泉界のアリア

佐宗

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第三部 天 獄

29血煙に霞む①

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 冥界軍将軍アシュレイドは三号砦の城崖の上に佇んでいた。
 喉から手が出るほど欲しているものは戦況報告だが、刻一刻を経るごとにそれを伝える伝令の頻度が落ちていく。
 前線の状況は明らかに混迷の度合いを増しているのだろう。
 こちらから斥候を放ったとしても、数十里の距離を往復するあいだに戦況が悪化の一途を辿るとなれば、意味はない。
 しかしそうした予測とは裏腹に、この三号砦は、嵐の前の静けさというべき異様な静寂のただなかにあった。

 紺黒の戎装に身を包み、黙してじっと戦刻を待つアシュレイド将軍の彫深き陰影は、宛ら軍神の石像を思わせ、彼の号令を待つ砦兵たちの、僅かばかりのたのみのよすがとなった。

 彼らは、将軍が濡光の甲冑姿で騎兵部隊を伴い現れたのを見て、頼もしい援軍の到来に胸を撫で下ろした。しかしその反面、事情を知る上級士官らの厳しい表情に、一号砦でいったいどんな凶事が起こったのかと、密かに武器持つ手を慄かせたのも確かであった。

 アシュレイドははじめ黒天馬の騎兵100騎あまりを率いて最外郭の一号砦に直接向かうつもりだったが、途中次々と報告される戦況はあまりに厳しいものと云わざるを得ず、無謀な少数での突入を諦めここ三号砦に本陣を構えたのだ。

 弩手どしゅ(射撃兵)たちは吹き晒しの城崖上、凹凸した見張り窓から大弩クロスボウを上下二段に構え発射命令を待っている。その横には等間隔に並べた数十基の投擲器。その後ろには吐く息すらも整然と、横三列にずらり居並ぶ槍手らが。彼らの長槍の穂先にはナシェル王子の軍であることを示す菫青の揃布が翻る。

 その背後には剣と弓を持つ歩兵等が。……横に長い城崖上にひしめく彼らの間を縫うようにして、声高に士気を鼓舞して回るのは黒天馬の精鋭部隊・黒翼騎士団であった。


 貴重な騎兵はエレボス城と三砦にそれぞれ600騎ずつ配備してある。アシュレイドが城から率いてきたのは100騎、残りは蒼標の団長とともにエレボス城の護りに残してきた。副団長イルファランが疑似天アルカシェルへ連れて行った分もあるので、実質、後背の城の護りは400騎あまり。歩兵2万と合わせても手薄なことには違いない。
 頼みは、やはり神たる主君の到来であった。

 アシュレイドは焦燥を押し殺し、騎兵、歩兵たちをなるべく無表情に眺め渡した。

(もしこれから我々が相対するものが、本当に『神の軍団』だったとしたら……これだけの数で我々に一体、何ができるというのだ? 主君らと同じ、『神』なる異能力者たちを前に……我々は余りに、無力にすぎる)

 これまでの伝令でアシュレイドが得た情報といえば、白い天馬に跨りし白武者十余名、各々おのおのこの世ならぬ閃光を帯びし戎器ぶきをもって砦崖上の兵らを一閃にて薙ぎ倒し、谷間に落ちる兵らの叫声は途切れることなくこだまとなっている―――とのこと。
 あちらにも600騎ほどいるはずの黒翼騎士らは、光の速さで迫り来る天の武者らの前に善戦虚しく馬の翼を手折られて、既に100騎以下にまで打ち減らされていると……。

 一刻おきにもたらされていたその一号砦よりの報告も、先刻よりふっつりと途絶えていた。
 先日押し流されたステュクス河の見張り櫓、その再建工事に携わっていた出張兵、約千名の安否も不明のまま。

 同時に中核たる二号砦からの状況報告は徐々に酷烈さを増しつつあり、その場に居る誰もが、主戦場がすでに一号砦から、よりここに近い二号砦に移っていると悟らざるを得なくなっていた。



(……おそらく、一号砦はもう陥落おちている。歩兵およそ1万、騎兵600……、暗黒界方面軍のおよそ4分の1を失ったに等しい。あの精鋭らが、まさか数時間と持ち堪えること能わぬとは……)

 アシュレイドは峻烈な表情で、吹き荒ぶエレボスの風に耳を澄ませる。おうおうと哭く悲哀の音に混じって、近くなったはずの戦場の剣戟がよもや聞こえて来るまいか、とばかりに。

 今や戦場となりし二号砦はしかし、遙か数十里の彼方。剣戟はおろか鬨の声さえも聞こえるはずはない。ただこの砦を包むは断末魔の悲鳴に似た風唸りばかりで、いくらかそれに、谷間をゆく死者行列の陰気な鎖の音が混じるのみだ。



 アシュレイドの漆黒の眸が、砦の下門を突き刺す。
 痩せさらばえ、足を引きずり、夢うつつな表情で歩んでいく死者たちが見えた。

薄鈍うすのろい死者どもめ。この一大事に呑気な面ばかり晒しやがる……。仕方がないな、もう死んでいるお前らだ、憂いなど何一つないんだろうからな)

