確かな光景は浮かんでこなかった。
「……あんなに帰りたかったのに」
ため息をつき、鳥琴をやめる。
実を言えばここのところずっとそうなのだ。やはり長い年月が邪魔をしているのか。どうせ帰れはせぬという諦めからなのか。それとも、以前ほど懐かしむ気持ちが薄れてしまったのか。思い出そうと鳥琴を弾けば弾くほど、薄れていく。
「もう、どうでもよくなってしまった……」
いや違う、と首を振る。
「私が悪いのではない……」
全てあの男が悪いのだと、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
不意に嫌悪感がこみ上げ、あの男の匂いがする紫紺のローブを体から剥ぎ取り、汚らわしいものを扱うように投げ捨てた。
だがそうしてから、あの男の匂いがするのはなにもローブだけではないと、ようやく気がつく。
口付けされた箇所に。侵入を許しふたりを繋げたあの場所に。
もはや躯の至るところに、彼の匂いは染み付いているのだった。
途方にくれて、サリエルは両手で顔を塞いだ。
これ以上何を失えばいいのだろう。あまりに多くのものを失いすぎて、もう残っているのは命と誇り以外、何もないというのに。
どうせこうなる運命なら、なぜ最初から魔族として生まれて来なかったのだろう。そうすれば、あの男を心から愛することもきっとできるであろうに。
いっそ本物の魔族になってしまいたい。そうすれば、二度と会えぬであろうレオンのことも、きれいに忘れてしまえるだろうに。
神でもなく、魔族でもない今の自分が、サリエルにはどうしようもなく忌まわしかった。
神の力を失いながら、神の誇りを捨てきれず、魔に変貌していきながら、魔族となることを受け入れられずにいる。ただやみくもに、ヴァニオンの想いを無視し続け……。
この体がもっている間に、なにか答えを出さなければ。
サリエルは両腕で自分の体を抱きかかえた。冷え切った体には、あの男の温もりさえ恋しく感じられた。
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