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第三部 天 獄
16遠き、そなたの呼び声③
暗黒界にいたアシュレイドが最初の伝令……つまり疑似天からの伝文を受け取ったのとほぼ同時期に、冥王の住まう冥府へも第二王子から火急の要請がもたらされていた。
『詳しくは書面にては憚るが、緊急事態につき大至急部隊を回せ』という、意味を成さぬ伝文に冥界軍の総帥ヴェルキウス公ジェニウスは面食らい、訝しんだ。
だがもっと驚いたのは、彼がその伝文を受け取るよりも前に、冥王が何かを察知して突如会議の席を離れ、硬い表情でジェニウスを傍らに呼び「余はこれから疑似天へ行く」と宣下したことであった。
疑似天とは、娘であるルーシェルミア姫のために冥王が拵えた小世界である。
しかし王女自身が赤子の折りに凄まじい神司を発揮して結界を張り巡らせたため、今はきらきらふわふわしたお花畑と化している、なんとも冥界の雰囲気にそぐわぬ場所である。
光ある場所を好まぬ冥王自身、よほどのことがない限りは訪れることはないのだが。
冥王が何かに急き立てられるように退出した直後、疑似天からこのような奇妙な伝文が齎されたのだ。当然、会議は中断となった。
がやがやと騒がしくなった議場を抜け、黒翼騎士団長を呼んで部隊編成の指揮を任せてから、ジェニウスはあっという間に姿を消した王を探して馬場に出た。
「陛下! お待ちください! 単騎で往かれるなど!」
姿を消していたのは着替えのためであったか、騎装に身を包んで馬場に現れた王は、あろうことか、十頭余りいる愛馬のなかから闇嶺を選び出し鞍を用意させている。
闇嶺は長年の愛馬であるがもっとも気性が荒く、大柄で、王以外の者には決して懐かぬ黒天馬の群れの王馬だった。魔獣討伐遠征時など限りなく戦時においてしか鞍を置かぬはずの、冥界最速の馬だ。
馬の選択からして只事ならぬ事態の予感がする。
エベール王子の伝文の中身と、冥王の感じた何かが、確実に同一のものであることはジェニウスにも容易に想像がついた。
「しばし待たれませ、陛下! いま随行員を編成中でございます」
「余は先に行く。部隊は後々参るがよい」
会議中にいったい何を感じたというのか、王の眼差しはいつになく苛烈である。
「何故そうも急がれるか。せめて供をお連れ下さい、何なら臣が、」
「ジェニウス」
急な出立と聞き鞍を用意する厩舎番の、慌てた後姿を無表情に見つめながら、厩舎の入り口に凭れる王は声を低める。
「つい先日話したであろう、そなたに。例のよく判らぬ『穢れた風』のことだ」
「……」
ジェニウスは息を呑み、王を見返した。
冥王は先日、暗黒界の方角から吹き込んでくる風に「嫌な気配」が混じっていると呟き、それを強いていうならば『穢れ』のようなものだ、と評していた。
それが何を意味するのかまではその時点では把握できず、なおかつ半身であるナシェルに向けて飛ばした精霊も、間の悪いことに疑似天の結界に弾かれて戻ってくる始末であった。
その『穢れ』の正体を調べさせるために、いよいよ伝令でも出して王子を呼びつけようかと話していたその矢先の、この出来事である。
「余としたことが迂闊であった……。あの穢れは暗黒界の方角ではなく、疑似天からのものであったのだ。
王女の結界の中のことゆえ、感知するのが遅くなったか。
だが先程から何故だか、徐々にはっきりと感ずるようになった」
「か…感ずるとは、何を?」
「余の世界に、綻びが生まれておるようだ」
冥王の紅玉の眸が、引き出されてくる愛馬を離れてはるか彼方へ向けられる。
「この風はステュクス河からの風ではない。疑似天からの風だ。しかも、異界の風が混じっておる……」
「異界の、風……!?」
冥王はそれ以上の問答は不要、とばかりにジェニウスを手で制し、手綱を取った。
主君を鞍上に迎えた闇嶺は、戦地に赴くか如くに揚揚と、誇らしげに嘶きを挙げる。
ジェニウスは厩舎番に、急いで自分の馬をも用意するよう手振りで示しながら、羽ばたこうとする王馬の巨躯の傍らになおもにじり寄った。
「私も共に参ります! ……ですが、疑似天には既にナシェル殿下がおいでになるでしょう! 殿下がおわすならば何も、陛下が御自ら行かれなくとも!」
そうだ、成神したあの王子は今や冥王の分身ともいうべき存在。この冥界は双面の二柱神によって治められているのだ。なにも冥王自らが参ぜずとも、異変とあらば王子が何とかしてくれるだろう。……違うか?
前脚で激しく宙を掻く闇嶺の、手綱をぎりりと締めながら、冥王は妙に静かな眸でジェニウスを見下ろしてきた。
「あれの気配も消えたのだ」
訳がわからず茫然とするジェニウスの前で、馬上の王は静かに白い瞼を閉じる。
確かに先ほど、聞いたのだ。
鎖の千切れる激しい音を!
(……見縊っていたということか? 何者も我らふたりを分かつことはできぬと……)
心の奥底で常に己と半身ナシェルとを繋ぎ、二人を結んでいた『赤い鎖』が、近ごろではもう寸分の撓みもなく極限までぴんと張りつめていたのは、分かっていた。枷に嵌めた片端は自分がしっかりと握っており、もう片端を半身が躊躇いがちに掴んでいる……そうした状況を。
だがその鎖をナシェルが自ら望んで断ち切ることはあるまいと、冥王は常に確信していた。半身に対する己の支配に限りない自信を持っていた。
鎖が千切れる前に必ず向こうが折れ、悪態をつきながらも最終的には拘束を求めてその身を晒し「どうか解けた鎖をきつく巻き直してください」と懇願してくると分かっていた。
二人の精神的距離とは所詮、その鎖の長さ程度のものだと。
しかし、疑似天から感じる異界の気の流れが強まる一方で、急速に萎んでいったのはその半身の神気。
……たとえ遠く離れていても、この冥界にいるかぎり双りは互いの気配を常に感じていた。
たとえ何処にいようとも、ナシェルの己への憎悪や憐愛、神司への欲望といった全ての情緒を、そばにおらずともセダルはひしひしと感じ取ることができていた。
――なのに、それを、今は全く感じなくなった。
ナシェルを繋いでいた目に見えぬ鎖が千切れたと、王は感じた。
何かの瞬間、ぶつり、と派手な音を立てて。
そして光の靄のような虚ろが突如押し寄せ、セダルはたちまち脳裏の半身を見失った。
(父上……)
虚ろなる光の中にあれを見失う瞬間、あれは確かに、己を呼んだ。
胸苦しいほどの渇望を込めた声で。
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