泉界のアリア

佐宗

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番外編

親愛なる者へ①

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 反り上がった船底の竜骨りゅうこつが、飛沫もたてず湖水を割ってゆく。

 進水したばかりの冥王の新しい舟は、地上テベルの夜空に浮かぶ弦月もかくやというほど華奢で、雅びやかな造りであった。

 舟は魔獣界の半妖・矮人ドワーフ族による細工である。
 彼らは類稀なる名匠だ。

 彼らの手による緻密で繊細な装身具は、王と王の半身を盛飾するにしばしば必要不可欠で、それゆえに彼らは矮躯わいくの卑しき小部族なれど王の手厚い保護を受け、冥界中に、王宮御用達の匠としてその名を知られていた。

 冥王の半身、つまりかの『死の神』が生まれた折りには、対をなす二振りの剣を炎獄界ヘレスの火山の焔で鍛えて冥王に献上したことも広く聞こえている。それは刀鍛冶としても知られる彼らからの王への感謝、王子への祝賀、忠誠の証たる奉供物であった。
 つまり冥王の神剣<紅血の断罪ノルフェルト>、王子の神剣<蒼眸の慈悲エイルニル>である。どちらも矮人族の言語の名だ。

 地上テベルで人界が栄枯盛衰を重ねる幾数世の間じゅうずっと、その細らかな二振りは神々の腰を彩り、悪逆の瘴魔たちを調伏するのに用いられ続けてきた。冥王の息吹にて洗礼されているとはいえ、長い愛用に耐えてこれまで一度として刃がかけることはなかったから、その造りの精巧さ強堅さは正真といえよう。


 …さて湖水を往く舟は、それほどの名工の手によるものであるから、非の打ちどころのない美的装飾に溢れた、まこと定命の民にてはどうあっても生み出せぬ逸品である。

 舷墻、手擦、船首に至るまで全てがなめらかな曲線を描き、直線の部分は一つとしてない。にも関わらず完璧な左右対称を成し、先細りの舳先で乙女の像が抱える燈籠ランタンの灯りの下、真白の船体は時折不思議な七色に光るのである。
 櫂なくとも乗り手の意に応じてゆるやかに水面を滑るよう、水乙女の加護も施されていた。
 天鵞絨びろうどのクッションが舟底に敷き詰められ坐り心地も良い。
 王はその豪奢な舟を、ただ離宮の畔で舟戯びに興じる僅かな時間のために矮人族に精を凝らして造らせ、前に使っていた白鳥の舟は(それも三界のうちに二つとない秀作で、まだ傷ひとつなかったのだが)、幻霧界の領主ヴィラール公爵にあっさりと下げ与えてしまった。

 冥王は気紛れでつねづね新しいものを好む。家臣の冥界貴族の歴々は皆なにかしら、王から下げ賜った調度品だの馬具だの武具だのを家宝にしている。それらの多くが矮躯の民による細工である。

 だが幾ら王が奢侈しゃしに耽ろうとも、冥界中の洞穴から奴隷たちによって掘り出される『金銀玉石』の類はそれを上回る膨大さであるため、王の宝物庫は永久、目減りという言葉を覚えぬのである。




 王の舟の上には優美な二人の来客の姿がある。

「知りませんでした。冥界にも……このように雅な場所があったのですね」

 銀灰の髪の若者は、水音ひとつ立てぬ舟の上から湖面を覗いて、浮かんでいた黒水連の花をそっと指で弾いた。中性的な柔らかな肌を、萌木色の衣で包んでいる。冥界の住人としてはやや異質の色彩である。

 彼は燈籠の揺れる灯りが水面に落ちて輝く様を、「まるで湖面を月の光が照らしているよう」と歓んだ。
 かつて月神一族の末端に身を置いていた彼だからこそ擁く感想だろう。

「こんな穏やかな場所は冥界でも数少ない。だからこそ、ここは陛下の最たる気に入りの離宮なのさ」

 向き合い、そう応えるほうの男は黒衣に黒髪黒眼。明るく垢抜けた風貌ではるが生粋の魔族である。鼻梁の彫りは深く、眼のふちは剣の如く切れ長、千尋の底の民としてもこれほど際立った者はおるまいと思わせる容貌をしていた。背は白柳の如く高く、この上なく均整のとれた引き締まった体躯を有する。
 黒衣の上から羽織る緋色の裏打ち鮮やかなマントは、彼が炎獄界を領有する公爵家の嫡子であることを示している。

「冥界の善い所を巡る旅に出よう、サリエル。
 俺達の、巧く行かなかったこれまでの時間を埋め戻すために、旅に出て、四六時中二人きりで居よう。見せたい場所がたくさんあるんだ。ここにも引けを取らない場所が……」

 熱く饒舌になる青年を、サリエルは穏やかな苦笑でいさめた。

「ヴァニオン様。いくら私の病が癒えたとて、そんなに長い旅は無理ですよ。姫さまから『疑似天アルカシェルをよろしく』と任されているのですから……」

「あのなまったるいお花畑なんざ、少しぐらい留守にしたって別に何も起こりゃしないさ。あれを見てみろよ。俺たちよりももっと責任重大だってのに、ありゃまたしばらく、自分たちの城になんぞ帰る気は毛頭無しだぜ」

