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第三章 蝶の行方
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アシュレイドと名乗った魔族の騎士は、たっぷり数十秒は逡巡するように押し黙っていたが、やがて恐る恐る口を開いた。
「『言質を取って来い』とのお言葉でありますが、それは不要と存じます。なぜなら私は公爵より、以下のように殿下にお伝えせよと申し伝えられているからです。つまり、『もし殿下が御心になにか大憂煩慮を患っておいでで、それが今回のことに繋がっているのならば、自分が殿下のそのご心痛を取り去るべく誠心誠意努力する』と公爵は申しておられました」
「つまり『不満があるなら何でも云う通りにするからひとまず帰って来てくれ』と公爵が云っている、ということだな?」
「――さようにございます。ゆえにその件について言質は不要、と申し上げたのです」
(――幸運だったな、)
ナシェルは目を細めた。どうやら公爵は、最後に会った時のナシェルの鬱々した様子から、何か重大な悩みを抱えているのだと悟ってわざわざそのような伝言を託してきたのだ……、あれは……父上に手ひどく抱かれて、精神的にふて腐れていただけなのだがな――ともかく、この場合、ジェニウスの誤解は幸運だ。冥王から留守を預けられている彼の、慌てふためく様が瞼の裏に浮かんでくる。
「ならばアシュレイドとやら。いま私が要求した件について、そなたが責任を持って公爵に伝え確実にそのように取り計らえよ。私はその件に関して公爵と再度議論を重ねる気はないし、約束が果たされないのであれば何度でも家出してやるぞ」
「承知致しました。殿下の御心のままに――」
扉の外でアシュレイドが膝をつく気配がする。
ナシェルはそこでようやくほっと、体の強張りを解いた。いつの間にか緊張で体を固くしていたらしい。
(そうか、父が差し向けた追っ手ではない……。公爵なのだ。だから、探すのに、追いつくのに、時間がかかった。
では、父が差し向けてこないのはなぜか……?
父の追っ手なら―――ヴァニオンはたぶん扉を開けた瞬間、反逆者として斬り殺される)
ナシェルはそのとき父の意図と、与えられた猶予とを理解した。
王が出てくるわけにはいかないのだ。公爵どまりにしておかなければならない。
でなければ父は、最重臣である筆頭公爵家の嫡子ヴァニオンを殺さねばならぬ――それは少なくともジェニウスとの間に、ひいては魔族らとの間に見えない亀裂を生むことになるだろう。
『魔獣が蔓延る広大な冥界を、平和裏に治めていくためには彼ら魔族の忠誠は不可欠である』と父は常々云っている。王とナシェルだけではこの冥界は成り立たぬ。魔族らの協力がなければ……。その考えからすると家臣の子といえどむやみに強権的に処刑はできぬ、と?
(だから父はあえて公爵に対処させて、私が冥府へ戻るまで魔獣界に留まっているのか―――?)
「殿下、無事の御姿を拝見しとうございます。この扉をお開け下さいましょう哉?」
ナシェルはヴァニオンに向かって「開けてやれ」とばかり小さく首肯した。
意を受けたヴァニオンが持っていた剣を鞘ごと寝台に抛り、扉に近づいて開けようとする。
すると、やおらナシェルが、ヴァニオンの手首をぐいと掴んで一瞬、引き留めた。
振り向いたヴァニオンの懐にナシェルがふわりと、飛び込む。
――吐息が漏れてしまわぬように、息を殺して唇を重ね、互いの頬を掌に挟んで至近に見つめ合う。
(ヴァニオン、ありがとう。感謝している。塞ぎ込んでいた私を浮上させようと精一杯のことをしてくれたお前の優しさに……。楽しかった――だがこれで、現実逃避の刻も終わりだ。私には、やはりあの世界で相対せねばならぬものがある……。それはどこへ逃げても私を解放することのない、命の息吹とともに与えられた定めなのだ。私はここまで逃れて来て、漸くそれを再確認させられた)
(――最後だよ。最後だ。おれがお前に口づけしてやれるのは、これが最後――。
お前が決めたことだ。陛下と共に生きると決めたのなら、もう俺なんかに、縋ってくるんじゃねえぞ)
ヴァニオンの腕の中でナシェルは、持ち合わせの自尊心など全て捨て、感情を露わにヴァニオンにしがみついていた。
切れ長の目尻に涙の雫を溜めて。
ヴァニオンはナシェルの眦を親指で拭い、再び覆いかぶさるように上から、冷えた彼の唇を啜った。
……その間、わずか数秒。
最後の口づけの名残りを惜しむ暇もなく、王子から離れ、外で待っている魔族の騎士のために宿房の扉を開けてやる。
そうしてヴァニオンが振り返ったときにはもう、その場に佇むナシェルの貌から一切の哀切の情は失せていた。
そこにあったのは、魔族を従える冥界の日嗣の王子としての貌だ。若しくは、雑魚の如き忌まわしき人間どもの魂を統べる、死の神としての頽廃に満ちた虚貌であった。
人の姿に身を窶し、人とさして変わらぬ旅装に身を包んでいながらも、ナシェルのその姿はなんと人間界のすべての調度に、背景に釣り合わぬことであろう!
