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第四部 至高の奥園
18水甕に浸され③
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嘘だ。嘘だ。うそだ――
叫んだ己自身の言葉が、頭の中でまだ反響している。
ぐらりと、視界が一瞬暗転したが、辛うじて椅子の縁を掴んで堪えた。
それでもまだ、天地が逆になったような浮遊感がある。
長椅子の上には冥王の濃い影が落ち、ナシェルの躯を包み込んでいる。
しかしナシェルにとって王の造り出す影はまさに、己を押し潰そうとする、実体のない異様な巨塊であった。
金縛りにあったように躯が動かず、ナシェルはその漆黒のなかから脱することができぬ。王のその大いなる影に意味があるとするならば、それは『もう後戻りはできぬ。逃げることも許さぬよ』という非情な宣告に近いものであろう。
……いま、何と言った?
ナシェルは一語一句、王の台詞を反芻する。簡潔な言葉だったのに、呑み込むのにやけに時間がかかった。頭が、理解することを拒否しているかのようだ。
セファニアと、契ったことはない。
その台詞が真実ならば、ルゥの父親が誰であるかなど王は端から承知のうえで、素知らぬ振りをしていたということだ。
……なぜ? なぜ、そんなことができるのか。
頭の痛いことだが、これまで危うい橋を渡りながら「もしかしたら気づかれているかもしれない」という危機感にむしろ被虐的ともいえる昂揚を感じていたのは、ナシェル自身である。
だが、王の言葉はナシェルに、それすらも忘れさせるほどの激震であった。
途中で裏切りに気づかれるのと、最初から承知されているのとでは雲泥の差だ。
少なくともナシェルにとっては、そうだ。
冥王は、王子の暴言にも冷然と応じる。
「嘘ではない。余はそなたに嘘をついたことは一度もないよ。ただ、そなたを傷つけたくはないから黙っていただけだ」
冥王は肩に落ちかかる黒髪を物憂げに後ろへ掻きやり、ナシェルへ向けてというよりは独り言のように言った。
「……そなたの投げるちっぽけな火種など、余の抱えてきたものに比べたらまだまだだよ」
ナシェルはその間も、続く言葉を探して口をぱくぱく開閉させていた。
あえぎ声のような掠れた音しか出ない。
この不毛な会話をそれ以上続けることを望んでいないにも関わらず、彼は未だ降参できずに己の怒りにしがみついていた。
「……なぜ? それならなおさら、どうして!? ますます分からない! 私がセフィに近づいていると知ってて貴方はなぜ止めなかった? セフィが死んだあとなぜ、それを早く言わなかったんですか」
「そうだな……、そなたの言う通り、さっさとそなたに話せば良かったのか……いや、余はずっとこの件だけは、胸の奥にしまっておくつもりであった。
だがもう、ここまで来てしまった以上、仕方ない。そなたにもうひとつ重大なことを教えてやる。今度のはちゃんと、そなたの質問への答えだよ」
王は怜悧な血赤の双眸でナシェルを絡めとった。
表情は、怒りというより失意に満ちているかのようであった。
ああ――まだ他にも、何か、とんでもないことを、云い出すつもりなのか、この父王は?
ナシェルは長椅子にへばりついたまま固唾を呑んだ。
自分よ、これ以上傷ついてはならぬと脳裏で警鐘が鳴る。これ以上、この常軌を逸した会話を続けてはならぬと。
だが逃げ出したくても体が硬直し、その場を離れることができぬ。
まるで王の影に縫いとめられたように。
「王妃が死んだあとで何故それを言わなかったのか――そなたはそう言ったな?」
「そ……そう、です」
「王妃の死を、そなたひとりの責任にしたくなかったからだよ」
「…………!!?」
またも絶句するナシェルの前で、冥王はすらりとした長身を椅子に預けるでもなく凛として佇んでいる。優美な両腕を交差して、表情は切なげに歪んでいた。
それは半身ナシェルの度重なる挑発に対する憤りのようでもあり、隠しておきたかった事実をとうとう告げねばならなくなってしまったことへの苛立ちのようでもあり、また半身がいま受けている衝撃と傷みに、同情しているかのようでもあった。
冥王はしばらく沈黙していたが、ナシェルが息さえも忘れて慄いている様を見て、やがて溜息まじりに続けた。
「呆けた顔をするな。自分から尋ねておいて」
「…………」
「聞こえたか。セファニアが死んだ理由だよ」
「……セフィが、死んだ、理由」
ナシェルは鸚鵡のように繰り返す。この会話自体が、何処か遠くで行われていることのように感じられていた。
視線を彷徨わせる王子を見て、冥王は不意に身を屈め、その群青の瞳を覗き込んだ。
薄い、感情の乏しい、氷のような表情であった。
「ちゃんとこちらを見なさい。余が話しているのだよ……。
セファニアが何故死んだのか、考えてごらん。分かるはずだよ」
「それは、この冥界の、瘴気のせいで」
ナシェルの声は上ずる。
