泉界のアリア

佐宗

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番外編

冥王と暦

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「……治世1500年?」
 ナシェルは思わず書類から顔をあげ、執務卓の向こうの若公爵の顔を見返した。
「……その数字は確かなのか?」
「はい、私の緻密なる計算によれば」
 ヴァルトリス公は眼鏡を押し上げ、なにやら紙を突き出してきた。見れば小難しい天体観測図と計算式が書き込まれている。天体図は地上界の書物から拝借してきたらしい。
 いくら数式を眺めてみても答えの導き方がよく分からなかったが、ファルクが自信たっぷりにいうので、まあ概ね正しいのだろう。
 そもそも冥界には正式な暦が存在しない。どの瞬間をもって暦の始点とするかでかつて魔族たちがモメて以降、冥王が積極的に作成を指示してこなかったからだ。
 冥府の中心街には大時計が存在するが、あくまでも魔族たちが活動時間と休息時間を分けるためのものであり、地上に近い暗黒界とは時間がずれていたりもする。だがそれを指摘する者もいない。
 冥王もナシェルも神族で老いることがないため、年月という概念はしばしば脇に置きがちなのだ。そのためそれぞれ自分の年齢さえ「千歳はちょっと超えてるぐらいかな…」といつも曖昧にお茶を濁している、という有様だった。

「本年が丁度、陛下のご即位から1500年の節目なのでございます。そこで平安なる御治世に感謝し御代を讃える祝賀祭を執り行うことになり、ぜひ殿下にも一肌脱いでいただきたくお願いにあがった次第です」
 ナシェルの目がすっと細まる。
「私は脱がぬぞ。あいにく当の陛下より肌色禁止令が出ているのでな」
 嘘も方便であるが、王子殿下の普段の素行を鑑みればあり得なくもないと思ったのか、ファルクはそこは突っ込んでこない。
「『一肌脱ぐ』とは、そういう意味ではございません。ひとまず着衣のままで結構ですので♡」
「語尾のトーンが気色悪いぞ。ひとまずとは何だ。私に何をさせようというのだ」
「まぁまぁそうビクつかないで殿下。むろん冥王陛下がお喜びになるような企画ですよ。私からは晩餐会および仮面舞踏会を打診しました。軍務卿からは騎馬パレードと御前槍試合の開催が素案に上がっております。ヴァレフォール公からは狩猟大会と闘牛祭の案が。どれも全てこなすと記念行事に一週間以上はかかるでしょうな」
「そんな大がかりな企画がいくつも上がっているのなら、私の提案など入れ込む余地はなさそうだが」
 ナシェルは嘆息し背もたれに沈み込んだ。
「では殿下、ほかの方の企画に便乗なさるだけでよろしいので?」
「そうは言っておらぬ」
「殿下が楽しませてくださったら陛下はさぞかしお喜びになるでしょうなぁ~」
 ファルクは眼鏡を押し上げながらニチャアと不気味な笑顔を浮かべる。再三の面会要求に負けて執務室に入れてしまったがやはり生理的に無理なようだ。執務椅子から立ち上がったナシェルは彼に背を向け窓の外を見る。
「分かった、私なりに考えておこう。ただし公式行事とは別枠だ」
「は…畏まりました」

 ファルクを退出させたのち、祝賀の方法を考えるうちに無意識に計算をはじめていた。 
 たしか冥界に落ちてきて1000年超は小さな洞窟で根を張っていたらしいから、合わせると2500年か…。問題はその前にどのくらい天上界にいたかだ。天から落ちてきたとき既に今に近い容姿をしていたということは成神していた? とすると3000歳は確実に超えているのか……?
 冥王がふだん年齢をぼやかしているのであまり気にしていなかったが、図らずも王のおよその年齢を知ることになってしまった。だからとて別に今さら驚くような情報でもないのだが、ナシェルの年齢以上の年月を冥王が不遇に過ごしてきたことも改めて認識させられる。

