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第四部 至高の奥園
19水甕に浸され④
しおりを挟む「……余の言う意味が分かるか?」
「父上!」
ナシェルは遮るように悲痛な声を張りあげた。
王の言わんとすることはもう明らかであった。
「もう……父上、やめましょう、そんな話は! もう聞きたくない」
非常に核心的な、しかしあまりに怖ろしいこの会話を終わらせるためならば、ナシェルは今や他のどんな制裁をも甘受する覚悟であった。
「おいおい、はぐらかすな、ごまかすなとそなたが余に散々言ったのではないか。理由を言え、と何度も食い下がるから余は仕方なくこの話をしておるのだよ。
セファニアの消滅の原因はそなたの神司を浴びたことだ。
……そんな事実をそなたに背負わせたくないゆえ、余はひとりで、全てをこの胸にしまっておくつもりであった。
そなたが天上界で死にかけてそのことに気づかなければ、もしかしたらうやむやのままでいられたのかもしれぬが……。今となってはもう遅い」
背凭れにひっついた指を、どうやって離すことができたのか覚えていない。
気がつけばナシェルは両手で顔を覆っていた。
双眸を閉ざしてもまだ父王の眸が彼を、目蓋の奥で貫いていた。
その血赤の眸は暗に、ナシェルにこう尋ねているように見えた。
愛する者を己の神司で死に至らしめた気分はどうだ、と。
まるでナシェルが先刻投げつけた暴言さながらに、父の言わんとする言葉が、無音の室内におんおんと響き渡っているようだった。
「――――ぅああ……――!!」
両手の指の隙間から、ナシェルの、押し殺した苦鳴が洩れた。
王の怜悧な美貌にそのとき浮かんでいたのは、半身のそれと同じ悲哀なのであるが、顔を覆ったまま愕然としているナシェルには、王の心境を察するゆとりなどない。
王の先ほどの言葉が繰り返し、胸奥を刺し貫いていた。
父王は静かに続ける。
「……セフィの死の本当の理由など、深く考えてみれば分かったはずだ。そなたはずっと瘴気のせいなどにして、現実から目を背けていただけだ。
それから、たとえ彼女の死の原因が闇の司であるとそなたが気づいていたとしても、彼女の夫である余の存在があるおかげで、そなたはひとり責任を背負い込まずともよかったはずだ。我々の間に夫婦関係がなかったことを、そなたは知らなかったのだからね。
……そなたはセフィの死を余のせいにしておいてくれて良かったのだよ。それでそなたが罪悪感を感じずに済むのなら……。
余がそなたに隠しておきたかった理由が、これで分かったか?」
王はいばら模様の縫い取られた長衣の袖を揺らして、王子から痛々しげに眼をそらし、あらぬ方を見遣った。
こうして偽悪的に振る舞い終えてしまうと今度は急に、噎びはじめた我が子への憐憫が満ちてきて、王をどうしようもない気分にさせる。
――うまくゆかぬものだ。なぜこの子は、傷つくと分かっているのに自ら進んで剣の前に身を投げるのか。
なぜ、瞳の奥でそんなにも余を求めておきながら、刃向かってくるのか。
そなたの全てを諒解していると余は自負していたが、そなたのそういう所だけは今もって理解できぬ。
そなたの挑発につい乗ってしまったが、 やはり余が手を差し伸べてやらねば駄目なのだな……この子は……。
王は愛に狂った情熱的な眼差しで虚空を睨みあげたまま、ナシェルの動惑が過ぎゆくのをしばらく待っていた。
だがナシェルが会話を交わせる状態になかなか戻らぬので、仕方なく長椅子のふちに腰掛け、彼の手首を掴んだ。
ナシェルは涙の奥から激しい怒りと憎しみと悲しみと畏れの入り混じった複雑な視線を、王に向けた。
「もう聞きたくないなどと勝手なことを抜かすなよ。……話の本質は、ここからだ」
王はそう前置きしてから、持ち上げたナシェルの右手、かじかんだように震える指を両手でさすった。
温もりを移し与えるように。
「死の影の王、」
王は愛おしげに半身のふたつ名を繰り返した。
「ちゃんと余の話を最後まで聞け。王妃の話の続きだ。
そなたにはついひどい言い方をしたが――、セファニアはまるっきり死んだわけではないであろ。
よく思い出してみよ」
ナシェルはまだ狼狽の収まらぬ表情をしている。
「何。…………どういう、こと、です」
「ルゥだよ」
「ルゥ」
言葉を覚えたての赤子のように、ナシェルは繰り返す。
たっぷりと水分を含んだ彼の瞳はまるで、底の見えぬ深い水甕に長いあいだ浸され、今しがた網で掬い上げられたばかりの、蒼い至玉であった。
彼の水甕でもあり、網でもある王は、王子の指に澱んだ甘い息をふきかけながら呟く。
「落ち着いて。話すのが疲れたなら、少し休もう。
指が悴んで震えている。
ちょっと待っておいで……暖炉の火を足そう。でないとそなたは、凍えてしまいそうだ。
もう、そんな風に泣くな。ちゃんと全部、一から話してあげるから。
このままではまるで、余がそなたを虐めているようではないか」
「…………」
最後の言葉に対して、では虐め以外の何だったのだと反論したかったが、ナシェルの唇は戦慄き震えてうまく動かなかった。
泣き濡れた頬を、指で拭われる。
急に態度を変えてきた父を、ナシェルはただ虚ろな表情で見上げていた。
それは力づくで投げ落とされたあとに、哀れみ深くつまみあげられる感覚に似ている。
それを思わず優しさと履きちがえてしまう。――無論そんなのは、錯覚だ。
勘弁してくれ。
私の心を振り戻すために、抱えていた秘密さえ道具にしてしまう王に、優しさなどあるものか。
だがそうした胸中の毒とは裏腹に、明らかにその手管に巻き込まれようとしている己。
優しい言葉を吐いた後、暖炉の方へ歩いてゆく後姿からもう目を離すことのできなくなっている、己がいた。
王の吹きかけた重たい息が、指から全身にじわりと拡がってゆく。
揺りかごのようにナシェルの心を揺らし、包み込んでゆく。
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