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第四部 至高の奥園
17水甕に浸され②
ナシェルはとうとう声を沈ませながらその葛藤を父にぶつけはじめた。
「……私の苦しみの元凶である貴方が、よく『苦しみから遠ざけていたかった』なんて台詞が云えますね。
子供だった私を貴方が抱いたあの日から、私の苦しみは始まっていたんです。最近どうこうという話じゃない。
私は貴方を、幼い頃のようにずっと信じ続けていたかった。父親として……。
ですが貴方は私をまるで奴隷のように扱ったじゃないか。いつも神司をちらつかせて私が逆らえないのをいいことに、貴方は私を、……堕落させた」
冥王は軽く薄目をあけ、紅の瞳でナシェルを捉えた。
「……あのね。必要以上に不幸ぶるのはよしなさい。確かにそのときから余とそなたの関係は単なる父と子ではなくなった。それをそなたはさも純潔を失ったかのように悲観的に捉えているようだが、そなたは余から、それを上回る対価をたっぷり受け取ったではないか?
神司という馳走を……。行為を重ねれば重ねるほど己の神格が上がってゆく感じが、そなた自身はっきりと感じられていたはずだよ」
「……失ったもの以上にいいものをあげたのだから今さら騒ぎ立てるなと? …やはりそれが貴方の本心ですか。
……はじめから私が頼んで受け取ったんじゃない。貴方が何も知らない無垢な私に神司を押しつけ中毒にさせたんでしょうが、無理矢理に……!
それに、失ったものと受け取ったそれの価値の大きさを量っていいのは私だけです。どれだけ大事なものを貴方に奪われたか、それは私にしか分からない。恩着せがましく大きな対価などと、父上が言う権利はないでしょう?
私を苦しみから遠ざけていたかった、と仰いましたが、残念ながらまるで失敗ですね、私はずっと苦しんでいたんです!」
「……ナシェル、少し落ち着け。そなたと今そんなことで言い争うのは本望ではない。寝台に行くのが嫌ならせめてそこの長椅子に座れ。そなた、顔が蒼白ではないか」
ナシェルは飾り棚に置いた手を握り締める。
「ほら、すぐそうやって話を逸らす! いつまでも私を子供みたいに適当にあしらうのはやめてください。貴方になにか本質的な問いをぶつけても貴方はいつもそうやって躱してばかりだ。
貴方にとってはそんなことかもしれないが、私にとっては重大なことなんです。だからこそ私は、私をこんな風にした貴方に、衝撃を与えてみたかったんだ。
……さっきの話に戻りますが、貴方が気づかぬふりをしていたのは、……それはご自分が傷つくのが怖かったからではないんですか?
私と、セファニアとに、同時に裏切られていたことを認めることになるから……だから私の嘘をいつまでも指摘しなかった?
そうでしょう? 違いますか?」
ナシェルはまくし立てたあとに酸欠と眩暈を覚え、ぜいぜいと肩で息をする。
「……違うよ」
冥王は眉間に皺を刻み、深く息を吐いた。
「……とにかく少し落ち着けと言っておる。ナシェル、それ以上の無礼な物言いは、さすがの余も許さぬぞ」
「へえ、 ああ、ありがたいことだ。貴方は私の非礼をまだ、許して下さる気があるのですか。
だけど許しても許さなくても、どうせ貴方がやることは同じじゃないか! 私をこれから抱くんだろ!
だったら別に許しなんか貰わなくても、質問に答えてくれればそれでいい。
父上、はぐらかさないでちゃんと答えてください。なんで黙っていたんですか!」
冥王は赤い双眸をまっすぐにナシェルに注いだ。冷たい視線に射すくめられ、父の怒りにとうとう火をつけたことをナシェルは悟ったが、怯むまいと念じて真っ向から対峙した。
対峙、というにはあまりにも足元がふらついていたが、胸の裡にあった葛藤を父に告げてからはもう引くに引けなくなっていた。
王はナシェルにつられて声を荒げるということはなく、極力抑えた声色でため息まじりに云った。
「……そなたを思ってのことだ」
「……私のため? だから、私の嘘と小細工に付きあうことが、なぜ私のためになるんですか。全然ためになんかならない!
貴方が、傷つくのが怖くて黙っていたんじゃないとしたら、なぜ!? なぜ、気づかぬふりなどしていたんです。なぜ私のためなんて恩着せがましい言葉が出てくるんです。
ちゃんと分かるように説明してもらいましょう!」
冥王の手が不意にぐっと伸びて、ナシェルの顎を捉えた。指で両頬を潰されるようにして、口をふさがれる。
「む、ぐ……」
「口の利き方に気を付けろと言ったであろう。
雛鳥みたいにぴいぴい騒ぎ立ておって」
王の声は一段と低くなっていた。
「……いいだろう。そんなに真実が知りたいなら、そなたにとっておきの秘密を教えてやる。聞いたことをあとで後悔しても知らぬぞ」
そう前置きしてから王はナシェルを放した。
咳き込んでよろけるナシェルを見て、その腕をぐいと掴み、部屋の中央にある応接椅子まで引きずっていく。そこでまたぽいと放り出した。
ナシェルは長椅子の上に投げ出され、ふらふらと視線を上げた。
「ごほごほ、だ……誰が、雛こ…」
椅子の前に立つ冥王は冷然と己の腕を組みナシェルを見下ろした。
「……そなたを傷つけるのは全くもって余の本意ではないが、そなたがそこまで言うのなら仕方ない。教えてやる。
……まず、余はな、セファニアと契ったことはない。
一度たりともだよ」
「―――!!??」
潰れた蛙のような奇妙な音が己の喉から漏れる。
脳天を叩き割られんばかりの衝撃であった。
「う、う、」
ナシェルは言葉を喉に詰まらせながら叫んだ。
「―――嘘だ!!」
半身の、絶望的な眼差しを受けて佇む王は、この世ならぬ凄艶な美貌の奥に幽かに、哀しみと憐れみらしきものを浮かべていた。
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