 普段の冥王は数十億の精霊を束ね、死者たちに審判を下し、魔族らを平等に慈しみ陳情を聞き、ナシェルを愛し見守り、冥府に結界を張り害魔を遠ざけるという、難事を常に同時にこなしている。不遇の過去を想起させるような言動は一切なく、不安定どころか疲れさえも見せないが、気を張る毎日であることは確かだろう。
 頑張っている王にお礼を…というよりは、何か、いちばん喜びそうなものをあげなきゃいけないな、と考えるとおのずと方向性が定まってきた。



◇◇◇



 しばらくののち。
 記念祭が盛大にはじまり、冥王宮では連夜にわたり祝賀の晩餐会やら舞踏会が催された。九公爵それぞれが日程を分けて主催するため、それだけでも三日三晩以上続くことになる。加えて騎士団パレードや馬上槍試合、闘牛大会などは平民魔族たちも見物を許され、にぎやかなお祭り騒ぎの日々が過ぎていった。
 ナシェルもいくつかの行事に参加し、儀礼にのっとりうやうやしく祝辞を述べて、いささかあっさりと冥王の御前を辞去した。
 とくに治世千何百年と言われてもピンとこなかった王は、ナシェルがいくつか行事に参列し共に乾杯してくれただけで十分、幸せだったのだが、驚きはその後だった。

『離宮にてお待ちしております、我が君。連夜の祝賀行事でお疲れのことと拝察します。湖上の別荘にて御静養になれば人熅れも冷ませましょう。ご滞在の間、私がお傍にお仕えいたします』

 ナシェルが去った後のこと。精霊がさらりと一筆箋を運んできて、王の手に恭しく口づけした。王が文を出すことはあっても、その反対の事象はめったに起こらない。王はナシェルが祝祭の終わらぬうちに去った理由を悟って、一筆箋を懐に大事にしまい、宴を抜け出して幻霧界へと向かった。





◇◇◇




 ナシェルは湯浴みを済ませ、湖に張り出したテラスの長椅子に横になっていた。自身も離宮にやって来るのは久しぶりだ。遠乗りで少し疲れていたのもあり、王を待つうちにいつしか絹の長椅子で眠り込んでいた。悪戯な死の精たちはあるじの髪のひと房を持ち上げて、こっそりと三つ編みに結って遊んだ。

 声をかけられ目を覚ますと、血の色をした瞳が自分を覗き込んでいる。
「風邪を引くよ、ナシェル」
 ナシェルは瞼をこすりながら慌てて半身を起こす。髪がへんなふうに結われているとも気づかない。
「ああ、すみません……いつの間にか眠ってしまいました」
「お傍にお仕えいたします、とか言っておきながらさっそく余に世話を焼かせるのだねそなたは」
 王は自分の着ていた毛織の外套を脱ぐとナシェルの肩にかけてきた。苦笑ぎみの王に手を引かれ立ち上がる。
「だって、待ちくたびれていたんですよ」
 ナシェルはそのまま王に腕を絡めて寄り添った。甘えた仕草に王は目を細め、ふたりは桟橋を歩いて離宮の中へ向かう。

「そんなに待たせたか? そなたから手紙を受け取ってすぐに出発したけどね」
「私はずいぶん早くに着いちゃって。ここで過ごすの、久しぶりでしょう」
「そうだね。主役が宴を抜け出して、今ごろ誰かが騒ぎはじめていないといいが」
 王は、都の祭りのことを気にかけつつも楽しそうだ。
「誰かが父上のご不在に気づいたとしても、いったい誰が宴を中座してこの幻霧界まで探しに来るでしょう? そもそも皆、恐らくこの離宮の存在など忘れていますよ」

 数えるほどの家臣にしか、ここの存在を教えていないのだ。名だたる公爵たちを呼んで小舟の進水式をしたことはあるが、あの舟はその後、大魚をめぐる事件のおりに水底に沈んでしまい、今はもうない。水乙女たちの静かな暮らしをこれ以上妨げぬようにと、王は以降、小舟を造らせるのをやめた。

 以来、水遊びがしたければ湖に入って泳げばよい、と王に言われたが、さすがにナシェルも湖水に入るのはもうこりごりだ。大魚の件は片づいたので危険はないけれども、他にもおかしな物の怪が棲息していないという保証はない。


