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第四部 至高の奥園
20冥府神の系譜①
触れられた頬に、まだ王の指の感触が残っている。
王が離れていくと同時にあの覆い尽くさんばかりの濃い影は消えて、呼吸がいくらか落ちついた気がした。
暖炉に向かう王の背を、ナシェルはしばらく呆けたように見つめていた。
王の思惑を測りかねるのは今に始まったことではない。
……それなのにまたも心は、王の揺さぶりに屈して右往左往する。
その気紛れが、憎い。
冷徹な弄びのあと与えられるこうした慈しみが憎い――全て王の手管と判っているのに、揺り動かされてしまう己の心も。
気づけばいつも術中に嵌まっている。
そうだ。
嵌まっていると知りつつこの泥沼から本気で抜け出せなかったのは、
分かつことのできぬ親子の絆のせいなどではなく。
王の纏う冷酷な薄氷と燃え盛る融熱、このあやうい温度差に何度となく魅せられてきたからだ。
自分が凍えていることに、そのときようやく気がついた。全身から血の気が引いて、指先の震えがとまらなくなっている。
ナシェルは王から得た温もりを逃さぬように、指を握り込んでみる。
意固地になろうとするのと同じ比重で、王の吹きかけたあのぬくもりを、もう一度得たいと希む心があった。
王よ。
私以上に私のことを理解しているというのか、貴方は―――私でさえ気づかなかった私の凍えをいま、見抜いたように、言葉に出さぬ私の内面の全てを知っているというのか。
逆に私は貴方のうわべの言葉や、浴びせられる愛のすべてに振り回されて、貴方のことが今でも分からないままだというのに――
貴方はずるい。私を見抜くばかりで、私には何一つ見抜かせない。
合わせ鏡のような我々であるのに、そこには絶望的な差が横たわっている。とても敵わない。貴方に、敵うはずがない……。
「――少しは落ち着いたか?」
冥王は暖炉の火を入れて戻って来た。ナシェルがまだ身動きひとつとれぬと判ると、傍らに腰掛けて来て、優美な手を上向きに差し出す。まるであやすような柔らかい口調で、
「おいで」
と彼を呼び寄せた。傷ついた獣を手当しようと宥めるような、さりげない仕草だった。
――それでもナシェルが逡巡をみせると、王はとうとう手を伸ばして彼の腕を掴み、引き寄せる。
半病人のようなナシェルには抵抗する余力もない。王の腕の中に忽ち囚われた。
「―――ずるいです、貴方は」
両頬を挟まれ、至近にあたたかい王の吐息を浴びながら、ナシェルは今度は言葉を選んで抗議する。
「まだ貴方は私の全ての質問に、答えておられないではないですか……」
なのにこんな、優しい振りだけをしてみせる。話を途中で切り上げて、抱擁の罠にいとも簡単に落とそうとする。
ナシェルは手元に残された片意地という最後の仮面で、表情を隠した。
今欲しいのは温もりなどではなく、疑問への回答だ……己にそう言い聞かせるようにして。
「そうだね……。まだ話さなければならないことが残っているよ。
でもどうしたら、そなたは余の一語一語に逆上したり悲嘆したりせずに、余の話の本当の意味を受け止めてくれるのだろう……?
余には、それが分からなくなってしまったよ。そなたは少し興奮しすぎていたからね」
冥王は穏やかに息を吐き、長い睫毛にふちどられた瞼をことさらゆっくりと動かして、哀しげにひと瞬きした。
「――もしかすると、初めからこうしておれば良かったのかな……そなたの心を溶かすために……」
そして長い指を閃かせたかと思うや、ナシェルの顎をつと持ち上げ――覆いかぶさるように上から、唇を吸いあげた。
「――ん……」
ナシェルの胸の裡ではその途端、薄ぺらな意地が、ばらばらと音を立てて剥がれ落ちてゆく。
一瞬で目の前の世界が拓け、満ち足りた快楽にいざなわれる。
「ん…………、」
情欲の迸りが、ぽっと身の内に火照りはじめていた。
しかし王の口づけはいつになく控え目で、ナシェルが幾ら待っても舌先さえ滑り込んで来ない。
下唇を揉むように甘噛むだけ。
――瞬時に、もっと激しいものを期待しはじめている己に気づく。もっと。もっと――
王はやがて唇を離し、甘い余韻にぼうっと浸るナシェルの顔を覗き込んだ。
「――余の話を最後まで、落ち着いて聞く気になったか」
「……ちゃんと一から全て……話してくださる気があるのですか」
囚え囚われたまま、至近に見つめ合う。
「……残りは伽の後で、などというのは反則です。その手には乗らない……」
なけなしの意地を掻き集めて武装したような言葉にも、冥王は大人らしく微笑みで返すだけだった。もう簡単に挑発に乗ってきたりはしない。
「――良かろう。話の続きが聞きたいのだね。どこまで話したのだったかな」
「ルゥの名が……出たところです」
王はナシェルの躯を自分の方へ寄りかからせ、頷く。半身の黒髪のひと房を指でつまみ、人差し指に絡めながら話し始めた。
「そうであったな。
セファニアの肉体は確かに滅びたが、まるきり死んだわけではない。
ルゥはセファニアの転生体だ。それは、そなたも存じているだろう」
「……ええ」
「神司を受け継いだだけでなく、ルゥの中には今やセファニアの記憶も宿っておる。彼女は天上界で、母の記憶を取り戻すことができたと云っていたからな」
「セフィの記憶を?」
「ああ。天上界に行ったことが触発剤となったらしい。そなたらが囚われたことは、あながち無駄ばかりでもなかったわけだ……」
ナシェルを見下ろす冥王の眼差しには一瞬かすかに、皮肉がこもる。
「……とにかくあの子にはセファニアの記憶がある。あくまでも表層意識はルゥのままだが、セファニアの魂はルゥにちゃんと受け継がれているのだよ。
余はついそなたに酷い云い方をしてしまったが――、セファニアはどうしてもルーシェルミアの体に転生する必要があった。我々にはルゥが必要だったのだ。そなたは、セファニアを滅ぼすと同時にルゥへと転生させた」
「転生させた?」
「そなた、セファニアから聞いたことはないか? 『冥界の血を入れて、より強い体に生まれ変わる』のだと」
「――あ、」
ナシェルは声を洩らす。
そうだ。その話ならば直接、生前の継母から聞いたことがある。
「セファニアとルーシェルミア、神の性質としてほとんど同じものであるあの母娘だが、そこには決定的な差がある。純血の天上神か、天冥の混血か、という違いだ。
純血の天上神ではこの世界に適応できぬ。だが混血ならばどうだ?
セファニアは混血種のルゥに生まれ変わることでより強い生命体となった。この冥界のために、そうせざるを得なかった」
「この冥界のため? 冥界で生き延びるため、という意味ですか?……しかしそもそもどうしてその相手が、私なのですか。父上ではなく……彼女は、あなたの妻だったというのに」
「セファニアを迎えた時点では、余もこうなるとは思っていなかった。
余との間に娘をもうけて、そなたと番わせようと思っていた。
だが……セファニアは、転生するためにせよ、そなたを選んだ」
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