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第三章 蝶の行方
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二頭の馬は冥界軍の護る三つの砦をかるがると跨ぎ越し、光陰の速さで“最果ての河”に辿りついた。
その河はステュクスと呼ばれ、死者が霊魂となってこの黄泉の世界へ渡ってくる界境の河と云われていた。
いわば、生の世界と死の世界との狭間を流れる大河である。
光なき地底世界を流れるため、見渡す限り一面の黒河に見えるが、実際にはその水は清澄でとても美しい。流域面積はあまりに広く、向こう岸に舟を出しても決して辿りつくことはできないそうで、そう云われると生と死の境目を、なにか別次元の大いなる意思が束ねているようにも感じる。河を渡ることができるのは、翼を持つ精霊族たちと、黒天馬たち。それから死者の魂魄だけであると言われていた。
幽玄な流れを蓄える三途の河を、馬から降りた二人はしばらく黙って見つめていた。
ヴァニオンはおもむろに、川辺の草上にごろりと仰向けに横たわる。
ナシェルは土手の上、彼と馬たちとの間あたりに腰を降ろした。
特に会話はないが、それも二人の関係からならば、心地よい沈黙といえた。
ナシェルは、気持ちよさげに揺れているヴァニオンの長い黒々したまつ毛や、風に見え隠れしているつむじを後背から見下ろしつつ、頬杖をついて考えに耽る。
冥王とここにいる乳兄弟と……。
差し伸べられた二つの手のうち、ナシェルが握り返したのはあろうことか、父王の手だった。
そうしなければならないという強い義務感が、あのときナシェルにはあった。
父王とともに堕ちる道を選択しなければ、ヴァニオンがどうなっていたか分からないから。だからあのときした選択は、誤ってはいない……。
けれど、何よりもナシェルが途方に暮れてしまうのは、ヴァニオンを自分が振ったという認識があるにもかかわらず、今、どうしようもなくこの男のぬくもりを、この男の想いを、求めている自分がいるということだ。
……あのとき以来、二人の間に触れ合いはない。
ナシェルと冥王との関係を知ったあと、ヴァニオンは明らかにナシェルに直接触れるのを避けるようになっていた。嫌悪感や忌避感からではない。ナシェルの存在を“主君の所有物”と認識したようで、自分にはそれに触れる資格がないと考えているかのようだった。
兄弟のように育ったのに、以前はあれほど密接していたのに、これでは、近くに居ても互いに遠い存在になってしまったようだ……。
ナシェルは頬杖をやめ、膝を両腕で抱え丸くなった。
ヴァニオン。なぜ私の傍に来ない?
……今、私がこんなにも淋しい気持ちを抱いているというのに、なぜこの男は呑気に私の目の前で寝そべっているのだろう。以前なら、私が淋しさを抱くより前に、その逞しい腕で抱き寄せてくれたのに。
最果ての地に、お前と私。二人きりなのに。咎める者は誰一人いないのに。
一向に距離を詰めようとしてこないヴァニオンに苛立ち。
その理由が『自分が彼を選ばなかったから』だとちゃんと分かっているのに、それを棚に上げて彼の抱擁を求めている、
……己のそうした自分勝手な思考回路に、またも鬱屈する……。
「……お前があの城を貰い受けたら、しばらく会えなくなるかもな」
のんびりと、暗黒界の薄靄の空を見上げているかに見えたヴァニオンが、不意にそう切り出した。
「……会えなくなる? どうして?」
「俺、親父に冥界軍に入るように云われているんだ。親父は俺に炎獄界だけじゃなく、軍の指揮官職も継がせたいんだろうな。俺も、親父の跡継ぎとして認められること、そろそろ真剣に考えなきゃいけないとは思ってる……。軍に入ったら、お前とも離れ離れだ。もう今までみたいに、始終つるんじゃいられない」
ナシェルの位置からは、そう語るヴァニオンの表情はよく分からない。彼は云い終えると口も目も閉ざしてしまった。ナシェルの返事を聞くことよりも、その事実を告げることが重要だったとでもいうように……。
ジェニウスが『考えていないわけではない』と云っていたのは、これのことだったようだ。
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