 水乙女たちは今日は湖底で過ごしているのか、湖面には上がってこない。
 湖面はうねりもなく水泡ひとつなく静寂に満ちている。湖畔の小動物たちも冥王の神司に畏縮して草陰に身を潜めているのだろう。誰の気配もなく、本当にふたりだけの空間だった。

 湖に張り出した桟橋と、千年樹の朽葉の舞うテラス、そして広く開けられた離宮の掃き出し窓はつながっていて、白いカーテンの奥はそのまま寝室になっている。
 王はナシェルに挨拶代わりの口づけをしたのち湯浴みをしに離宮の奥の湯殿に消えた。ナシェルは備え付けのカウンターで飲み物を用意し、ついでに精霊たちが用意した銀皿の果実を口にした。

 王は湯殿から戻ってくると早速ナシェルをつかまえて雨のような口づけを降らせ、寝台に引きずり込んでくすぐり、ナシェルを噎せるほど笑わせて、不意に尋ねた。

「そなた、いつまで居られるのかな?」
「ここにですか? 今回は貴方に合わせますよ」
 王は少し意外そうに瞬きし、微笑む。
「どういう風の吹き回しかな。ふたりでゆっくりしたくても、そなたは忙しいからと言ってだいたいあっけなく帰ってしまうからね……」
「そうでしたっけ?」
 思い当たるふしがあるナシェルは、微苦笑ではぐらかすしかない。体が神司で満たされたら、今度はじゃれ合うのが少し照れくさくなってしまう、というのがおおよその理由だが、執務の合間に抜け出してきているのもまた事実だ。
 ナシェルの気分や態度に振り回されることさえも幸せ、と冥王が言動の端々で示してくれるので、ナシェルは安心して王を困惑させることができるのだ。むろん王の機嫌次第ではそういうそぶりは控えているけれど。

「あ、そうだ、それより」
ナシェルは話を逸らすように一旦寝台を降り、卓から杯を取った。果実酒を注いで片方を手渡す。
「せっかくだから乾杯しましょう。父上、改めて即位1500年、おめでとうございます」
「あぁ、ありがとう」

 盃を飲み干して、しばらくその酒の風味や産地の話題などするうちに王が言い出した。
「……祝ってもらっておいて言うのもなんだが、多分その即位1500年というの、間違っておる」
「え!?」
 驚いて吹きそうになった。王はナシェルの隣に腰かけて、杯の中の酒を揺らす。

「公爵が計算を間違えたわけではないが、余がどの時点でこの冥界の主となったかの前提がそもそも違う」
「それって…?」
「公爵は、余が『魔族らを統一した年』をもって即位元年としたが、余はこの冥界に来た瞬間、もう冥王として世界の隅々のことまで概ね把握していた。精霊たちからも冥界の主と呼ばれていたよ。多くの妖獣属や小妖魔などはほぼ何の抵抗もせず余の下についていた。
 当初から余に従っていなかった種族のほうが少ない。大型の妖魔や、魔族たちがそれだな。
 その魔族を配下にして全土の本格的な統治に乗り出したのはそれよりもずっと後のことだ」
「では治世1500年というのはあくまで魔族たちの視点、ということですか」
「そう。まぁ魔族らからすれば、たしかに節目の年ではあるのだろうがな」
 冥王は苦笑いだ。自分に内緒であれこれ勝手に祝賀祭の準備が進められてしまい、言うに言えなくなったのだろう。暦などたいした関心事ではないのが窺える。
「じゃ、本当は王になられて2500年ってことですか」
「ぐらいね。多分それも正確な数字ではない」
「呆れたな……」
 ナシェルは首を斜めに傾けながら残りの果実酒をつぎ足した。
「呆れたとは何に?」
「貴方にですよ。だって天から下りてくるなり精霊たちに冥王と呼ばれて、この世界のことも概ね把握できていたのに、千年ぐらい洞窟に閉じこもって魔族たちの声は無視していたということでしょう」
「相互理解に時間がかかったのでな」
「幾らなんでも、そんなにかからないでしょう、供え物までされてたのに?」

 自分だったら洞窟にこもるにしても1年ぐらいが限界かな、とナシェルは思う。数千年は生きるだろうとされている神族で、1年は短すぎて笑う。堪え性のない性格なのだ。いや、兄弟たちに迫害された経験もないのに自分と父を比べてはいけないか。
 冥王は言い訳を重ねる。
「供え物はずっと後だ。彼らも余の存在に気づいた当初は怖がって近づいて来なかった。実際に余のところを訪ねてくるようになるまでには何百年単位で時間がかかったからね……初めは言葉も分からなかったし……」
 王のまなざしは当時を思い起こしたかのように遠くへ投げられていた。自分の知らないころの父――孤独で狂い、すさんでいて、天への怒りで精神を病んでいたころの冥王の横顔が想起され、ナシェルは話をそらそうと試みた。

「まぁそういうことにしておきましょう。ところで、何歳ぐらいのときここへ来たんですか?」
 冥王ははたとナシェルに視線を戻した。
「ん? それ聞いてどうするの」
「貴方のほんとの年齢を当てたい」
「言わないよ……それこそ、大して重要なことではないし」
 王は空になった杯を卓に置く。
「ほら、貴方は私のこと何でも知っているくせに私には全然、ご自分のこと教えてくれないんですよね」
「おやおや、余のことなどもう知り尽くしていると思っていたが?」
 王はナシェルの腰回りを囲み、後ろから抱きすくめた。ナシェルは酒をこぼしそうになり慌てて飲み干して、杯を遠ざける。
「知らないことだらけですよ。貴方が何を考えているかもいまいち分からないし」
「では教えてやろう、余が今、何を思っているか」
 耳元に囁かれると、体の奥にある火種に火がついたように熱くなる。
「もう……そういうのは分かりますってば。話、逸らさないで」
「余も、昔はそなたのことはなんでも知っていたが今ではときどき分からぬよ、もう子どもではないそなたの気持ちが。教えてくれ、今何を考えているのか……」
「もちろん貴方と一緒ですよ、」
 体の向きをくるりと半分変えて、唇を奪いにいく。軽く押しあてて、睫毛のふれる距離でこっそりと囁いた。

「……、…………、」
「意見が一致したね、余もだよ」と王は笑い、
「でもそう焦る必要はない、ゆっくりしよう。せっかく時間を気にせずそなたを独り占めできるのだから」
 唇どうしが触れ合うか合わないかの距離で、王はそう言ってナシェルの頬を撫でた。指の感触にたまらなくなり、ナシェルは王の手をとって指先に口づける。
「早く貴方の熱が欲しい、そう思うのもだめですか?」
「急いだら、それだけ早くそなたが居なくなってしまう気がするのだよ」
「今回はそんなにさっさと帰りませんってば…私からのお祝いは、ふたりだけでゆっくり過ごす時間です。他のものは、何もかもお持ちでしょうし、これしか思いつかなくて……」
「それこそが何よりも一番嬉しいよ、ありがとうナシェル」
「でも王になられて1500年ての、そもそもまちがってたんですよね?」
「いいよ、もう記念の年ということにしておこう。思いがけず祝われるのは気分が良い。とても幸運だ」
「ホント適当だな……」

 笑いながら互いの帯を解き、寝台に倒れ込んで身体を重ね合った。黙って従っていると本当に王は数日がかりの焦らし技に持っていくので、早く欲しいナシェルは上に乗って誘ったり口で愛したりと積極的にふるまう。王は甘い前戯にたっぷりと時間をかけるのが好きだから、たいていナシェルは限界までおあずけを強いられて、最終的には淫らな命令に従い懇願させられてしまう。気がつけば今回も同じようにいろんな手管で快楽を体に沁み込まされて、望みだけがいつまでも叶えられずに痺れを切らされて、ぎりぎりまで高められて、長い時間をかけゆっくりと解されて、ようやく深い部分まで繋がった。

 気が狂うほど待たされたので、ナシェルは挿れられるとすぐに締めつけて尻を揺らし王を峠に導こうとする。はしたないと窘められ、尻を叩かれて、なら早く動いてくださいと泣訴した。王ははじめはジクジクと蠢くような動きで虐め、やがて挿入したまま色んな体位に持ち込んでナシェルを気持ちよく啼かせた。途中、水分補給と軽い食事と休憩を挟んで二日は責め続け、寝台のあらゆるところを使って体を繋げた。情熱的な快楽に満たされ続けて、ナシェルは声が嗄れるほどだった。

 いつもと同じ手順のようでもあり、全く新しい愛し方のようにも感じられた。揺籠のような優しさと傲慢な躾を一度に味わわされるのだ。屈辱的で、為すすべなく、けれども王の熱い奔流には慈愛がこめられていて、飴と鞭に翻弄され、終わったあとナシェルは声も出せずにしばらくうずくまってしまった。
 王はあれこれと世話を焼き彼を優しく労わった。

 ナシェルが立てるようになるとふたりで湯殿へ行って身を清め、疲れ切った体を休めた。広い湯船で、王の肩に頭を凭せ掛けてうつらうつらと半睡眠しながら甘やかな夢を見た。そんな調子でたまに楽しい食事を挟みつつ、さらに三晩ほど睦まじく過ごすうちに、十分な英気が漲ってきた。


 
 五日目ともなると、さすがに湖畔には小動物の気配が戻ってきた。水を飲みに訪れるのだろう。湖面にもぷくぷくと小泡が立っている。ナシェルが桟橋から覗くと水乙女たちが湖底から顕れ出でて、冥王の御子に挨拶した。

 黒睡蓮の花を献上され、テラスの水甕に浮かべてから戻ると、王がここへ来たときの衣装を着ようとしている。
「ナシェル、久しぶりにゆっくり過ごせたよ。誘ってくれてありがとう」
「もうお帰りになるのですか」
 王は着替えの手を止めてナシェルを抱き寄せる。
「そなたと過ごせたのが何よりの褒美だった。いつもこんなふうに共に過ごせたらいいのにね」
「いつも、どこにいても魂は貴方と共にあります、我がきみ」
「そのわりに普段はつれないし我儘ばかり言うけどね」
「ご寵愛を確かめているのです」
 しゃあしゃあと述べると王は、ナシェルの手をとり大切そうに口づけした。触れられた箇所から、熱が全身に拡がってゆく。
「確かめずとも分かるであろう、余にとってもこの世界にとっても、そなたこそが至高の存在だ。余はそなたを忠実に愛しておる、決して裏切ったりはせぬ」
 ナシェルの眉が少し上がった。
「決して裏切らぬ、ねぇ。湖の底で水妖族の女王と何してきたのか忘れたんですか?」
「いや、だからあのときは……。あれ、剣帯はどこに置いたかな」
「そこ、落としていますよ」
 身をかがめて剣帯を拾いあげた王は、弁明して誤解を解こうかこれ以上は黙っておこうかと迷う表情だ。ナシェルは王の言葉を待とうと、袂の内側で肘を組んだ。
 お互いに、自分がしでかしたことは早く忘れようと努めるが相手のそういうことは覚えているのだ。そう思うと王の微妙な表情に笑いがこみあげ、最終的には吹き出していた。
「冗談ですよ。私のことをこの世界と同等に大事に思っておられること、ちゃんと分かっています」
「違うよ、そなただけが一番で、他のすべては二の次だ」
「冥界よりも私が大事だなんて、冥王失格ですね」
「そう、渋々やっているのだよ。何のためだと思う? そなたに持ち越すためだ。そなたがいなければこの世界にも意味などない。いつも言っているであろう」
「色々重すぎるんですが。……この会話、魔族たちが聞いたら何ていうかな……」
 軽口を言い合いながら抱擁と口づけを交わした。何千回も何万回も繰り返しているのに、王の体が離れていく瞬間から寂しさに襲われる。
 
 ナシェルと精霊たちは礼儀正しく膝を折って冥王に別れの挨拶をし、王は自分の闇の精霊たちを愛するナシェルに譲り与えた。ほとんどの精霊たちがナシェルの下についても、王はまた帰路で新しい精霊たちを麾下に加えるので問題はない。
「ではな、ナシェルや。余が途中までは辺りを払っておいてやるが、あとは気をつけてお帰り」
「はい、父上もお気をつけて……」
 あたりを払うというのは神司で睨みを利かせ妖魔を遠ざけるという意味だが、ナシェルが精霊たちに先触れさせるだけでもたいていの魔物はどこかへ逃げるので、王のそれはやや過保護な振る舞いということになる。
 そもそも、千年以上生きてきてこの幻霧界あたりに、自分達が手こずるほどの妖魔が現れたためしはない。それでも愛ゆえの行いであろうから黙って受けておくのがよい。結局、王はどこまでもナシェルの世話を焼きたいようだ。

 王の指笛に応えて王馬セレドイルが森の奥から姿を現した。
 黒天馬たちはいつも、神々が滞在する間は離宮の裏の森で放牧されている。王は自分で鞍を置き、鞍上に上がった。最後に慈愛を込めた眼差しをナシェルに送ると、長い外套を靡かせて幻霧の森を後にした。

 冥王の気配が去ってしまうと、寂しくなったナシェルは指笛で幻嶺を呼んだ。鞍を置きながら話しかける。
「お前たちもゆっくりできたか? そろそろ帰ろう」
 幻嶺は鼻息で返事をし、ナシェルの袖で鼻を拭く。翼を畳み四本脚で森を駆け回るのも飽きていたようだ。少々休暇が長すぎたのではないかと言っているようにも取れる。物言わぬ馬にじっとりとした目で見られて、ナシェルは思わず赤面してしまった。
「誤解のないように言っておくが父上のご静養につき合っただけで……」
 馬を相手に弁明しても仕方ないので、それ以上はやめておく。結果的に世話を焼かれていたのは自分のほうだったが、ふたりきりで過ごせた数日は、父王にとっても良い気分転換になっただろう。

 後片付けに少し精霊たちを残して、ナシェルは馬にまたがり一路、暗黒界を目指す。途中までは王の神司の痕跡をたどる。幻霧界を抜けるころには王の気配は左のほうへ逸れていった。そちらは冥府の方角。反対側に進み暗黒界に入れば、そこは常にナシェルの神司の及ぶ領域だ。


 それにしても暦の始点を誤っていたヴァルトリス公に理由を説明し、暦を訂正させた方がいいだろうか?
 だが盛大な祝賀行事を1週間以上もやってしまった後だしな…、と考えると面倒になってきて、ナシェルも父と同様、まぁいいか…と匙を投げた。
 こんな調子で、冥界の暦や時計は今もあまり正確ではない。

 魔族たちの祝宴はいつまで続く予定だったか? 主役の王が中座したままで何日か経ってやっと帰還して、臣たちに何と言われるだろう。
 公爵らに問い詰められとぼけて逃げる王の姿が想像でき、ナシェルは鞍上でひとりくすくすと笑った。


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感想 71

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みんなの感想(71件)

田沢みん
2021.01.10 田沢みん

蓮の葉で前を隠す冥王、ナイスです👍🏻

2021.01.10 佐宗

自信たっぷりに葉っぱで隠そうとしてましたがナシェルに割と冷静に「やめて」言われてましたね🤣🤣細かいボケを忘れない父です😁
番外編もおつきあい下さって、本当にありがとうございました〜🙏🙏😊!
よろしければ「父子船旅編」のほうにも遊びに来てくださいまし(*^^*)✨

解除
田沢みん
2021.01.06 田沢みん

冥王の昔の時代のお話を聞くと切なくて胸が苦しくなりますね。
千年も孤独だった男が今は愛する半身と寄り添っている。
良かったね、冥王。
ナシェルが生まれてくれて。

2021.01.06 佐宗

そうなんですよ、孤独だった冥王が幸せになれたのは、ナシェルが生まれたおかげです😢あのころのトラウマもネタとして、子が冗談ぽく聞いてくれるので冥王様も救われてます😊 ここまで育てるの、大変だったですけども…(子育てBL?)
さて次から野外プレイ…😅

解除
田沢みん
2021.01.05 田沢みん

おっ、いい雰囲気💕

2021.01.05 佐宗

大問題は起きない、平和でラブリーなお話です😊!
それにしてもナシェル君が急デレ展開…(笑)

解除

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