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第二章 幻獣の野にて
6
(嘘だ、嘘だ、嘘だ)
ヴァニオンは沼池までがむしゃらに走った。
吐き気がとまらない。
どうして。どうしてあんなことができるのか。
『頼む、出て行ってくれ!』
切羽詰まったナシェルの叫び声が、今でも耳元でぐわんぐわんと鳴っている。
木の根につまずき、みっともなく転んだ。
目の前に広がっていた葦原を、ようやく抜けた剣で、がむしゃらに切り裂いた。
「畜生!」
どうして王はあんなことをしていたのか。
どうしてナシェルは助けを求めず、出て行けと叫んだのか。
どうして自分は何もできずに、目の前の現実から逃げ出してしまったのか。
「畜生! 畜生! ……ちくしょう……!」
剣を投げ捨て、身を丸めて、叫んだ。非道な王にも、救出を命じてくれなかったナシェルにも、王に刃を向けることができなかった自分の弱さにも、何もかもに腹がたった。
自分が泣いていることに、やっと気づいた。
しばらく沼池のほとりで呻いていると、後ろからナシェルが追いついてきて、ヴァニオンの背後に立った。
「……ヴァニオン、済まない。済まなかった」
「なんで! 何でお前が謝るんだよ!? 何で!?」
ヴァニオンは涙を見られるのも構わず顔を上げた。お前は被害者じゃないのか。そう云いかけて、ナシェルの生気のない表情に、ふとフラッシュバックするものがあった。
(初めてじゃない、のか)
初体験のとき、落ち着き払っていたナシェル。
したことがある? 誰と?……その疑問を飲み込んだ自分。
相手は、他ならぬ王だったのだ。
「……話せなかったんだ。ずっと。話せるはずないだろう」
「なあ、ナシェル、やめよう。こんなこと絶対おかしい。なあ、俺と一緒にどっか逃げよう!」
ヴァニオンは撥ねるように立ち上がり、ナシェルの両肩を掴んだ。考えもなく咄嗟に口をついて出た言葉に対し、ナシェルは痛そうに顔を顰めただけで、何も応えない。
「だって、変だろ!!」
「……」
いつも聡明に耀いているはずの群青色の瞳は、今は生気を微塵も感じさせなかった。
「ヴァニオン、済まなかった。お前をもてあそぶつもりはなかった。
もちろんお前を信頼してるし、……愛してもいる。でも分かってくれ。私のせいで、お前を死なせるわけにはいかない。私を愛することは、お前の破滅につながる。
……何も云わずに、身を引いてくれ」
「なんでだよ!」
ヴァニオンは愕然と天を仰いだ。ナシェルは……この期に及んでも父王の支配下にあることを望んでいるのか?
「だって、どこに逃げる? 逃げ場はないんだ。私は父の神司を分け与えられた半身だ。母が、孤独な父のために、私を命がけで遺していったんだ。……だから父から私を分かつことはできない。お願いだ、分かってくれ。父上には、お咎めなしにしてくれるよう私から頼んでおくから」
ナシェルの瞳にも涙が溢れたかに見えた瞬間――。
彼はくるりと背を向けてヴァニオンの視線を遮った。説明はそれだけだった。
「許してくれ。……もう戻らなくては」
愛しい背中は残酷に、一切の感情を廃棄したかのようにそう告げて。
ヴァニオンは呆然と、葦原に膝をつき崩れ落ちた。
初恋はそのようにして突然、一方的に砕け散った。
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