 ヴァニオンは背を舟べりに預け、桟橋の奥の離宮に目を向けた。千年樹の下の開け放たれた窓辺では、彼の乳兄弟でもある主君が、窓のふちに手を置いてその伴侶と何か語らっている。伴侶…つまり、この舟の持ち主の、あの幸福そうな眼差しを見よ。

「ヴァニオン様、おふたりに失礼ですよ」
 サリエルは苦笑混じりに、しぃ……っと指を立てた。


 冥王は家臣に己の幸福を分け与えることを惜しまぬ。このときは、舟の完成を祝って『進水式』と銘打ち、親しい家臣のみをこの幻霧界の離宮に呼び集めて穏やかな祝宴を催した。
 湖面にたゆたう舟を眺めつつ王が直々に公爵たちを持て成し、張り出しのテラスで共に飲食し、上機嫌の王は最初にその新しい舟で湛水に漕ぎ出す名誉ほまれさえも、臣下に下げ渡してしまった。

 その栄誉を思いがけず得たのが炎獄界の後継者ヴァニオン卿と、その愛人のサリエルだった。

 何のことはない……、結局のところ
「進水式? 面倒くさい。私は忙しい」

などといって来るのを渋っていたナシェルがやっぱり気心を変え、宴の最後の最後で姿を現したために、冥王の関心が舟から恋人のほうに早々に移ってしまっただけのことだ。

 王子に執心の冥王と、舟の上で幻想的に語り合う恋人たちに熱気をあてられて、ほろ酔いの公爵たちもさすがにそれ以上の長居は忍びなくなったのであろう、ぽつぽつと席を辞していった。

 王が進水式にサリエルを呼び、真っ先にヴァニオンとともに舟にのせてしまったのは、同じように『天を捨てた堕神』としての友誼のほかにも、彼をヴァニオンの相手として遇するという王意の暗黙の顕われであった。

 息子の良縁を諦めておらぬヴェルキウス公ジェニウスは終始複雑な表情であったが、そうした明らかな王意を得ては退かざるを得ず、他の公爵に愚痴り、慰められながらの退出となった。或いは冥王からとくに宣下がなければ炎獄界の後継のことも再考するつもりかもしれぬが、それはそれで良いとヴァニオン自身は思うのである。元来からしがらみに縛られぬ、気楽な身の上を愛する性質なのだから。

 ヴァニオンの視線の先では冥王とナシェルが、離宮の窓辺で距離を縮めている。どんな言葉で籠絡されたものか、抱擁を受け入れるナシェルの伏し目がちな美貌の奥には淫靡な、王の愛欲の汀への崇敬が色づいている。

(…結局逢いたいなら初めから来りゃいいのに。相変わらず素直じゃねえのな、あいつ)

 それでも自分たちの視線があるなかで堂々と抱擁を交わし合えるようになっただけでも、大した進歩だろう。
 双子のような神々は互いの唇を求めて貌を寄せ合う。舟上の客のことなど、お構いなしのご様子だ。

 ヴァニオンは苦笑とともに肩を竦め、離宮の窓辺から自分の恋人へ視線を戻した。
 鳥琴を手にしたサリエルは舟ごと幽かに揺蕩たゆたいつつ、ヴァニオンを見つめ、たおやかな微笑みを浮かべた。

 ――ナシェルも類まれな容貌の美神であるが、普段はいささか険が強い。気心の知れた友人ヴァニオンに対してなどその態度の大きさは尚更だ。
 ヴァニオンにとっては、このサリエルの脆弱もろそうな儚げな姿こそが、自分の求めていた究極の美のように思えてならない。

 サリエルはヴァニオンの燃えるような眼差しを受けたまま、鳥琴の弦を指ではじいて調弦した。
 彼の胸元には『小さき女神』から託された蒼玉の首飾りが、光っていた。


 王女の首飾り、それはサリエルを守るためにルゥが彼に託した、即席の命綱である。即席とはいえ幼き女神の込めた神司は絶大で、サリエルは冥界のどこに居てももう前のように病むことはなかった。こうして幻霧の森に遊べるのもそのせいだ。

 それどころか、王女が従えていた命の精たちが、首飾りの神司に導かれて、サリエルをかりそめの主として従いさえするのである。思いがけぬ効果はそれだけに及ばず、ヴァニオンとサリエルのもどかしかった関係にも新たな一歩を踏み出させてくれた。

 サリエルは<炎獄界ヘレス>と、<疑似天アルカシェル>以外の冥界をほとんど知らぬ。
 疑似天は小さき女神が造り出した虚構の花園にすぎないので、これは厳密にいえば冥界の一部というには難がある。そしてもう片方の炎獄界は……数百年にわたる監禁と二人の確執の地、サリエルを死の寸前まで追いやった瘴気の地であった。

 その首飾りがサリエルを護っている今、ヴァニオンはこれまでの埋め合わせをするつもりでサリエルを連れ、冥界の各所をのんびり巡る旅をするのも良いと考えていた。魔獣界、氷獣界、奈落門など危険の多い小世界を避けさえすれば、それなりにこの暗欝の地とて見るべきものも多々あるのだ。
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