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第二章 幻獣の野にて
3
幻獣界の夜も更け(といっても冥界には陽の光がないため常に薄暗いのであるが)、数時間後に始まる陣の移動に備えておのおのが天幕に引き下がった頃のこと。
酔い覚ましに、ナシェルは沼池の畔をぶらぶらと歩いている。
配下の死の精たちがもの珍しそうに沼の中を覗き込み、水妖たちと遭遇して交戦状態に入りかけるのを、何とか押しとどめた以外は、あたりは静寂に満ち溢れている。
供に、ヴァニオンがつき従っている。
「久々にお前と打ち合えるかと思ったのに」
結局ナシェルが酔いを理由に手合わせを拒んだので、ヴァニオンは後ろでまだぶつぶつ云っている。
あのあと、ヴァニオンは自分より年嵩の若騎士と対戦して惜敗していた。背もリーチも経験も相手のほうが上だったので現状では仕方ないとナシェルは思うのだが、それも不満の種のようだった。
ヴァニオンに急に腕を掴まれ、振り向かされる。
「……ヴァニオン、誰か来たらどうするんだ」
「来ないよ。みんな酔っ払って寝ちまってる」
腰を引き寄せられて見上げると、僅かに高い位置にある黒曜石の瞳が、真剣にナシェルを見下ろしている。
唇を、やや強引に奪われた。押し返そうとすると、さらに強く、抱きすくめられる。
「んぅん……ヴァニオン……」
「今すぐ、したいよ。お前の天幕、行っていい……?」
しかしナシェルは躊躇ったのち、首を横に振る。
「駄目? どうして」
「……悪いが、そんな気分ではない」
ヴァニオンを今度こそ押し返すと、ナシェルは目を逸らすようにして再び歩き出した。
「戻ろう、」
肩越しに残酷に告げるどこか痛々しい声を、ヴァニオンは訝しげに立ち尽くして聞いていた。
……お前を選べたらいいのに。
今思えばその背中は、そう告げていたのだ。
***
誘いを断られたヴァニオンが、傷心とともにヴェルキウス家の天幕に戻ると、父公爵がまだ起きていて彼を驚愕させた。
「ヴァニオン、殿下とどこに行っていた」
「わわ、びっくりした……親父、起きてたのか」
ヴァニオンは撥ねる心臓を押さえる。どこと云われても、王子の供で池の畔をぶらぶらしていただけだと云うしかない。
「こっちにきて座れ」
ジェニウスは甲冑こそ脱いでいたが、ヴァニオンが帰るのを待っていた様子だ。嫌だが仕方なく、簡易式の卓を挟んで父親と向かい合う。
「何だよ、改まって……」
「いいから聞け。ヴェルキウス家は、常日頃から陛下に多大な恩恵とご信頼を受けている。私が陛下の古参の臣だという以外にも、お前の母さんがナシェル殿下の乳母を務めさせていただいて以来、さらに恩恵は弥増している。並み居る爵家の中でも我が家の格式は頭一つ抜きん出ている。分かるな?」
「…分かってるよ、そんなこと」
「お前も陛下の覚えめでたい。陛下はお前に期待を寄せておいでだ。むろん私もだ。
お前もじき大人になるし、陛下のご期待に添うよう、今まで以上に努力、そして自制を求められている。
他の爵家からは羨望と敵対の眼差しを向けられているのだから、これより先はお前の言動も、ヴェルキウス家の家名を左右するものだと心得よ。
それから陛下はこれより先、領地を冥界の奥へ広げられるにあたって、後背の暗黒界を、殿下にお譲りになり、独り立ちさせたいとお考えだ」
「暗黒界を? だけどあそこは、地上界と天上界に近すぎて危険だって……」
「声が大きい。そう、暗黒界は地上界への出口で、死者たちの出入りに目を配らねばならず、また天上界と事が起これば、もう一方の前線でもある。だからこそ陛下は、魔族ではなく同じ『神族』であるご世継ぎにしかあの地を任せられぬ、と仰せなのだ。ナシェル殿下は神の力をお持ちで精霊を使役できる。我々とは違うのだ。
ヴァニオン。私は陛下から、王子の側近としてのお前に期待していると、改めてお言葉を頂戴しているのだ。
