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第三章 蝶の行方
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冥王が巡幸先から冥界の首都・冥府へ帰還したのは、ナシェルとヴァニオンが地上界の旅を終えて戻ってすぐのことだった。
ナシェルは何食わぬ顔で王宮の外に出て父王を出迎えた。公衆の面前で笑みを湛えて「お帰りになるのを待っておりました、随分と長滞在でしたね」などと方便し、みずから父王に抱擁されに一歩進み出でる演技には、どのような過酷な戦場よりも度胸が必要だった。
それを成し遂げながらナシェルの心臓は、父王への畏怖で異常なまでに拍動していた。
冥王はナシェルの背を軽く抱いて普通の親子らしき親愛を示しながら、我が子の忍耐強い態度と鉄面皮な演技になにか言いたげに眉を動かした。しかし臣下に囲まれたその場では、無断で冥界を離れたことについて具体的な叱責を彼に浴びせることはなかった。
ナシェルは再会の義務を果たすと早々にその場から退散した。例の優雅な口調で「ついておいで、話があるのだよ」などと声を掛けられるのが何よりも恐ろしかったのだ。
退散してしまうと今度は、今か今かと、父王からの呼び出しを恐れはじめた。王宮の自室に籠り、せわしなく指を組んだり神経質に膝を揺すったり、気を紛らわそうと余所事を考えてみたりしたが無駄だった。
その日は帰府したばかりで政務に忙しい王から呼び出しは結局なく、ナシェルの不安はそのまま終わることなく持ちこされることになった。真っ先に呼びつけて叱責もしくは仕置きされるなら、その方がいくらかましだと思えるほどに、王の沈黙の態度は彼にとって不気味なものであった。
冥王が帰還してすぐ、冥王宮では、若い騎士たちの叙勲式が行われた。
叙勲を受けるのは一度に数十名。一般階級の魔族もいるがほとんどが冥界貴族の子弟である。
回廊に見下ろされた豪奢な中庭のひとつに集められた若者たちは、王より直々に騎士団員の証としての徽章と、冥王の神司によって加護を受けた帯剣を授けられ、冥界軍、そして黒翼騎士団の一員となる。
式には、冥王とナシェルをはじめ、冥界軍総指揮官である軍務卿ジェニウス・ヴェルキウス公爵、軍統帥長ヴェルゼブル公爵以下、冥界貴族のそうそうたる顔触れが出席していた。
叙勲式は若者のいる冥界貴族の家々にとってとりわけ名誉な行事であるゆえ、宮廷行事のうちでもことさら盛大に行われるのが常であった。
……式が終わり、城の中層階では晩餐会が催されている様子だ。
ヴァニオン・ヴェルキウスは上層階の回廊の手すりに所在なげに凭れて階下の中庭を見下ろしていた。
ほろ酔いで談笑している貴族の歴々や、騎士団の真新しい制服に身をつつんだ若騎士たちの誇らしげな顔を、何とはなしに眺めている。
ヴァニオン自身も、本来ならばあの場にあって叙勲を受けていたはずであった。
とはいえ、軍籍に入らなかったことを悔しいと思う気持ちは一切ない。
ナシェルが「軍になど入る必要はない。友人として、乳兄弟として、これからも私のそばに居ろ」と云ってくれているのだ。騎士なんぞになるより、ナシェルにくっついて暗黒界に行ったほうが、数倍面白そうだとヴァニオンも思っている。
けれどその件で、ヴァニオンと父親であるヴェルキウス公爵の間には大きな亀裂が生まれてしまった。ジェニウスは、お前がついていながらなぜ殿下をお止めできなかったのだとヴァニオンを激しく叱り、あれ以来ヴァニオンは冥府の公爵邸では勘当同然の扱いを受けている。さらに父は、軍に入れることができなくなったヴァニオンを、今後どうやって炎獄界の後継者として周囲に認めさせてゆくかについて、悩んでいる様子だ。
(――親父には悪いが、俺には、身分に縛られる生き方は似合ってない気がする。これでいいんだ。あの中にいたら、この先、冥王に忠誠を誓わなけりゃいけない……俺の主君は、ナシェルただひとりだけだ)
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