泉界のアリア

佐宗

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第三部 天 獄

17遠き、そなたの呼び声④

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(……行かねばならぬ、一刻も早く。そなたの元へ。
 一体なにがあったというのだ、死の影の王シャフティエル
 そなたが望んで我らの鎖を断ち切ったのではあるまい。何者がそなたを……。
 そなたは……どこにいる?)


 頑として供をすると言い張るジェニウスが、準備の完全でないまま王に馬を寄せる。ジェニウスは王の眉間に刻まれた深い皺を見て、王の常ならぬ焦燥を感じ取った。

「参りましょう、陛下!」

 ジェニウスが呼びかけ、馬首を巡らしかけた、その時である。
 馬上の王の、優雅な長身が、突如雷撃にでも撃たれたかの如くびりりと震えた。

「!」

 再び何かを感じ取った王は、その気配を確めるようにつかの間、瞼を閉じる。
 そして彼が再びそれを開け、緩むことなき紅の瞳で暗黒界エレボスの方角を見据えたとき、王命に応えた数千億という闇の精、そして死の精までもが、堰を切ってあふれだす雪解けの滝水の如くに甚だしい勢いで暗黒界の方角へ飛翔していくのが見えた。
 その姿は、宙に投げかけられた数万本の黒い繻子しゅす織り糸のようにジェニウスの目には映った。

 精霊達は口々に、侵入者! 侵入者である! 闇神の邦を護り参らせよ、と叫んでいた。

「ジェニウス!」

 配下の精霊の飛び去った風上の方角へ向けて再度馬首を巡らしながら、王は腹心に命じる。

「予定が変わった。余は先に暗黒界へ参る! そなたは、このまま疑似天へ向かえ」
「な、何ですと?」

 ジェニウスはつづけざまの事態に状況を飲み込めぬ。

「何者かが今、余の領土に入ってきた。一切の猶予はない、余はそちらを先に片付けねばならぬ! そなたは先に疑似天へ赴き事態を把握して参れ」
「暗黒界に侵入者……、なぜこうも次から次へと!?」

 立て続けの変事にジェニウスは驚愕しながらも、何とか指揮官として次の思考に移る。自分が混乱している場合ではないのだ。

 「しかしナシェル殿下のことはどうなさいます、気配が消えたとは一体どういう、」

 王は闇嶺セレドイルの飛び立つ間際、逡巡を断ち切らんとするかのように唇を噛み、こう云い残し去った。

「……今は一刻も早く暗黒界を救いに往かねばならぬ。兵を無駄に死なせるわけにはいかぬ。
 ジェニウス、都に戒厳令を敷け! 市門を閉じ封鎖しろ。兵たち、そして黒翼騎士団も市内に待機させ都の外には一歩も出してはならぬ。
“侵入者”はおそらく天上界アルカディアの者どもであろう。なれば対抗することができるのは恐らく余のみであろうからな!
 暗黒界が…三連の砦が、余の到着するまで持ちこたえてくれれば良いが」




 黒天馬の腹を蹴るセダルの胸裏もまた、旋風舞う地表と等しく、激しく掻き乱されている。
 疑似天アルカシェル暗黒界エレボス、双方が己の助けを求めている。
 そして己は今、あろうことか窮地の半身の呼びかけにも応じずもう一方の窮地へ向かおうとしているのだ。

 かけがえのない半身が、どこかで己に救いの手を求めているというのに。こんなことは初めてだというのに。
 あれヽヽを失うぐらいならばこの世界もろとも滅びの道を歩んでやるとさえ自負していたのに。
 このような時に限って狂気は遠ざかり、冷静な統治者としての己がつとめて全うな判断を下すとは。

 何ということだ……、狂気のままでありたかった。そうであれば、世界のことなどかなぐり捨てて、今すぐにでもそなたを探しに行ったであろうに!

  (吾子よ、余を求めるその声は、しかと受け取ったぞ。
 そなたが余を残してそう簡単に消滅するはずはあるまい。
 
 どれほど離れていようと余とそなたは一心同体。
 どんな状況であれそなたは余のみを信じよ。
 余のみを想え。余を呼び続けよ。
 さすれば必ず、もう一度そなたを繋ぎとめてやる。
 切れた鎖をあきらめて、手放してはならぬぞ!)


 王は、遙か虚ろなる彼方へ消えた半身に向けて心で語りかける。
 届いているかは疑わしい。
 千年以上の時をともに歩んできた中で、王が初めて感じる手応えの無さだった。



 王を乗せた闇嶺は冥府の宙を、黒き閃光となって駆け抜ける。

 暗黒界から吹き降ろしてくる風と、闇嶺セレドイルの翼が巻き起こす業風が衝突し、この地下の国にはあり得べからざる・・・・・・・・もの……嵐が、訪れたかの如き光景であった。



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