103 / 262
第三部 天 獄
28消滅の際に立ち③
しおりを挟む……そのころ。
綺麗な花壇と噴水のある中庭に、ルゥは見知らぬ男とともにいた。
「おいしいかい?」
「……(コクリ)」
不本意ながら、饗された甘い焼き菓子は頬が落ちるほど美味なのであった。
目の前の、高い脚のついた銀皿には到底食べきれないほどに菓子が山盛りになっている。
ルゥは独り占めする覚悟でそれに取りかかっていた。ルゥはまだ気が立っていたので、あえて向かいに座るその男にも菓子を勧めようとは考えなかった。
幼い女神がなにか必死ささえ感じさせる表情で、左右の手に持った焼菓子を交互にむぐむぐと頬張るさまを、テーブルの向こうに座る男は面白そうに観察している。
ルゥも空腹がだいぶ落ち着いてくると、大きな翠色の瞳をぱちぱちと瞬かせながら、相手を負けじと好奇の目で観察した。
目が合うとににっこりとほほ笑んでくるその男は、くせひとつない綺麗な白金色の長髪の上半分を、女性がするように不思議な形に結い上げ、五色に輝く煌びやかな長衣を纏っていた。
瞳は蒼穹のような、澄んだ青。一方向にぴんと揃った長い睫毛に縁どられた奥で、柔和な輝きを放っている。
(きれいなひと……)
しかし長い髪を結っていても、色鮮やかな衣を身に着けていても、決して女性的ではない。穏やかな、まろやかな空気を全身から醸し出しながら、曇りのない青瞳の奥底には、何か人知れぬ剛さと叡智が秘められているように見える。
それが、天王の持つ神気というものなのだとは、幼いルゥにはまだ全然判らないのだった。
焼き菓子を摘んで口に入れるルゥの手は休まることがない。やがて案の定、喉に詰まらせて噎せはじめたところへ、絶妙のタイミングでグラスに注いだ果実水を勧められる。ルゥは奪い取るようにして嚥下した。……そしてやむなく、口を開いた。
「…けほけほ。…あ、ありがと……」
「いいえ、どういたしまして。お腹、落ち着いた?」
男はきらきらと微笑む。まるで餌を食べる様子を眺める飼い主のような笑顔だ。
ルゥはその裏のなさそうな笑顔に、僅かだが心を許してもいいかなと思った。決して、お菓子を振る舞われたからではない。それに、全て心を許すわけではない。この男はきっと、自分や兄や、サリエルをここへ連れてきたあの意地悪そうな兄弟神の、仲間なのだろうから。
「……わたし、ルーシェルミア。あなた、だあれ?」
幼い心は好奇心には勝てず、とうとうルゥは己も名乗りつつ訊いた。
「私はレオンっていうんだよ、ルーシェルミア姫」
「レオン……」
サリエルから聞いたことがある。天上界の王にして、冥王の双子の兄だという。
そう云われてみれば、髪や目の色を除けば、父や兄に、そっくりかもしれない。声も……。
「あなたが、レオン……おじさまなの?」
「おや、伯父さまと呼んでいただけるのかい?嬉しいな。じゃあ私も、姫君のこと、愛称で呼んでもいいかい?」
「……じゃあ、ルゥって呼んで」
「ルゥ。正直なところ、この天上界はどうだい?」
天王は椅子の上で組んだ膝を優雅な仕草で組み替える。その優しい表情が、ナシェルに重なった。みんなを逃がすために闘って、大怪我までした兄のことを、急に思い出した。ナシェルと引き離されてここで独りぼっちでいることを急にルゥは実感し、心細くなり、涙をこらえ唇をぎゅっと引き結んだ。少女の表情が強張ったのを見て、レオンは慌てて宥めようと菓子皿を勧めてくる。
「ああ……そんなに身構えないでいいよ。ほら、もっとお食べ」
「ルゥ、アルカシェルに帰りたい……」
「アルカシェル? それ、どこだい?」
「お花畑。ルゥ専用の。そこにお城があって、サリエルと一緒に住んでたの……。サリエルもあそこに、帰りたいはずよ」
「お花畑? 冥界にも、お花畑があるのかい?」
「うん。ルゥが作ったの。こう、ばあーって感じで。よく覚えてないけど……。その中にいれば明るくて、冥界にいてもへっちゃらなの」
「ほう。なるほど……」
天王は何を合点したのか大きく頷いて見せた。
(この幼い女神が神司で結界を張ったということか。その中にあったためにサリエルは生き延びた、のか……?)