――やばい、この会話は危険だ。本能がそう叫んでいた。
冥王は優しく、説き伏せるような声色で、
「違うであろう。真実から目を逸らさずよく考えてみよ。
そなたのいうとおり確かに、この冥界の瘴気は彼ら光の神族にとっては、神司を弱める毒気となる。
だが、そなたも天上界に囚われて確信したはずだ。あの世界の空気は我々にとって反吐が出そうなものだが、だからといって天上界に行っただけでは、決して消滅までには至らぬ。逆も然りだ」
「………」
「にも拘らず、そなたは天上界でくたばりかけていたな?……それはいったいなぜだ。
より、そなたを直接死に至らしめる要因となりうるものは何だった?」
「………」
ひく、と肩を竦ませる王子の至近で、冥王の瞳の奥には哀しい色の焔が灯る。
「……さすがに思い出したとみえるな。
問題なのは天上界の大気よりむしろ、光の神司だ。
そなた、それを身をもって味わってきたのであろうが。
ならばセファニアの死の理由もおのずと分かるはずだ」
ナシェルは小刻みに首を振る。
更に言葉を発しようとする父の唇の動きが恐ろしく、眼を閉じ耳を塞ぎたかった。椅子から転げ落ちてでも、そうすべきか迷った。
だが強張った指は椅子の背に貼りついたように、離れない。
ナシェルはとうの昔に己が失策を犯したことに気づいていた。
この常識外れの父神に、己の葛藤を真っ向からぶつけるなど無駄なことだと、なぜ直前で踏み留まらなかったのだろう?
こんな衝撃の事実を告げられるために、ナシェルは抱え込んだ秘密を暴露したわけではない。もう隠し事はできない、正直に謝って、罰して欲しいとただ思ったからだ。
――そして何より葛藤を告げたのは、逆に王にも、己が味わった苦しみを理解して少しは反省して欲しかったからだ。
呼吸を乱しはじめたナシェルの蒼白な貌を、冥王は食い入るように覗き込む。紅の眼差しは同情的な色味を帯びる。
……王子を傷つけることはまったく本意ではないのに、その言葉を発してしまった冥王にももう、すべてを告げる以外の選択肢は残されていなかった。
叫んだ己自身の言葉が、頭の中でまだ反響している。
ぐらりと、視界が一瞬暗転したが、辛うじて椅子の縁を掴んで堪えた。
それでもまだ、天地が逆になったような浮遊感がある。
長椅子の上には冥王の濃い影が落ち、ナシェルの躯を包み込んでいる。
しかしナシェルにとって王の造り出す影はまさに、己を押し潰そうとする、実体のない異様な巨塊であった。
金縛りにあったように躯が動かず、ナシェルはその漆黒のなかから脱することができぬ。王のその大いなる影に意味があるとするならば、それは『もう後戻りはできぬ。逃げることも許さぬよ』という非情な宣告に近いものであろう。
……いま、何と言った?
ナシェルは一語一句、王の台詞を反芻する。簡潔な言葉だったのに、呑み込むのにやけに時間がかかった。頭が、理解することを拒否しているかのようだ。
セファニアと、契ったことはない。
その台詞が真実ならば、ルゥの父親が誰であるかなど王は端から承知のうえで、素知らぬ振りをしていたということだ。
……なぜ? なぜ、そんなことができるのか。
頭の痛いことだが、これまで危うい橋を渡りながら「もしかしたら気づかれているかもしれない」という危機感にむしろ被虐的ともいえる昂揚を感じていたのは、ナシェル自身である。
だが、王の言葉はナシェルに、それすらも忘れさせるほどの激震であった。
途中で裏切りに気づかれるのと、最初から承知されているのとでは雲泥の差だ。
少なくともナシェルにとっては、そうだ。
冥王は、王子の暴言にも冷然と応じる。
「嘘ではない。余はそなたに嘘をついたことは一度もないよ。ただ、そなたを傷つけたくはないから黙っていただけだ」
冥王は肩に落ちかかる黒髪を物憂げに後ろへ掻きやり、ナシェルへ向けてというよりは独り言のように言った。
「……そなたの投げるちっぽけな火種など、余の抱えてきたものに比べたらまだまだだよ」
ナシェルはその間も、続く言葉を探して口をぱくぱく開閉させていた。
あえぎ声のような掠れた音しか出ない。
この不毛な会話をそれ以上続けることを望んでいないにも関わらず、彼は未だ降参できずに己の怒りにしがみついていた。
「……なぜ? それならなおさら、どうして!? ますます分からない! 私がセフィに近づいていると知ってて貴方はなぜ止めなかった? セフィが死んだあとなぜ、それを早く言わなかったんですか」
「そうだな……、そなたの言う通り、さっさとそなたに話せば良かったのか……いや、余はずっとこの件だけは、胸の奥にしまっておくつもりであった。
だがもう、ここまで来てしまった以上、仕方ない。そなたにもうひとつ重大なことを教えてやる。今度のはちゃんと、そなたの質問への答えだよ」
王は怜悧な血赤の双眸でナシェルを絡めとった。
表情は、怒りというより失意に満ちているかのようであった。
ああ――まだ他にも、何か、とんでもないことを、云い出すつもりなのか、この父王は?
