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第二部 虚構の楽園
4 王女の箱庭④
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「いや……まあな」
と口を濁すナシェルの横合いから隣の卓のヴァニオンが、椅子ごと背中を倒すようにして口を挟む。
「忙しかったらここで優雅に茶なんか飲んでないって。暗黒界は規模がデカイだけで結構ヒマだぜ。仕事らしい仕事してるのは守備隊の連中とアシュレイドだけだな。ナシェル、お前はっきり云って要らないんじゃねえの?」
「何も政務に関与してないお前が云うな。暗黒界は死者行列の通り道だ。死の精たちの活動拠点でもある。そこを神族の私が直々に治めているということに意味があるんだ。こちらの話に割り込むな」
「はいはい」
異母弟エベールは苦笑しつつナシェルのほうに向き直った。
「兄上、実は僕もこのたび領地をいただくことになりそうなのです。まだ正式ではありませんが」
「なに、本当か?」
思わぬ情報にナシェルは身を乗り出した。
「どこをいただくのだ」
「虚無界です。陛下は新しく平定なさった氷獣界をヴェンディート公に治めさせるおつもりのようです。そうすると今公爵の治めている虚無界が空くので……僕にやるとおっしゃって」
「虚無界だと……」
その名の示すとおり荒れ果てた暗き大地のほかには何もなく、魔獣たちすら棲息せぬ墓場のような場所だ。苦役に耐えられずに、転生も果たさず潰えた死者の魂を弔うために、残りの死者たちがただひたすら夥しい数の墓標を立て続けている、魂の永遠の墓所。魔族の集落とて一つもなく、荒廃した場所だ。
冥王の第二王子が治めるべき場所とは、正直、到底思えない。
王位継承の順位からしても、もっと重要な……そう、氷獣界ぐらいは与えてもよいのではと思う。
父はどういうつもりなのか。
「そなたに虚無界など……あんな小さな場所を。私から父上に申し上げてやろうか。もっとそなたに相応しき場所があろう」
「いいのです、僕は剣を扱うこともできませんし、氷獣界で何かあっても対処できないでしょう。それより、僕に領地をやると父上が云ってくださったことのほうが、うれしいのですから」
エベールは俯いて表情を隠した。
「エベール……」
「僕が領地に行ったら、ますますお会いできなくなりますね、兄上。たまには遊びに来てくれますか?」
「もちろんだ。そなたも疑似天や暗黒界にもっと来ればよい」
「ありがとうございます……」
社交辞令のような会話。
一瞬、静かになったかと思うと隣の円卓から王女が声を上げる。
「ああー、兄さま! ヴァニオンがサリーのおかし、たべちゃった! もお、それサリーのぶんなんだからあ!」
「痛てッ」
「いいんですよ、姫さま。おかわりなさると思って、まだ残してありますから」
賑やかな王女とは対照的に、乳兄のアシュタルが焼菓子を頬張りながらヴァニオンに尋ねている。
「父様……じゃなくて、我が父は元気でしょうか?最近忙しいようで、あまり会っていないのです」
「うん? アシュレイドが忙しそうってか。あのなアシュタル、今の台詞そっくりそのままあちらにいる殿下に申し上げてみろ」
「ヴァニオン!」
ナシェルが勢いよく碗を置いたので甲高い音が響き渡る。
エベールはそんな彼らを見てふふふと嗤った。不意に声をひそめ、ナシェルの方に顔を近づける。
「ああ、兄上、そういえば僕、謝らなきゃいけないことがあったんでした……」
「……?」
「ルゥが生まれる前、僕、水晶玉で予言したことがあったでしょう……。蒼い瞳の王女が生まれるって……」
急に何を云い出すのか。ナシェルは表情を隠して弟の妖艶な美貌を見下ろした。
隣の円卓に聞こえないようエベールは兄に擦り寄り、その腿に己の手を置いて、耳元に囁くようにして、
「間違ってましたね……。ルゥのあの緑色の瞳……、亡きセファニア様にそっくりですよ。綺麗だな。どうして蒼い瞳だなんて、僕、云ったのかな……。
僕の占いの腕、まだまだでしたね、ごめんなさい。今なら、あんな間違いしないんですけど」
「エベール。そなた……」
ナシェルは慄然とした。
こいつは私の犯した罪と小細工に、気づいている……?