お前も冥界軍の将となり、暗黒界に渡られる殿下を補佐するようにと、お達しがじきにあるだろう」
「う……はい」
酔い覚ましに、ナシェルは沼池の畔をぶらぶらと歩いている。
配下の死の精たちがもの珍しそうに沼の中を覗き込み、水妖たちと遭遇して交戦状態に入りかけるのを、何とか押しとどめた以外は、あたりは静寂に満ち溢れている。
供に、ヴァニオンがつき従っている。
「久々にお前と打ち合えるかと思ったのに」
結局ナシェルが酔いを理由に手合わせを拒んだので、ヴァニオンは後ろでまだぶつぶつ云っている。
あのあと、ヴァニオンは自分より年嵩の若騎士と対戦して惜敗していた。背もリーチも経験も相手のほうが上だったので現状では仕方ないとナシェルは思うのだが、それも不満の種のようだった。
ヴァニオンに急に腕を掴まれ、振り向かされる。
「……ヴァニオン、誰か来たらどうするんだ」
「来ないよ。みんな酔っ払って寝ちまってる」
腰を引き寄せられて見上げると、僅かに高い位置にある黒曜石の瞳が、真剣にナシェルを見下ろしている。
唇を、やや強引に奪われた。押し返そうとすると、さらに強く、抱きすくめられる。
「んぅん……ヴァニオン……」
「今すぐ、したいよ。お前の天幕、行っていい……?」
しかしナシェルは躊躇ったのち、首を横に振る。
「駄目? どうして」
「……悪いが、そんな気分ではない」
ヴァニオンを今度こそ押し返すと、ナシェルは目を逸らすようにして再び歩き出した。
「戻ろう、」
肩越しに残酷に告げるどこか痛々しい声を、ヴァニオンは訝しげに立ち尽くして聞いていた。
……お前を選べたらいいのに。
今思えばその背中は、そう告げていたのだ。
***
誘いを断られたヴァニオンが、傷心とともにヴェルキウス家の天幕に戻ると、父公爵がまだ起きていて彼を驚愕させた。
「ヴァニオン、殿下とどこに行っていた」
「わわ、びっくりした……親父、起きてたのか」
ヴァニオンは撥ねる心臓を押さえる。どこと云われても、王子の供で池の畔をぶらぶらしていただけだと云うしかない。
「こっちにきて座れ」
ジェニウスは甲冑こそ脱いでいたが、ヴァニオンが帰るのを待っていた様子だ。嫌だが仕方なく、簡易式の卓を挟んで父親と向かい合う。
「何だよ、改まって……」
「いいから聞け。ヴェルキウス家は、常日頃から陛下に多大な恩恵とご信頼を受けている。私が陛下の古参の臣だという以外にも、お前の母さんがナシェル殿下の乳母を務めさせていただいて以来、さらに恩恵は弥増している。並み居る爵家の中でも我が家の格式は頭一つ抜きん出ている。分かるな?」
「…分かってるよ、そんなこと」
「お前も陛下の覚えめでたい。陛下はお前に期待を寄せておいでだ。むろん私もだ。
お前もじき大人になるし、陛下のご期待に添うよう、今まで以上に努力、そして自制を求められている。
他の爵家からは羨望と敵対の眼差しを向けられているのだから、これより先はお前の言動も、ヴェルキウス家の家名を左右するものだと心得よ。
それから陛下はこれより先、領地を冥界の奥へ広げられるにあたって、後背の暗黒界を、殿下にお譲りになり、独り立ちさせたいとお考えだ」
「暗黒界を? だけどあそこは、地上界と天上界に近すぎて危険だって……」
「声が大きい。そう、暗黒界は地上界への出口で、死者たちの出入りに目を配らねばならず、また天上界と事が起これば、もう一方の前線でもある。だからこそ陛下は、魔族ではなく同じ『神族』であるご世継ぎにしかあの地を任せられぬ、と仰せなのだ。ナシェル殿下は神の力をお持ちで精霊を使役できる。我々とは違うのだ。
ヴァニオン。私は陛下から、王子の側近としてのお前に期待していると、改めてお言葉を頂戴しているのだ。
お前も冥界軍の将となり、暗黒界に渡られる殿下を補佐するようにと、お達しがじきにあるだろう」
「う……はい」
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