ナシェルは長椅子にへばりついたまま固唾を呑んだ。
自分よ、これ以上傷ついてはならぬと脳裏で警鐘が鳴る。これ以上、この常軌を逸した会話を続けてはならぬと。
だが逃げ出したくても体が硬直し、その場を離れることができぬ。
まるで王の影に縫いとめられたように。
「王妃が死んだあとで何故それを言わなかったのか――そなたはそう言ったな?」
「そ……そう、です」
「王妃の死を、そなたひとりの責任にしたくなかったからだよ」
「…………!!?」
またも絶句するナシェルの前で、冥王はすらりとした長身を椅子に預けるでもなく凛として佇んでいる。優美な両腕を交差して、表情は切なげに歪んでいた。
それは半身ナシェルの度重なる挑発に対する憤りのようでもあり、隠しておきたかった事実をとうとう告げねばならなくなってしまったことへの苛立ちのようでもあり、また半身がいま受けている衝撃と傷みに、同情しているかのようでもあった。
冥王はしばらく沈黙していたが、ナシェルが息さえも忘れて慄いている様を見て、やがて溜息まじりに続けた。
「呆けた顔をするな。自分から尋ねておいて」
「…………」
「聞こえたか。セファニアが死んだ理由だよ」
「……セフィが、死んだ、理由」
ナシェルは鸚鵡のように繰り返す。この会話自体が、何処か遠くで行われていることのように感じられていた。
視線を彷徨わせる王子を見て、冥王は不意に身を屈め、その群青の瞳を覗き込んだ。
薄い、感情の乏しい、氷のような表情であった。
「ちゃんとこちらを見なさい。余が話しているのだよ……。
セファニアが何故死んだのか、考えてごらん。分かるはずだよ」
「それは、この冥界の、瘴気のせいで」
ナシェルの声は上ずる。
――やばい、この会話は危険だ。本能がそう叫んでいた。
冥王は優しく、説き伏せるような声色で、
「違うであろう。真実から目を逸らさずよく考えてみよ。
そなたのいうとおり確かに、この冥界の瘴気は彼ら光の神族にとっては、神司を弱める毒気となる。
だが、そなたも天上界に囚われて確信したはずだ。あの世界の空気は我々にとって反吐が出そうなものだが、だからといって天上界に行っただけでは、決して消滅までには至らぬ。逆も然りだ」
「………」
「にも拘らず、そなたは天上界でくたばりかけていたな?……それはいったいなぜだ。
より、そなたを直接死に至らしめる要因となりうるものは何だった?」
「………」
ひく、と肩を竦ませる王子の至近で、冥王の瞳の奥には哀しい色の焔が灯る。
「……さすがに思い出したとみえるな。
問題なのは天上界の大気よりむしろ、光の神司だ。
そなた、それを身をもって味わってきたのであろうが。
ならばセファニアの死の理由もおのずと分かるはずだ」
ナシェルは小刻みに首を振る。
更に言葉を発しようとする父の唇の動きが恐ろしく、眼を閉じ耳を塞ぎたかった。椅子から転げ落ちてでも、そうすべきか迷った。
だが強張った指は椅子の背に貼りついたように、離れない。
ナシェルはとうの昔に己が失策を犯したことに気づいていた。
この常識外れの父神に、己の葛藤を真っ向からぶつけるなど無駄なことだと、なぜ直前で踏み留まらなかったのだろう?
こんな衝撃の事実を告げられるために、ナシェルは抱え込んだ秘密を暴露したわけではない。もう隠し事はできない、正直に謝って、罰して欲しいとただ思ったからだ。
――そして何より葛藤を告げたのは、逆に王にも、己が味わった苦しみを理解して少しは反省して欲しかったからだ。
呼吸を乱しはじめたナシェルの蒼白な貌を、冥王は食い入るように覗き込む。紅の眼差しは同情的な色味を帯びる。
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