声を低め、掠れ声で問うた。
「……知って、いるのか?」
王女とアシュタルが何かにはしゃいで立てた笑声に紛れ、ナシェルの言葉は掻き消された。
隣卓のヴァニオンだけが、瞬時に凍りついた雰囲気に気づいたようだ。
こちらをチラリと窺うのが、視界の端に映る。
「兄上……何をです。やだな、そんな顔しないでください。占いが外れただけでしょう」
エベールは声色を普段の調子に戻し、身を起こしてナシェルから離れると、冷めかかった残りの茶を飲み干した。
「ごちそうさま、サリエルの淹れるお茶はおいしいね。ルゥ、アシュタル、食べ終わったら、探検ごっこしに行かないかい?」
子供たちは歓声を上げて椅子から飛び降りた。
笑いさざめきながら花園への階段を下りて丘のほうに去ってゆく三人を見ながら、ナシェルは背中を伝い落ちる冷たい汗の粒を感じていた。
「おい……お前ら何を話してた?」
ヴァニオンが小さく問いかけてくるのに、
「……何でもない。いや……後で話す」
と答えるのが、精一杯だった。
と口を濁すナシェルの横合いから隣の卓のヴァニオンが、椅子ごと背中を倒すようにして口を挟む。
「忙しかったらここで優雅に茶なんか飲んでないって。暗黒界は規模がデカイだけで結構ヒマだぜ。仕事らしい仕事してるのは守備隊の連中とアシュレイドだけだな。ナシェル、お前はっきり云って要らないんじゃねえの?」
「何も政務に関与してないお前が云うな。暗黒界は死者行列の通り道だ。死の精たちの活動拠点でもある。そこを神族の私が直々に治めているということに意味があるんだ。こちらの話に割り込むな」
「はいはい」
異母弟エベールは苦笑しつつナシェルのほうに向き直った。
「兄上、実は僕もこのたび領地をいただくことになりそうなのです。まだ正式ではありませんが」
「なに、本当か?」
思わぬ情報にナシェルは身を乗り出した。
「どこをいただくのだ」
「虚無界です。陛下は新しく平定なさった氷獣界をヴェンディート公に治めさせるおつもりのようです。そうすると今公爵の治めている虚無界が空くので……僕にやるとおっしゃって」
「虚無界だと……」
その名の示すとおり荒れ果てた暗き大地のほかには何もなく、魔獣たちすら棲息せぬ墓場のような場所だ。苦役に耐えられずに、転生も果たさず潰えた死者の魂を弔うために、残りの死者たちがただひたすら夥しい数の墓標を立て続けている、魂の永遠の墓所。魔族の集落とて一つもなく、荒廃した場所だ。
冥王の第二王子が治めるべき場所とは、正直、到底思えない。
王位継承の順位からしても、もっと重要な……そう、氷獣界ぐらいは与えてもよいのではと思う。
父はどういうつもりなのか。
「そなたに虚無界など……あんな小さな場所を。私から父上に申し上げてやろうか。もっとそなたに相応しき場所があろう」
「いいのです、僕は剣を扱うこともできませんし、氷獣界で何かあっても対処できないでしょう。それより、僕に領地をやると父上が云ってくださったことのほうが、うれしいのですから」
エベールは俯いて表情を隠した。
「エベール……」
「僕が領地に行ったら、ますますお会いできなくなりますね、兄上。たまには遊びに来てくれますか?」
「もちろんだ。そなたも疑似天や暗黒界にもっと来ればよい」
「ありがとうございます……」
社交辞令のような会話。
一瞬、静かになったかと思うと隣の円卓から王女が声を上げる。
「ああー、兄さま! ヴァニオンがサリーのおかし、たべちゃった! もお、それサリーのぶんなんだからあ!」
「痛てッ」
「いいんですよ、姫さま。おかわりなさると思って、まだ残してありますから」
賑やかな王女とは対照的に、乳兄のアシュタルが焼菓子を頬張りながらヴァニオンに尋ねている。
「父様……じゃなくて、我が父は元気でしょうか?最近忙しいようで、あまり会っていないのです」
「うん? アシュレイドが忙しそうってか。あのなアシュタル、今の台詞そっくりそのままあちらにいる殿下に申し上げてみろ」
「ヴァニオン!」
ナシェルが勢いよく碗を置いたので甲高い音が響き渡る。
エベールはそんな彼らを見てふふふと嗤った。不意に声をひそめ、ナシェルの方に顔を近づける。
「ああ、兄上、そういえば僕、謝らなきゃいけないことがあったんでした……」
「……?」
「ルゥが生まれる前、僕、水晶玉で予言したことがあったでしょう……。蒼い瞳の王女が生まれるって……」
急に何を云い出すのか。ナシェルは表情を隠して弟の妖艶な美貌を見下ろした。
隣の円卓に聞こえないようエベールは兄に擦り寄り、その腿に己の手を置いて、耳元に囁くようにして、
「間違ってましたね……。ルゥのあの緑色の瞳……、亡きセファニア様にそっくりですよ。綺麗だな。どうして蒼い瞳だなんて、僕、云ったのかな……。
僕の占いの腕、まだまだでしたね、ごめんなさい。今なら、あんな間違いしないんですけど」
「エベール。そなた……」
ナシェルは慄然とした。
こいつは私の犯した罪と小細工に、気づいている……?
声を低め、掠れ声で問うた。
「……知って、いるのか?」
王女とアシュタルが何かにはしゃいで立てた笑声に紛れ、ナシェルの言葉は掻き消された。
隣卓のヴァニオンだけが、瞬時に凍りついた雰囲気に気づいたようだ。
こちらをチラリと窺うのが、視界の端に映る。
「兄上……何をです。やだな、そんな顔しないでください。占いが外れただけでしょう」
エベールは声色を普段の調子に戻し、身を起こしてナシェルから離れると、冷めかかった残りの茶を飲み干した。
「ごちそうさま、サリエルの淹れるお茶はおいしいね。ルゥ、アシュタル、食べ終わったら、探検ごっこしに行かないかい?」
子供たちは歓声を上げて椅子から飛び降りた。
笑いさざめきながら花園への階段を下りて丘のほうに去ってゆく三人を見ながら、ナシェルは背中を伝い落ちる冷たい汗の粒を感じていた。
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