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第三章 蝶の行方
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「――りに、行かねえか、なあ?」
ヴァニオンの誘いはいつも唐突だ。
冥王宮の、吹き抜けの回廊にナシェルはいた。そこは5階ほど下にある中庭のひとつを見下ろす、露台造りになっている。下層階の中庭からは、侍女たちの上げる笑いとさざめきがうっすら聞こえてくる。
どこからともなく風が流れてきて、ぼんやりするのに丁度いい場所だった。
休憩用の大理石の椅子と卓があり、ナシェルはそこに腰かけてうつらうつらと、不足したままの睡眠を補充している所だった。
ナシェルは突っ伏した腕の間から顔を上げ、まぶたをこすり、親友の姿を探す。
「ヴァニオン……か? いま、何て云った?」
卓の向こう、真正面に立ったヴァニオンは前置き不要とばかりにもう一度、
「遠乗りに行かねえか、ナシェル」
と腕を組む。そうしてナシェルの精彩の欠けた表情とは裏腹に、屈託ない笑みを浮かべてみせた。
幾分幼さを残すナシェルとはちがい、彼はもう青年と呼ぶにふさわしい精悍さを秘め、伸びやかな長身に育っている。どこが魔族…といいたくなるような陽気さを帯びて、翳りのある美貌のナシェルとは種族も性格もなにもかも異なっているのに、これで兄弟のように育ってきたのだから不思議だ。
ナシェルは首を横に振った。今はそんな気になれない。
「何で断んの? こんな所で爆睡してる暇があったら付き合えよ。らしくないな」
「……遠乗りなんて、する気分じゃない」
察しろ、ばか。
ナシェルは心中で念じる。
疲れているんだ、夜毎の伽で。
ヴァニオンは冥王とナシェルの関係を知る、唯一といってよい男だ。
だが困ったことにこの乳兄弟には、そこから生じるナシェルの懊悩を汲みとり、慰めようとか相談に乗ろうとかそういう細やかさは多分……ない。それを彼に求めるのは酷というものだろう。
ヴァニオンの気がねのない態度が恨めしい。こういう日は遠慮をみせてほしいところだ。
……お前も私を抱いたことがあるなら、情事の翌日の倦怠した顔つきぐらい悟れ。
そのときナシェルは、視界の隅に鮮やかな緋色がちらつくのに気付いた。
まじまじと見つめ、ナシェルはようやく異変に気づく。よく見ればヴァニオンは今まで羽織ったことのないような、大げさなマントを肩に留めていたのだ。
「――何、それ」
「ああ、このマント? 親父がさ、お前も炎獄界の後継者としての公の立場をそろそろ意識する必要がある、なんて云って、身につけろってうるさいんだ。俺はこんな大げさなの、邪魔っけで仕方ないんだけど。……変だろ?」
目を見開いているナシェルの前で、ヴァニオンは照れ臭そうに頬を掻く。
「ううん、変じゃない」
炎獄界の後継者か……。
公爵と同じ緋色をまとったヴァニオンは、ナシェルの目にはとても大人びて見えた。
「……に……似合う、と思う」
褒めながら、ナシェルは悟る。夢の中で花に囚われた蝶を掬ったのは、この男の手だったのだと。
あの緋色の布は、ジェニウスではなくヴァニオンの、このマントだったのだ。
――翅が壊れていないなら、また飛んでいくだろうさ。
そうだ、なぜ気付かなかったのだろう、あれはヴァニオンの声だった。
その事実に気付きしばし茫然としていたナシェルは、当のヴァニオンの言葉に我に返った。
「――元気出せよぅ、なあ、ナシェル」
夢の中と同じ、屈託ない口調で彼は云う。けれどそれに続いた言葉は、ナシェルを気遣うように僅かに低められていた。
「お前のそんなしけたツラ、見ていたくねえんだよ。お前が笑ってくれんなら俺、何でもする……っつーかさ……」
言葉尻をぼやかし、ヴァニオンはこめかみを掻く。彼もそんなことを口に出すのは照れ臭いのだ。
遠乗りに行こうとしつこく誘ったのは、それが彼なりの気遣いだったのだと、ようやく気付いた。
ああなんて、自分は、独り善がりで、馬鹿なのだろう……。
ナシェルは腰を上げ、詫びの代わりにわずかに表情を和らげる。
「着替えてくる。どこまで行くつもりだ? 遠乗りって……」
ナシェルの心境の変化を悟ったのだろう、ヴァニオンは何も云わず、にやりと薄く笑んでみせた。
――ヴァニオン。
ああやっぱり、私はこの男にまだ、惹かれている――
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