 人間の抜け殻たちは、じゃら、じゃら、と手枷足枷の音を響かせながら歩み去っていく。ここから更に冥府へ至る果てしない道のりを、あの鈍歩で行くのか。いったい審判の間に辿り着くまでにあと何年かかるのだ……。正気の沙汰ではない。

 それではと、アシュレイドは精霊達の声に耳を傾ける。

 冥界全域に棲息する二種類の精霊達……死の精と闇の精たちは、冥界の奥地から次々とこの地に集結しつつある。疾風の黒天馬さえも敵わぬ俊敏な動きに加え、夥しい数のため、流星のように彼等の飛び去る様子は宙に黒い錦帯を幾重にも放り投げたようであった。

 彼らは口々に『異邦より来たりし蛮者を押し戻せ、放逐せよ』と怒りの雄叫びを上げていた。
 精霊達がこれほど怒り狂い、戦闘行動を見せているのに、主君ナシェルからは未だ何の連絡もない。
 アシュレイドは唇を噛む。

(なぜ殿下は来てくださらぬ。配下の精霊らの声が、御耳に届いておらぬはずがないだろうに!)

 砦のひとつが(未確認ではあるが恐らく)陥落し、ふたつめの砦もいまや熾戦の只中にある。この状況に及んでもなお、領主から何の沙汰もないというのは明らかにおかしい。もはや、疑似天で何か不測の事態が起こったのだと、アシュレイドも合点せざるを得ない。


 騎士達の挙げるときに応じる、兵らの声。アシュレイドは再び視線を戻す。内心のおののきを隠してか、熾烈な戦いの予感にか、彼等の表情にも声にも、一様に硬さがあった。

 アシュレイドの内心にもまた、迷いがある。
 …『敵』の正体も知らせぬまま、彼等を死線に追い込んでよいのか?
 だが「お前達がこれから対峙するものは神だ」などとご丁寧に事実を告げるのはむしろ彼らにとって残酷に過ぎないか。
 神なる主君たちと同じ種族……。同じ境界内こちらがわに生まれていたとすれば畏敬の対象となるべき存在に、どの刃を向けよと命じればよいのか……。



 風に混じる血臭が濃度を増しているような気がする。
 はたして三途の河から吹き込んでくるこれらには、すでに万もの死兵の血煙が混じっているのだろうか……。

 人間と異なり、彼ら魔族は、死してもあの死者行列に加わることはないらしい。

 アシュレイドはずっと以前、主君に問うてみたことがあるのだ。魔族の死やその後の命運も、貴方がた双神の管轄なのかと。ナシェルは嗤っていた。頬杖をついて肩の上の死精と戯れながら「父上の審判、あれはな、云っておくが適当だぞ。今やそなたでも務まるから一日代ってくれと御璽を押し付けられたことさえあるぐらいだ。アシュレイド、お前も死んだあとあの馬鹿げた行列に並び、父上や私の気分で奈落往きの判を押されたいのか?」などと云って。

 その後主君の匂わせた内容から推察するに、魔族の魂は死したのちおそらく精霊に生まれ変わるのだ。死の精か闇の精かは知らぬが、死して尚この黄泉の世界に留まり、主君にこき使われる運命にあるのだ。それはあるいは魔族からの末永き忠誠に対する、冥王の、最大級の報恩として与えられる幸福な来世なのかもしれないが……。ありがた迷惑な話である。

「……冗談ではないぞ」

 アシュレイドは呟き、鼻を鳴らした。自分が個々の意思なき精霊の一介となって、領主ナシェルのそばを浮遊する様を不意に想像してしまったのだ。死んでまであの無責任王子に侍りつづけるなど、容認し難い宿命である。

  彼は砦壁に置いた手をこぶしに握りしめ、振り返り、兵らに声をかける。

「……お前達の護るべきものは何か、思い浮かべてみよ!お前達の後背にあるものは何だ!
 領主殿下のおわす城だけではない……、ここを破られればあとは一気に敵の侵入を冥府まで許すことになる!
 そうなればお前達の残してきた愛する家族、親しき友ら、多くの同族を死の淵に躙らせるも同然だ。
 都を炎獄ヘレスに変えるか否かはお前達の双肩に懸かっている! この砦を何としても死守せよ!」

 声を張りながらアシュレイド自身も妻子の姿を脳裏に描いていた。イリス、アシュタル。絶対に、あれらを戦火に巻き込むわけにはいかない。

  アシュレイドの下知を得て、兵らの眸からも動揺の色が次第に失せていく。
 「良いか、冥王陛下の国を侵す不届き者等を生かしたまま還すことはならんぞ!」
  アシュレイドの鼓吹に、応、と兵等から力強い声が次々に挙がった。

 その時、兵らの中に、何かに気づいて宙空を指差す者がある。
「おい、あれは……!」

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