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第三章 蝶の行方
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ナシェルは動揺を隠して頷く。
「……そうか。それもありかもしれないな。お前がそうしたいと思ってるなら、私のことなど気にせずにそうすればいい」
嘘だ。それは嘘だ。私の嘘に気づいてくれ。
そう叫び出したかった。
もし許されるならばナシェルは立ち上がり、乳兄弟の横へ座って、私のそばを離れるなと、彼の指を握りしめたいのだ。
けれどヴァニオンの愛をしりぞけた自分に、どうしてそんな自儘な振舞いができるだろう?
結局ヴァニオンの言葉に対しては、想いと正反対のことを口走るしかない。
それにしてもああ、なんと独り善がりな己の性質!
身も心も冥王の鞭に酔いしれているのに、一度手に入れたこの男の心が、なにか他の生き甲斐を見つけることを良しとはしていないのだ。
私を追って欲しい。
けれど絶対に、それを口に出すことはできない。
沈黙はしばらく続いた。
やがて乳兄弟はむくりと上体を起こし、緋色のマントに草をたくさんひっつけたままナシェルの方を振り返って、黒曜の瞳でナシェルを真っ向から貫いた。
「……お前、俺が本当にそうしたがっていると思うのか?」
魔族の貴公子の、曇りのない眼差しに射竦められて、ナシェルは動揺を押し殺すため目を逸らすしかない。
「……私とつるんでいても、お前が辛いだけだろう。ならば一度離れてみるのも、いいかもしれない」
「……ああ、そうかよ」
ヴァニオンはぶっきらぼうに応じ、また正面を向いてナシェルに緋色の背を見せた。
――違う、逆なんだ。
どこへも行くな、ヴァニオン。
ああ早く、早く前言を撤回して、そんないいつけは無視して私のそばにいろと云わなければ、この男は本当に私の目の届かない所へ行ってしまうぞ……。
けれど、お前の愛に応えられない私にお前の生き方を縛る資格はない……。
不意にヴァニオンは前を向いたまま肩を震わせた。何かと思ったら、吹き出しているようだ。
「嘘をつくなよナシェル。目を見たら分かるさ」
ナシェルの考えていることなどどうやら乳兄弟には、お見通しのようだった。
そして草を払って立ち上がった彼は、土手を登ってきてナシェルの目の前に立つ。ナシェルも、つられて立ち上がっていた。
至近に立ち、二人は見つめ合う。
ヴァニオンの唇がなにかを云いかけ、ためらうように閉ざされる。
ナシェルはそれを見た瞬間、叫び出したい言葉を喉の奥で必死に我慢する。
―――ヴァニオン。
今、わたしがお前の口から聞きたいのは、今も変わらず私を愛しているという告白だけだ。
お前のその瞳はそう物語っている。
乳兄弟の口が開いて、変わらぬ愛が誓われるのを、ナシェルは待ち焦がれていた。
けれど乳兄弟が次に口に出したのは、思いがけない台詞だった。
「なあナシェル、この河の向こうまで、行ってみないか、俺達」
河の向こう側は地上界だ。
それはつまり、二人で逃げるということか。
ナシェルは目を瞠った。
ほんとうに王を選ぶか、それとも俺かと、再度選択を突きつけられているような気がした。
乳兄弟の黒い瞳がナシェルの反応を窺うようにつかの間細められる。失いきることのできぬナシェルへの想いを押し殺すように視線があちこちへと揺らぎ、根負けしたように、愛おしげにナシェルをとらえ、数度瞬く。
その黒々とした睫毛を、ナシェルは凝っと見つめ返す……。
たしかに二人の黒天馬なら、この河を超えられるだろう。渡ることは禁忌だけれど――。
返答を待つヴァニオンの眼差しは意外なほど穏やかだった。自分がどんな重大事を唆かしているのか、分かっているのだろうか。
地上界へ出る。
それはこの常闇の世界との訣別を意味し、同時に彼らを縛る柵との訣別を意味している。
ナシェルにとっては抗えぬ定めへの、致命的な反逆をも意味するのだ。
ナシェルは我知らず半歩下がる。ヴァニオンの背後に、不意に紅の眼をした長身の影がちらついたような気がしたのだ。
影はナシェルがどうするのかを、試すように目を細めて窺っている。斜に構え、優美な二の腕をそっと肘のあたりで組み、自分と同じ顔に冷ややかな微笑を浮かべて…。
ナシェルは喘ぐように頭を振った。父だ。
父の幻が自分を見つめている。
(落ち着け、これは、錯覚だ)
大きく息を吸って吐き出すと、父の影は小さく首を振ってナシェルから目を逸らし、背後の闇と同化して消えた。
ナシェルはどこにいても父の気配を感じる。闇神の御子としてこの世に生きる限り、永久にその甘美な闇の呪縛から解き放たれることはない。あるいはそれは、父の敷いた隘路の上に立つ自分の、すでに正常ならざる領域に達した精神が見せる幻妄なのかも知れぬが。
……だとしても、脳裏の造り出す父の幻像は常にああして紅の眼で自分を、闇の彼方から見つめているのだ。ナシェルはたびたび顕れるその幻像の真偽を、確かめるすべを持たない。もしかしたら本物の父かもしれないと思うと、幻影に対してさえただ怯え畏まるしかない。
父の姿が泡影であったことを確かめたナシェルは、やっと金縛りから解かれたように全身を弛緩させた。
もつれがちな言葉を一語一語区切って、声にする。
「地上界へ……。それは、この世界を、捨てると、いうことか……?」
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