「サリーはどこにいるの? 会わせてくれる?」
「あ、ああ、もちろんだよ。なんだか元気がないみたいなんだ。元気づけてやってくれるかい?」
「元気がないのはヴァニオンと離れ離れにされちゃったからよ! あの赤い髪の悪い奴とかがヴァニオンをいじめて、そんで……!」
突如ルゥが辿々しい口調で猛烈に抗議してきたため、レオンは半ばのけぞって背凭れに身を預けた。
「ヴァニオンとは誰だい?」
「サリエルとヴァニオンは「けっこん」してたのよ! ヴァニオンはにいさまの親友で、サリエルとはすごくすごく仲良しだったんだから。それなのに……。ああ、ヴァニオン、もしかして、死んじゃったのかなあ……」
(ほう。なるほど、結婚……ね。魔族の男か)
「私の甥たちがそのヴァニオンとやらを傷つけたことは、謝ろう。無事だといいが」
「ヴァニオンだけじゃないわ! にいさまもよ! にいさまの傷はルゥがさっきなおしてあげたけど、もうちょっとで死んじゃうとこだったんだからね!」
「そ、そうか。済まなかったね。キミの兄上にもあとで謝りに行かなければね」
「にいさまは、ルゥには優しいけど、キレるとチョーこわいよ。おじさまも、気をつけることね」
ルゥはふんと小さな鼻をならし、賢しげに云い放った。レオンはその様子に、お湯の噴きこぼれる小さな薬缶を想像した。
(……可愛いなあ……。それに、ちょっと面白い子かも)
「……ところで、そのサリエルだけど、私が甥から聞いてるのは、サリエルが天界に帰りたがっていたから冥界を脱出してきたということなんだが。どうやらキミの話を聞いてると、違うようだね。
キミたちは、自分の意志であの冥界から抜け出してきたわけじゃないってことかい」
ルゥは怒気をおさめ、代わりに盛大な溜息をついた。目まぐるしく感情がころころ変わる娘だ。
「そうなの。ルゥもどうしてこんなことになっちゃったんだか、よく分からないの……。サリエルに会って、ちゃんと話をしなくっちゃ」
「そうか。さぞかし早くおうちに帰りたいだろうね」
「うん。そうなの。そうなんだけどね……おじさま、」
ルゥは少し話すのを躊躇って、卓上のグラスの、濡れた表面を指でなぞった。
「さっきはいちおう帰りたいって云ったけど、実はここ……ちょっと居心地いいかも……。だって、疑似天は、狭いんだもん。それに、あんな綺麗な本物の太陽はないし……」
レオンはそんな姪の愛らしい姿を、穏やかに、だが真剣に見つめている。その表情の裏で彼は、冥界との間にどんな交渉を持つべきかと目まぐるしく考えを巡らせていた。
―――この王女とその兄。この二神が闇の神にとってどれほど重要な存在か、レオンは承知している。無論、本来ならば無条件で冥界に返してやるべきだろう。だが、こちら側の若い神々が冥界に侵入したとの情報もある。冥王の出方次第では、この子たちには悪いが、取引材料になってもらわねばならない……。
天王宮の屋根を掠めるようにして、その建物の隙間から雲海に沈んでいくゆく西日が見える。
橙色の耀きを放つそれを眺めながら、ルゥは、遺してきたアルカシェルのこと、兄のこと、サリエルのこと、そして冥界をただ一人で守っている父王のことを、幼い脳裏で順々に思いめぐらせ、その可愛い小さな唇をすぼめて、ふうっと嘆息するのだった。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
602
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる