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第三章 蝶の行方
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「――待て、まだ開けるな、ヴァニオン」
鋭い声が背後から飛ぶ。
振り返ると、立ち上がったナシェルがいつもの簡素な旅装を素早く羽織って、襟元の髪をかきあげ、埋もれた自分の髪を引っ張り出す所だった。
顔はまだ蒼白いが、眼差しにはいつもの明敏さと、かすかな険と、色気が戻りつつある。
「そのほう……アシュレイドとやら。ヴェルキウス公の命令だと云ったな? 我が父ではなく――」
ナシェルは釦を留めながら歩み寄ってきて、ヴァニオンを制し、扉外へ声を投げる。
鋭い目つきだった。とても、今の今まで洗面所で吐いていたのと同じナシェルとは思えない。
扉の向こうで、アシュレイドと名乗った魔族の男は、王子のしっかりした声を聞いて少し安堵した様子だ。
「は…はい。陛下は未だ魔獣界への行幸中で冥府には戻っておられません。ですが、御留守を預かる公爵閣下のご命令で……」
「ならば、私は冥府へは帰らない」
驚き、目を剥いたヴァニオンの隣で、ナシェルは心もち先ほどよりも顎を上げて傲然としていた。
袖からのびた白い手を腰に当て、普段王宮で我儘を云っている時と同じ顔つきだ。
対して、扉の向こうの男は焦った様子で問い返してくる。
「いま、何と――おっしゃいましたか、殿下?」
「私は冥王宮へは帰らぬと云ったのだ」
「なにゆえに……、と、お伺いしても宜しゅうございますか」
「いいだろう。なぜならヴェルキウス公爵は、息子ヴァニオンを軍職に就かせて私から彼を引き離そうとしている。それは、じきに暗黒界の領主となる私が思い描いていた構想とは明らかに相反するものだ。
それに元々は我が父も、公爵も、私がヴァニオンを暗黒界に連れていくことに賛同していたはずである。拝領が差し迫った今となって突然そのような方針を示され、私たちはひどく混乱している。
私は公爵のその方針への抗議として、ヴァニオンを地上界へ連れ出したのだ」
「おいナシェル。お前、それは違……」
ナシェルは素早く、ヴァニオンの手に己のそれを重ねた。そして小声で云った。
「し。いいから黙ってろ、」
そしてナシェルは扉外の反応を窺った。
扉の向こうで、アシュレイドと名乗る騎士は明らかに狼狽の色を隠せないでいるようだ。
「殿下、殿下。そのような込み入ったお話は後ほど冥府の王宮にてお伺い致しましょう。ともかくも、一先ずここをお開け下さい!」
「嫌だ」
「殿下! では貴方様のお望みは一体……!?」
扉の向こうの声は弱り切っていた。おそらく騎士アシュレイドは、二人に追いついただけで己の職責は果たしたつもりでいたのだろう。
「私に帰ってほしくば、『ヴァニオンを軍になど入れず、これまで通り私の側仕えを続けさせる』と、ヴェルキウス公爵から言質を取ってこい。またこの件に関してヴァニオンには一切咎めを負わせぬ、ともな。そうしたら、父上が行幸先から戻られる前に、ちゃんと冥府に帰ってやる」
「な!?」
扉の向こうでアシュレイドは、それきり暫く絶句していた。
ヴァニオンには、ナシェルの考えがすぐに判った。
ここにいる追っ手が冥王の差し向けた者でないとすると、王はまだこの件を大袈裟に扱うつもりはないということになる。ナシェルの気配が地上界へと遠ざかったことには当然気づいているはずだから、酌量を与えられていると云うことか。それとも若い王子たちの過ぎた冒険心だとでも笑い飛ばすつもりなのだろうか。
どちらにしても、冥王の命令でないのであればナシェルが諾々と、無条件にこの求めに応じる必要はないのである。
ナシェルは、このヴァニオンとの逃避行めいた旅を、自分の発案した事にするつもりなのだ。ヴァニオンの父である公爵が二人を引きはなそうとしている事…、それに対する抗議、という形に。
対する公爵には時間がない。冥王が王宮へ帰着するよりも先に、ひいては大ごとに発展して手遅れになる前に、とりあえず一刻も早く二人を連れ戻させたいはずだ。
ナシェルはそれを利用して、公爵に、ヴァニオンの入軍を諦めさせたいのだ。
公爵が肯ずけば、ナシェルは二つの利を得ることができる。
ひとつは、乳兄弟ヴァニオンを軍にとられずに今後も己の側に置き続けることができるということ。
そしてもう一つは、家出の責任を自分が持つことで、ヴァニオンに責任を問わせないでおくことができる。
二つとも相手がヴァニオンの父だからこそ交渉が可能な問題で、相手が冥王であればこうはいかないだろう。
瞬時にそこまで考えて扉外とやりとりしているナシェルの明晰さを、ヴァニオンは舌を巻く思いで見つめていた。
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