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番外編
かけがえのない日々④
しおりを挟むやがて、疲れ果てて虚脱したナシェルは抱きかかえられ、口うつしに気付けの薬酒を与えられた。
強い刺激が喉をひりりと驚かせ、放心していた意識が浮上してくる。
「……大丈夫かナシェル?」
気がつけば王がナシェルの黒髪の間に指を埋め、両瞳をのぞき込んできていた。
ええ、大丈夫、とナシェルは心地よい倦怠感に満たされながら答え、王の懐に身を投げる。脇の窪みにすっぽりと頭が収まって、とても居心地がよい。
精霊たちはいつの間にかいなくなり、体には王の長い部屋着が掛けられていた。
ナシェルは涙でごわついた睫毛を王の部屋着の袂で拭った。最初から最後まですべてが素晴らしかったのに、なぜ涙を流していたのかは全然、よく分からない。
……体の奥底に、王から与えられた愛が強く息衝いて、自分の神司と混ざり合い、新しい力となって脈動しているのが感じられた。もうナシェルの肉体ひとつには収まりきらないほどの強い奔流だった。いつも交わったあとに感じるその瑞々しい“力が生まれる”感覚が、今宵はとくに研ぎ澄まされている。
こんなにも深い愛の力に満たされた自分は、おそらく今、三界のうちでもっとも強くて幸福な生き物だとナシェルは思った。勝てない敵はないような圧倒的な自信を感じる。万物を虚無に呑み込み、神さえも助からぬと言われるあの奈落の向こうさえつぶさに探検してしまえるような気がした。しないけれど。
ナシェルはどうにかして王に今の想いを伝えたいと思ったが、なかなか上手い言葉が見つからない。気持ちを伝えるためにあるこの世の全ての言語のうちナシェルが知っている言葉はどれも、心の中に並べてみるとあまりにも古めかしくて陳腐だった。
ナシェルは黄泉の言語と神々の言語を操る。それ以外に数百の妖魔の言葉と、精霊語も話せる。人間たちの言語もいくつかは。けれどその中に、冥王へ伝えたい気持ちを表すのに適切な語彙は見当たらないのだ。
このあと蔵書庫へ行って新しい言語を勉強しなきゃいけない、とナシェルは思った。
これから覚える言語の中になら存在するだろうか。貴方への、さまざまな想いをひとつにして表わすのに的確な言葉が。
「…どうしたの、やけに黙り込んでいるね?」
王の瞳が瞬いて、不思議そうにナシェルを見下ろしてくる。眼差しは穏やかで、声色は甘く理性的だ。ナシェルの手を持ち上げ唇を寄せるさまは、まるで忠誠を誓うように丁重ですらある。
……さきほど先の反った長い剱でナシェルの体を暴いていた時には、王の表情はもっとぞくぞくするほど支配的だった。…少しばかり抑えつけられ愛の楔をいやというほど打ち込まれるのももちろん好きだし、こんな風に恭しく扱われるのも、ナシェルは好きだ。上下関係が逆になったようで新鮮な感じがする。
ときにはナシェルもそれに応えて傲慢な振りをしてみたり、わがままな言動をしてみたりする。すると王は気前よく、ナシェルの調子に応じて召使のように世話を焼いてみせるのが常だった。王と王子はそうして時々『従僕と王子』になって遊ぶ。王は元来、ナシェルを甲斐甲斐しく世話するのが好きだし、ナシェルも、閉ざされた二人だけの世界のなかで、そんな風に立場を変えて楽しむのが好きだ。
ナシェルは王の脇の下あたりにぐりぐりと側頭部を捩じ込んで、密着する。
「……考え事をしていて。正直、ここへ来るまで、ずっと」
「ほう」
「……何を考えていたのか、訊かないんですか?」
「訊かずとも分かるよ、余も同じ気持ちだから」
王はナシェルの右手の指のつけ根、一本一本にそれぞれ熱情を込めて口付けした。
「ナシェル。以前は巣を捨てた鳥のように風任せだったそなたが、ようやく折にふれ余のところへ戻ってきてくれるようになったね。
けれどそなたは、余のほうなど振り返ったりせずもっと前を見据えて歩んでも良いのだよ。そなたには、向かうべき未来があるのだから――帰ってきてくれるのは、むろん嬉しいが」
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