「……殿下、ご無事でようございました」
膝をつく騎士の声は、安堵のあまりか震えていた。
「お手を取らせて頂いても宜しゅうございますか」
ナシェルは鷹揚に頷き、袖口からはらりと手の甲をかざした。
本当のところはまだ眩暈と悪寒がしていて、立っているのがやっとだった。すぐにでも水場に引き返して、残り少ない胃の中の物を吐瀉してしまいたかった。
しかしそれを悟らせぬように彼は浅く息を吐ききり、まぶたを閉ざし、表面上は昂然たる態度で…、手に口づけされている間じゅうずっと吐き気を堪えて息を止めていた。
黒騎士から臣下の礼を受けるナシェルの、あでやかで神々しい姿。
それがぎりぎりの努力によって取り繕われたものだとも気づかずに、
ヴァニオンはその姿を記憶に焼き付けるようにゆっくりと目蓋を閉ざす。
――おかしなものだ。あのとき幻獣界の野で、俺たちは一度別れを経験したはず。
その別れをもう一度繰り返しているだけなのに、どうして前よりもずっとずっと切り裂かれたみたいに、ここが、
魂が、悲鳴を上げていやがるんだ――
「『言質を取って来い』とのお言葉でありますが、それは不要と存じます。なぜなら私は公爵より、以下のように殿下にお伝えせよと申し伝えられているからです。つまり、『もし殿下が御心になにか大憂煩慮を患っておいでで、それが今回のことに繋がっているのならば、自分が殿下のそのご心痛を取り去るべく誠心誠意努力する』と公爵は申しておられました」
「つまり『不満があるなら何でも云う通りにするからひとまず帰って来てくれ』と公爵が云っている、ということだな?」
「――さようにございます。ゆえにその件について言質は不要、と申し上げたのです」
(――幸運だったな、)
ナシェルは目を細めた。どうやら公爵は、最後に会った時のナシェルの鬱々した様子から、何か重大な悩みを抱えているのだと悟ってわざわざそのような伝言を託してきたのだ……、あれは……父上に手ひどく抱かれて、精神的にふて腐れていただけなのだがな――ともかく、この場合、ジェニウスの誤解は幸運だ。冥王から留守を預けられている彼の、慌てふためく様が瞼の裏に浮かんでくる。
「ならばアシュレイドとやら。いま私が要求した件について、そなたが責任を持って公爵に伝え確実にそのように取り計らえよ。私はその件に関して公爵と再度議論を重ねる気はないし、約束が果たされないのであれば何度でも家出してやるぞ」
「承知致しました。殿下の御心のままに――」
扉の外でアシュレイドが膝をつく気配がする。
ナシェルはそこでようやくほっと、体の強張りを解いた。いつの間にか緊張で体を固くしていたらしい。
(そうか、父が差し向けた追っ手ではない……。公爵なのだ。だから、探すのに、追いつくのに、時間がかかった。
では、父が差し向けてこないのはなぜか……?
父の追っ手なら―――ヴァニオンはたぶん扉を開けた瞬間、反逆者として斬り殺される)
ナシェルはそのとき父の意図と、与えられた猶予とを理解した。
王が出てくるわけにはいかないのだ。公爵どまりにしておかなければならない。
でなければ父は、最重臣である筆頭公爵家の嫡子ヴァニオンを殺さねばならぬ――それは少なくともジェニウスとの間に、ひいては魔族らとの間に見えない亀裂を生むことになるだろう。
『魔獣が蔓延る広大な冥界を、平和裏に治めていくためには彼ら魔族の忠誠は不可欠である』と父は常々云っている。王とナシェルだけではこの冥界は成り立たぬ。魔族らの協力がなければ……。その考えからすると家臣の子といえどむやみに強権的に処刑はできぬ、と?
(だから父はあえて公爵に対処させて、私が冥府へ戻るまで魔獣界に留まっているのか―――?)
「殿下、無事の御姿を拝見しとうございます。この扉をお開け下さいましょう哉?」
ナシェルはヴァニオンに向かって「開けてやれ」とばかり小さく首肯した。
意を受けたヴァニオンが持っていた剣を鞘ごと寝台に抛り、扉に近づいて開けようとする。
すると、やおらナシェルが、ヴァニオンの手首をぐいと掴んで一瞬、引き留めた。
振り向いたヴァニオンの懐にナシェルがふわりと、飛び込む。
――吐息が漏れてしまわぬように、息を殺して唇を重ね、互いの頬を掌に挟んで至近に見つめ合う。
(ヴァニオン、ありがとう。感謝している。塞ぎ込んでいた私を浮上させようと精一杯のことをしてくれたお前の優しさに……。楽しかった――だがこれで、現実逃避の刻も終わりだ。私には、やはりあの世界で相対せねばならぬものがある……。それはどこへ逃げても私を解放することのない、命の息吹とともに与えられた定めなのだ。私はここまで逃れて来て、漸くそれを再確認させられた)
(――最後だよ。最後だ。おれがお前に口づけしてやれるのは、これが最後――。
お前が決めたことだ。陛下と共に生きると決めたのなら、もう俺なんかに、縋ってくるんじゃねえぞ)
ヴァニオンの腕の中でナシェルは、持ち合わせの自尊心など全て捨て、感情を露わにヴァニオンにしがみついていた。
切れ長の目尻に涙の雫を溜めて。
ヴァニオンはナシェルの眦を親指で拭い、再び覆いかぶさるように上から、冷えた彼の唇を啜った。
……その間、わずか数秒。
最後の口づけの名残りを惜しむ暇もなく、王子から離れ、外で待っている魔族の騎士のために宿房の扉を開けてやる。
そうしてヴァニオンが振り返ったときにはもう、その場に佇むナシェルの貌から一切の哀切の情は失せていた。
そこにあったのは、魔族を従える冥界の日嗣の王子としての貌だ。若しくは、雑魚の如き忌まわしき人間どもの魂を統べる、死の神としての頽廃に満ちた虚貌であった。
人の姿に身を窶し、人とさして変わらぬ旅装に身を包んでいながらも、ナシェルのその姿はなんと人間界のすべての調度に、背景に釣り合わぬことであろう!
「……殿下、ご無事でようございました」
膝をつく騎士の声は、安堵のあまりか震えていた。
「お手を取らせて頂いても宜しゅうございますか」
ナシェルは鷹揚に頷き、袖口からはらりと手の甲をかざした。
本当のところはまだ眩暈と悪寒がしていて、立っているのがやっとだった。すぐにでも水場に引き返して、残り少ない胃の中の物を吐瀉してしまいたかった。
しかしそれを悟らせぬように彼は浅く息を吐ききり、まぶたを閉ざし、表面上は昂然たる態度で…、手に口づけされている間じゅうずっと吐き気を堪えて息を止めていた。
黒騎士から臣下の礼を受けるナシェルの、あでやかで神々しい姿。
それがぎりぎりの努力によって取り繕われたものだとも気づかずに、
ヴァニオンはその姿を記憶に焼き付けるようにゆっくりと目蓋を閉ざす。
――おかしなものだ。あのとき幻獣界の野で、俺たちは一度別れを経験したはず。
その別れをもう一度繰り返しているだけなのに、どうして前よりもずっとずっと切り裂かれたみたいに、ここが、
魂が、悲鳴を上げていやがるんだ――
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