泉界のアリア

佐宗

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番外編

親愛なる者へ②

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「ヴァニオン様。貴方が下さったこの鳥琴、とても深い音色です。それに手に吸いつくように馴染む……。きっと冥界に二人といない名工の手によるものなのでしょうね、こんな素晴らしいものを……本当に頂いてもよろしいのですか」

 弦から放たれる音の柔らかさに目を細めつつ、サリエルはおずおずと尋ねた。

 彼は何も持たざる身でヴァニオンの元に嫁いできた。ヴァニオンの贅を凝らした贈り物は自分への気持ちの表れとして嬉しいことこの上ないのだが、サリエルには何かを返そうとしても、何も贈るべきものが、ないのである。サリエルはその命とて、冥王やナシェルやルゥといった『こちら側の神々』によって温情深く救われ続けてきた。そうして生き長らえた命のほかには、何も持たぬ堕神なのだ。

鳥琴リュートの値打ちのことを云っているのか?そんなのは、お前の気にすることじゃないさ。確かにその鳥琴はこの舟と同じ矮人ドワーフ族の、王宮付きの楽器職人にねじ込んで拵えさせたものだが、お前に値段を心配されるぐらい公爵家が金に困ってると思うか?」
「いえ、そんなことはありませんけれど……。こんな素晴らしい贈り物を頂いても、私には何も御返しできないのが心苦しくて……」
「サリエル、」

 目を伏せたサリエルは、鳥琴の上に置いた細指を掴まれて顔を上げた。
 身を乗り出して彼の手を取ったヴァニオンは、そのままその華奢な指に長々と口づけを落とす。

「サリエル。お前の俺への贈り物は、その手琴の音色だけでいい。……いや、お前がこの指で爪弾く音色こそが、何よりも勝る俺への返礼なのさ。かたちのあるものだけが贈り物じゃない」
「ヴァニオン様……」
 サリエルは口づけられた指をうっとりと眺め、嬉しそうに頬を染めた。

「それからさ、サリエル。その『ヴァニオン様』っていうの、やめにしないか。俺とお前の関係は、もう昔のままじゃない。今さらだろうけどさ、俺のことは呼び捨てでいい」
「え……」
 サリエルは思ってもみなかった様子で驚きの表情を浮かべたが、やがて俯きがちに確かめるように繰り返した。
 「はい……ヴァニオンさ……、ヴァニオン……」
「サリエル。俺は、またお前の弾く鳥琴の音色が聴きたい。そう思っただけなんだ。
 今度は天上界を懐かしんで奏でる曲ではなく……此処にこうして二人でいられる幸せを、音にしてくれないか」

 かつて天上界で手琴の名手であったサリエル。まだ囚われて間もなき頃、彼が故郷や天王を懐かしんで奏でていた哀しみの旋律を、妬心に狂いながら扉越しに聞いていたのがヴァニオンである。
 やがて病篤に陥り奏する力さえも失い、それ以来サリエルは、疑似天に居を得たあとでさえ楽器を手にすることはなかった。もう昔のように奏でることはできぬだろうからと、音楽そのものを諦めていた。

 でも、長い長い艱難を経て、ようやく今訪れた二人の穏やかな刻……。
 それを彩るのに相応しい、幽玄な森の湖の風景がある。舟上という雅な舞台さえも与えられている。
 ならばもう一度……ここから、初心で音楽をはじめてみるのも良い。
 もうこれからは、かつてのような過去への憧憬の調べではなく。
 この先絶え間なく咲き初め続ける貴方への愛と……共存への歓喜を、奏でてゆこう。

 死の淵にあった自分にもう一度命を与えてくれたルゥと。
 疑似天に招きいれ、命をかけて自分を護ろうとしてくれたナシェルと。
 そしてもう一度ヴァニオンと共に生きることを許してくれた冥王に…。

 深い感謝を胸に秘めつつ、サリエルは頷いた。

「はい……ヴァニオン。でも大分腕が鈍ってしまいましたから、また昔のように弾けるようになるには、しばらく練習が必要ですけれど……」

 サリエルは謙遜しながらも調弦を終え、穏やかな旋律を奏で始めた。
 手にした名器のせいなのか、それとも彼の体が健やかだからなのか、昔に聞いていたあの物哀しげな曲よりもずっと、音色が良いように思える。

 ヴァニオンは舟べりに腕をかけて寛ぎ、愛の調べに聴き入った。



 湖水を打って響き渡る優渥な音色に導かれ、湖の下からはわらわらと水妖たちが現れ出でる。白蒼色の躯、ぎょろりとした円い眸……一見には異様な魔物だが、この湖を棲み処とする害なきもののけの類だ。

 水妖らは手掻きのついた節くれだった指で舟べりをぺたぺたと掴み、湖面にのっぺりした顔をのぞかせて、音色の主を見ようと舟上を仰ぐ。

『冥王様ではないよ』『世継ぎの若様でもない』『ではこの美しい神さまは誰?』

 不思議そうに首を傾げる愛らしい妖たちに、舟上の恋人達は柔和な視線を投げる。ヴァニオンが戯れに、湖面すれすれに手をかざすと、水妖たちは吃驚びっくりしてちゃぷん……と、水の奥へ消えて行った。

 サリエルは音色に合わせ、即興歌を紡ぐ。


  舞い降りたひとすじの舟灯があなたの瞳を照らし
  私はその眸の奥に黒々とした輝きを見出す
  そこにただよう闇はよこしまならずして澄み冴え
  私の呼吸いきを和ませる。

  星光ほしかげなきこの夜半よわの泉、
  岸辺の黒薔薇くろそうびはかぐわしく
  遠近おちこちの睡蓮はたまゆらに揺れ
  わたしとあなたとの、調和のあしたを匂わせる。
  わたしは想いにあふれて、曇りのない心で
  あなたの腕のかげにふす歓びを、
  この水辺の花々に謳って聞かせよう……




◇◇◇




「ああ。サリエルが……唄っている」
 ナシェルは貌を上げ、開け放った窓から視線を湖に送った。

 闇の帳に覆われた湖のうちでは、燈籠ランタンの仄灯りに照らされたサリエルの萌木の衣だけが唯一の色彩だ。

「美しき声だ。手琴の名手であったとは聞き及んでいたが、唄もなかなかのものぞ」
 王もサリエルの歌声をそう誉め讃えた。

「手琴の腕もなるほど、そなたと同等と言ってよいようだ」
「……よく聴いてあげてください。私などより遙かに巧みだ。貴方は私を、買い被りすぎです」

 何でも我が子を一番と思っている様子の父王を、ナシェルは軽く目を眇めて睨んだ。


(続)
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